友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

好きなことは続けられる

2009年05月16日 20時05分17秒 | Weblog
 14日にタイへ帰っていった次女夫婦が寝泊りしていた部屋を片付け、元のように家具を置くとやっと以前の生活に戻ったような気持ちになった。そのせいなのかどうかはわからないが、カミさんはお昼からずっと『数独』に取り組んでいる。かれこれ4時間も続けているのだから、たいしたものである。私も時々クイズをやってみることがあるけれど、そんなに長い時間続けることは出来ない。解き明かせないことの方が癪に障ると彼女は言うが、投げ出したくならないことの方が不思議だ。

 私が出来ることは、文章を書いていたり、絵を描いていたり、そういうことなら何時間でも同じことを続けていられる。だから、好きなことは続けられるということだろう。私は小さな時から絵を描くことが好きだった。その絵を描くことよりも夢中になったのは、家の間取り図を描くことだった。家業が材木屋であったから好きということではなく、新しい家に住みたいとの思いが間取り図を描かせたのだった。

 父は長男であったのに、小説家になりたい、小説家になるには医者になり時間とお金を保証したい、などと考えるとんでもなく現実離れした人だったようだ。結局は小学校の先生で一生を終えたけれど、小説家になりたい思いで家を飛び出していたので、戻ることはなかったようだ。跡継ぎである父の弟が戦死し、家業を兄が継いだので、兄の要請で私たちも材木屋に移った。けれども住居とは名ばかりで、倉庫の一部を改装した部屋だった。洗面も風呂も母屋にしかなく、とても不自由な生活だった。

 だからだと思うけれど、材木屋の事務所に置いてあった建築雑誌を見るのが好きで、そしていつしか方眼ノートに間取り図を描くようになっていた。また、見よう見まねで完成予想図や部屋の様子をスケッチブックに描いていた。試験中でも何か思いつけば、そっとノートに書き込み、試験勉強よりも夢中になってしまったこともあった。あのたくさんのノートと何冊かのスケッチブックはどうしたのか、覚えていない。

 材木屋がつぶれて、すでに父も母もいなかったが、兄夫婦は離婚し、妹は姉のところへ、私は大学の先生の家の書生となり、一家は離散した。今は兄の二人の息子とその家族とはお正月には私の家で、お盆は墓参りをした後で一緒に食事会をしている。兄の子どもたち、そういってもすでに50歳近くなるが、子どもの頃は苦労したのだろうと思うものの、だからといってどうしてやることもできず、毎年集まって酒を酌み交わし、できる限り兄や祖父母である父や母のことを話すようにしている。

 私はあんなに間取り図を描くことが好きだったのに、自分の家は建てられなかった。それで、住んでいるマンションの改装は自分で間取りを描いて業者さんにお願いしている。マンションならばこんな風な間取りにすれば快適な暮らしになるのではないか、そんなことをマンションや建売住宅の折り込みチラシを眺めながら考えるのが、今も好きだ。
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