友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

父親の死は45年前

2007年11月13日 20時00分05秒 | Weblog
 知人のお母さんが亡くなった。明治44年生まれ、数えの97歳という。そうか、私の父親と同じ年の生まれかと思った。5歳の時にブラジルに渡り、勉強するために兄弟とともに帰国したが、戦争のためにブラジルに戻れなくなったそうだ。戦後は洋裁学校を開き、大勢の生徒を教える。しかし、夫を亡くし、女手一つで子どもたちを育て上げた。知人から子どもの時に小牧のキリスト教の幼稚園に通ったと聞いた。きっと苦労はあったであろうけれど、子どもにはよい教育を授けたいと考えていたのだ。

 知人は、キリスト教の幼稚園に通ったことが、美的なセンスを育て、後にファッションの世界で生きていく上で大いに役立ったとも語っていた。葬儀の最後のご挨拶で、喪主である知人の夫は「私が内臓を悪くしていた時、母親は、好きだったお茶を断ち、養子の私の身体を心配してくれた。そういう心根の優しさを私たちも受け継いでいきたい」と話された。「おばあちゃん」と呼んでいたが、その人柄をよく表すお話だった。

 私の父は、家業の材木屋を継がず、2歳年上の女性と結婚し、結婚しながらも自分の「夢」を追っていた人らしい。姉の話以外には父親がどういう人だったのか、その内面までは知らない。私が知る父親は、私たちには甘い父親だった。私が小学校の高学年になる頃には、父親と母親と妹の4人で1年に1度、揃って出かけていたことを覚えている。伊勢に行った時、今、問題になっている「赤福」の座敷で、女将さんが相手をしてくださって、赤福を食べた記憶がある。父親にとっては、自慢な場面だったのだろうが、校長に対する店の接待だったのだろう。

 父親が残した日記を読むと、姉が言うこともよくわかる。校長室の机の上の花びんに新しい花がいけてある。「あなたがいけてくれた花だと思うといとおしくてならない。運動場から聞こえるあなたの声が小鳥のように聞こえる」などとある。小説家になる「夢」と、自分が普通の校長でしかない現実が交差して、自分が作り上げた世界に入り込んでいる。まるで私は父親そっくりだなと、自分のことを笑ってしまう。

 父親は家にいる時は静かに本を読んでいるか、気に入った挿絵をスケッチブックに模写していた。滅多に大声を上げることもなかったし、怒りを表すこともなかった。一度、家族全員が食事をしている席で、祖父に食って掛かったことがあった。何が原因だったか全く覚えがないが、父親が怒った姿を見たのはこの時しかない。母親がガンで闘病生活に入るとずっーと付き添って献身的に看病していた。ガンということを母親が亡くなるかで、誰にも言わずに自分ひとりで背負い込んでいた。

 退職金で土地を買いながら、家業を継いだ兄が事業に失敗することがわかっていながら、その土地を売り、事業の再興のために費やした。最後には兄に代わって事業をしようとまで思っていたようだが、何しろ世間知らずだった。倒産を目前にしてこの世を去った。45年も前のことだ。父親が亡くなって10日目に、祖父も逝った。あんなに仲の悪い親子だったけれど、長男を失った祖父に生きる力はなかったのだ。

 祖父も父親も父親の身代わりに家業を継がされた兄貴も、幸せな人生だったのだろうか。幸せは他人がどうこう言うようなものではない。本人が幸せと思えば幸せなのだから。祖父も父親も兄貴も自分らしく生きたという意味では幸せな人生だったと私は勝手に思っている。いや、そうじゃーないと言うなら、3人はそれを見せて欲しい。多分、母親はそう言い出しそうな気もするが、逆に意外にあの人は一番肝が据わっているかもしれない。
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