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19試空3号電波探信儀30型(51号) (Prototype 19 Air Mark 3 Model 30 Radar )の解説

2018年10月01日 08時48分05秒 | 03旧軍電探機器解説

19試空3号電波探信儀30型(51号) (Prototype 19 Air Mark 3 Model 30 Radar )の解説


 諸元表
略称---------------------------------------------51号
目的---------------------------------------------大型機用電波暗視機
周波数 ----------------------------------------- 3000Mcs
繰返周波数-------------------------------------- 600cps
パルス幅 ----------------------------------------1.4μs
尖頭電力出力-------------------------------------6 kw
測定方式-----------------------------------------パノラマ方式
出力管-------------------------------------------空冷式M-314マグネトロン
受信機検波菅-------------------------------------鉱石検波器
空中線 ------------------------------------------送受共用ハラボラ反射鏡
IF、mcs .----------------------------------------?Mcs
受信利得-----------------------------------------? db
最大範囲-----------------------------------------20km 
測距精度-----------------------------------------
測方精度----------------------------------------- °
電源--------------------------------------------直流回転式交流発電機
重量--------------------------------------------200 kg
製造--------------------------------------------日本無線
製作台数----------------------------------------

[a1]  Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946

 


パノラマ式51号電探開発について

パノラマ式51号電探に関するまとまった資料や文献はみあたりません。
このため本機の全体像を明らかにするため、既存の関係文書やネット情報を整理し以下の2点を中心に調査するこことした。
調査項目;パノラマ式51号電探の開発経緯と終戦までに完成していたのか

51号レーダーの記述項目抜粋
日本海軍エレクトロニクス秘史 田丸直吉 P225抜粋
22号レーダーの単一導波管化が完了して次の課題は爆撃機用のパノラマ・レーダ(51号)を作り上げることであった。
この研究開発は電波研究部と横須賀の航空実験隊とが直接協力して行うことになった。
昭和19年11月に九州方面に来襲したB-29を撃墜し、有明海につっ込んだ機体から米軍のパノラマ・レーダーを手に入れることが出来た。
之は東京に運ばれて陸海軍共同で調査を行い詳しい内容が判明した。当時霜田氏が之をスケッチした絵を見ると、之は私が半年前にベルリンのゲズントブルネンの研究室で見せられたウェスタン・エレクトリック製のレーダーと全く同じものであることが判った。
このような参考資料もあったのでこのレーダーの試作は比較的楽な気持ちで進められた。
航空機搭載用と云うことで特別な送信マグネトロンM-314が試作された。
このマグネトロンには始めて酸化物陰極が使用された。
従来のマグネトロンの構造と全く異なり、ソレノイド・コイルの中に真空管を挿入するような方式をとった。
その為に取扱いには難渋したらしいが充分な出力は得られた。
実験機には一式陸攻が使用された。之の下部機銃座に特別製のラドームを作ってスキャナーをとりつけた。
概ね実験が始められそうになって横須賀の空襲が激しくなり、4月にこの実験隊は三沢に移動するこことなった。
電波研究部で桂井少佐の下でこの実験を担当していた斎藤大尉、高木技手及び放送技研から来ていた木下幸次郎氏の3名は三沢迄出かけて実験を行った。
7月になってどうにか飛行実験が行ない得る状態になった。
第一回の実験では半径15キロ程度の範囲しかエコーが出せなかったが、8月になって第二回の実験では30キロ位迄拡大され八甲田山の山なみがはっきりと映し出されたと云う。
まだAスコープの様子から見ると遠方のエコーも充分得られていたのでディスプレーの調整を入念にやればもっと広範囲の映像が得られる見込みであった。
終戦の直前に三沢は大規模な空襲を受けて建物が全焼してしまった。
そのため実験を続けることが出来なくなり3人共東京に帰った。
帰る途中で終戦になった。
こうして日本海軍のパノラマ式レーダーはもう一息と云う処で打ち切られた。
然し兎に角ブラウン管のスクリーンにエコーを出す処迄はこぎつけのである。

P230 用語解説
このパノラマ;レーダー(51号)は、「連山」という、米本土攻撃を目的とする四発の攻撃機に搭載される予定のものであったが、連山はやっと試作機の試験飛行を行っている情況であった。
51号試作の分担は、高柳技師が放送技研グループを活用してPPI方式の指示機と、そのブラウン管の蛍光塗料を、技研三鷹分室の鳩山道夫技師(ソニー初代研究所長)のグループと霜田氏が日本無線の協力を得て送受切替管、変調放電管、導波管及び空中線関係を、藤波恒雄技術大尉(現、原子力工業センター理事長)が、総体としてのエレクトロメカニカルの部分を担当し、機械設計は日本無線の設計部が行った。
試作機が完成に近くなったころ、斎藤技術大尉と高木技手は、22号受信機改二の改造作業から解放されて51号の調整試験のメンバーとして参加できるようになった。(桂井)

ラドーム(radome)は、RA(DAR)-DOMEより来た言葉である。
この風防は、電波を透過せしめるために誘電率εは1に近いこと、当然のこことして強風に対しても強いこと、空気抵抗が少ないことの三条件を満たす必要があった。
早期に、この様なものができるかと懸念しながら航空技術廠へ作成を依頼したところ、短期間に殆ど完璧と思われるものができてきた。(桂井)

日本海軍エレクトロニクス秘史 田丸直吉の用語解説に本機の開発目的が「このパノラマ;レーダー(51号)は、「連山」という、米本土攻撃を目的とする四発の攻撃機に搭載される予定のものであった」と記されている。
この記載は(桂井)とあるがどうも海軍技術少佐桂井誠之助氏のことのようである。
氏は元軍令部通信課長の回想鮫島素直の中で「昭和十九年四月に横須賀海軍工廠から電波研究部に転属となった桂井誠之助技術少佐がレーダー全般をみることとなった」とあることから海軍のレーダーの開発を所管された責任者のようである。
それでは、連山(中島 G8N 連山)についてネット検索出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』すると
1942年(昭和17年)に海軍内部で開かれた技術会議の席上で速力360ノット(約666km/h)、航続距離6000浬(11112km)、爆弾は最大4t搭載可能な遠距離攻撃機の要求がなされ[7]、同年12月末に海軍から中島飛行機に「実用機試製計画番号N-40」として大型陸上攻撃機の開発が「内示」された。中島飛行機はそれに基づいて計画を進め、翌1943年(昭和18年)9月14日に正式な発注が行われた。

[e19] 写真集 日本の爆撃機 昭和48年8月 丸編集部 光人社より


※なお、連山搭載の無線や電波兵装の開発仕様は不明であるが、電波研究部としては連山にパノラマ;レーダー(51号)搭載しようと意図したものと思われる。
パノラマ;レーダー(51号)は電波暗視機であり、夜間爆撃において重爆撃隊を目標地帯の上空へ誘導するだけではなく、その爆撃目標を正確に捕捉して、攻撃の火ぶたを切る――という、極めて高度の技量を要求され、非常に危険のともなう嚮導機(きょうどうき=バス・ファインダー)としての在務のための電波兵器であった。
したがって、パノラマ式51号電探については連山開発と同期して1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)9月14日の期間で開発構想が固まったものと思われる。
また、連山が1944年(昭和19年)10月には試作1号機が完成し、10月23日初飛行に成功しており、この時期から本格開発が始まったとのことである。

しかし、本機の開発にはドイツからの情報提供の要因も大きいようである。
以下、遣独潜水艦作戦を抜粋すると
遣独潜水艦作戦(けんどくせんすいかんさくせん)とは、第二次世界大戦中に遠く離れたドイツと日本とを結び、戦略物資及び新兵器やその部品・図面等、さらには大使館付武官・技術士官・民間技術者等日独両国の人材の輸送を行った日本海軍艦艇による数次にわたる作戦を指す。
第四次遣独艦[編集]
伊号第二十九潜水艦(艦長木梨鷹一海軍中佐)…駐独大使館付海軍武官小島秀雄海軍少将・永盛義夫海軍技術少佐(航空機)・田丸直吉技術少佐(電波兵器)・鮫島龍雄海軍大学校ドイツ語教授ら総勢17名の便乗者を乗せ、1943年(昭和18年)12月17日にシンガポール出航。
1944年(昭和19年)3月11日、フランス・ロリアン入港。復路は、小野田捨次郎海軍大佐・松井登兵海軍大佐・巌谷英一海軍技術中佐ら総勢18名を便乗させ、4月16日にロリアンを出航。7月14日にはシンガポールに入港するも、7月26日にバシー海峡にてアメリカ海軍の潜水艦に撃沈される。
同艦には、Me163型ロケット戦闘機及びMe262型ジェット戦闘機に関する資料が積まれていたが、シンガポールで零式輸送機に乗り換えた巌谷中佐が持ち出したごく一部の資料を除いて失われた。かろうじて残ったそれら資料は、のちに秋水・橘花の開発に活かされた)
1944年(昭和19年)3月には「日独製造権および原材料供給協定」が調印されて、ドイツ政府は日本の要望するすべてのドイツ軍需機器を提供し、その対価は一時的にドイツ政府が各製造会社に支払い、両国勝利後に日本政府はその価額をドイツ政府に支払うことが定められ、軍事技術と原材料の交換が活発となる。
このことから、1944年(昭和19年)7月にシンガポールに入港し、一部資料は空輸で本国に到着している。この資料の中に以下の資料も含まれている。
[b16] 英機上用電探「ロッテルダム」X装置と独乙側の対策 海軍技術研究所電波研究部 防衛省戦史資料室
[b17] 英機上用電探メドウ(Meddo)の概要 海軍技術研究所電波研究部 防衛省戦史資料室
[b18] 英機の対独空襲における機上電探「ロッテルダム」装置について 海軍技術研究所電波研究部(複写)防衛省戦史資料室
[b19] メトックス受信機(探知機)R600の説明及使用規定 海軍技術研究所電波研究部(翻訳)防衛省戦史資料室
この情報では、H2Sは、第二次世界大戦時にイギリスで開発された、航空機用の爆撃照準レーダーである。専用の送受信アンテナから、電波を円錐状に地上に発信して走査を行い、地上から反射した電波を受信後、専用の関連機器を介して、コントロール装置にあるPPIスコープ(平面位置表示機)に走査を行った範囲の地図状の画像を表示する機上レーダー装置である。
1940年に開発が始められ、1942年の末、英国はマイクロ波帯(3,300MHz)レーダーH2S(地表探索、航法・爆撃用)の開発を完了し、直ちに爆撃機への配備を始めた。1943年の1月30日から31日にかけてドイツの大港湾都市ハンブルクの夜間爆撃で初めて実戦に使用された。
1943年2月3日はオランダのロッテルダム近郊にイギリスのスターリング爆撃機が墜落した。機中に、シリアルナンバー6が記された,H2S波長9cmのレーダーがあった。
ドイツ陸軍では重要な物が見つかった地名をコードネームとして使用するのは通例であったため、H2Sレーダーをロッテルダム装置と呼称している。 
また、このロッテルダム装置の調査開始命令、可及的速やかにドイツ製9㎝波レーダーの開発を立ち上げるこことした。(コード名Berlin)

海軍レーダー徒然草掲載の電波科学( (昭和20年(1945年)2月号)では「雲上より日本都市を狙ふ B29の電波暗視機とは?」との題目により航空機搭載のPPI型のレーダーを紹介している。
この記事で重要なことは、ロッテルダム装置(英国のH2Sレーダーのこと)と接収されたレーダーによる地形写真が掲載されており、米国では、「レイダー」との呼称されていることも紹介されている。

 

 

さらに、
横浜旧軍無線通信資料館掲載の霜田光一氏論文によると
B29搭載レーダーの調査
昭和年19年(1944年)11月21日、B29の編隊61機が長崎県の大村地区を空襲したが, このとき撃墜された1機は火を吹かずに有明海に墜ちた。
このB29の機体は分断されて海軍の大村航空廠に運びこまれた。
そして搭載されていたレーダーは、12月初旬陸軍多摩研究所霞分室に運ばれ、陸海軍合同で分解調査することになった。
これはWestern Electric社製のAN/APQ13という波長3cm(X-band)のレーダーであって、下記のパーツに分けて12月12日から15日まで丸4日がかりで調査した。

 米潜水艦DarterのSJレーダーの調査
米潜水艦Darterは、19年10月23日最後の艦隊決戦でレイテに向かっていた日本艦隊をパラワン海峡で迎撃して、魚雷で巡洋艦「愛宕」を撃沈し「高雄」大破させた。
翌日未明にDarterは暗礁に乗り上げて坐礁し、乗員は僚艦に救助されたが船体は放棄された。
日本海軍にとってこれは米潜水艦を調査する絶好の機会であり、艦政本部は調査団を送って11月21日にこれを調査した。
レーダー装置は徹底的に破壊されていたが、押収した書類の中にはレーダーの取扱説明書が含まれていた。
当時私は、このような情報を詳しくは知らされていなかったが、20年1月24日から2月8日まで、米潜Darter搭載のSJレーダーを詳細な取扱説明書に基づいて調査した。
Darterには、対空見張りに波長2?3.5mのSDレーダー、水上見張りに波長9cm(S-band)のSJレーダーが装備され、そのほか電波探知機、無線方位測定機などもあった。

※以上のように、昭和19年10月以降については外部要因に大いに刺激され、パノラマ式(PPI)レーダーの開発が加速していくこととなる。
国立公文書からのGHQ返還文書の中にある開発設計資料の作成日から判断すると
51号(A筐体)輻射機組立図 昭和19年11月30日
51号金物(B筐体)送信機結線図 昭和20年3月13日調製
51号受信機(C筐体) 結線図 調製日付なし
51号指示装置(D筐体) 結線図 調製日付なし
やはり、昭和19年10月頃から本格開発着手されたと判断される。
51号試作の分担は、以下のとおりである。
①高柳技師が放送技研グループを活用してPPI方式の指示機
②そのブラウン管の蛍光塗料を、技研三鷹分室の鳩山道夫技師(ソニー初代研究所長)のグループ
③霜田氏が日本無線の協力を得て送受切替管、変調放電管、導波管及び空中線関係
④藤波恒雄技術大尉(現、原子力工業センター理事長)が、総体としてのエレクトロメカニカルの部分を担当
⑤機械設計は日本無線の設計部が行った。

最後に本機はどこまで開発できたのか。
元軍令部通信課長の回想 鮫島素直 P112
昭和十九年(1944年)十一月九州有明海で撃墜したB-29爆撃機から米爆撃機用パノラマ式レーダーを入手し、陸、海軍共同で調査の上、同種レーダーを試作するこことなり、すでに艦載の対水上見張用電探の開発を概了していた技術研究所電波研究部と横須賀航空実験隊とが直接協力して爆撃機用パノラマ電探(仮称五一号、波長一○センチ)の研究を進めた。
そして、一式陸上攻撃機を実験機として機上実験着手の直前までいったが、空襲激化のため、二十年四月に実験は横須賀から三沢(青森県)に移すこととなり、ここで同年七月第一回、八月第二回の実験を行い、三○キロメートル圏内の八甲田山の反射波を明らかに捉えるまでまの成果を得た。
しかし、終戦直前の三沢基地大空襲で被害を受け、実験中断のまま終戦となって同電探は実用されるに至らなかった。

日本海軍エレクトロニクス秘史 田丸直吉 P225
電波研究部で桂井少佐の下でこの実験を担当していた斎藤大尉、高木技手及び放送技研から来ていた木下幸次郎氏の3名は三沢迄出かけて実験を行った。
このことから、上記3名からの証言が必要となる。
斎藤成文も二年現役で任官(海軍短期現役士官として電探開発に従事)、海軍技術研究所に配属、マイクロ波レーダーの開発に従事、後に日本海軍最後の艦隊となった、第二艦隊司令部付きとなり、リンガ泊地で二二号電探の指導を行った。
その後航空機用電探の開発に当たり、三沢航空隊で一式陸攻に装備されたパノラマ式レーダーの実験を行うなどして終戦に至った。
セピア色の三号館 http://todaidenki.jp/hist/?p=582

※東京大学 電気系同窓会 私の生涯/齋藤成文  http://todaidenki.jp/?p=7584
戦時体制でのレーダ実用化
私は、東京帝国大学工学部電気科を昭和16年12月に短期卒業し、翌年1月第二工学部の教官となると同時に、海軍技術士官に任命された。
そして、技術中尉、後に、大尉となり、海軍技術研究所に勤務した。当時、電波探知機(電探)と呼ばれたマイクロ波レーダの実用化研究を行った。
しかし、既に、米軍では、このマイクロ波レーダは既に実用化されていた。戦後、私が留学することになる、MIT(マサチューセッツ工科大学)等も含めて、軍産学での研究開発がそれを支えていた。
一方、我が国では、昭和19年、我が国の敗戦が濃厚となってきた状況で、ようやく、艦船にマイクロ波レーダ装置を装備する事となった。
大和、武蔵を含む数十隻の艦隊が呉軍港に集結した。私達、海軍技術研究所の全員も、東京からの特別列車にレーダ装置を積み込み、呉へと向かった。
そして、海軍工廠の技術者と協力して、艦隊にレーダを装置する任務を行った。
そして多忙を極めた作業の後、最初の艦船にレーダ装置の整備が完了した事を、キラ星の如く並んだ海軍将官の前で報告した
。やれやれ、これで東京へ帰れると内心思っていた。しかし、技術研究所の上官から、第二艦隊司令官の前で、「齋藤大尉、第二艦隊司令部付として、シンガポール沖で、レーダ技術指導をせよ」との命令がくだされた。
こうして、私は、第二艦隊付きとして、シンガポール沖において、約2か月、レーダ技術指導を行なった。
シンガポール沖でのレーダ技術指導も終わり、世話になった第二艦隊士官達に日本に帰国する事を報告した。
彼らから羨ましがられたのを鮮明に記憶している。彼らの多くは帰らぬ人となっている。当時の環境では、死はそれほど特別なものではない存在であったが、優秀な人材が数多く失われたものである。
その後も、私は、国内で艦船搭載レーダの技術指導等も行った。昭和20年には、東大物理学科の霜田光一さん(現在、名誉教授)らのグループが設計したレーダ装置を、陸軍の一式陸上攻撃機(一式陸攻)に搭載し、海軍三沢航空隊において、我が国初の航空機搭載レーダの試験を行った。
八甲田山や三陸海岸がはっきりブラウン管に写ったのを鮮明に記憶している。
昭和20年8月14日、米艦隊の猛攻により三沢航空基地が全焼した。翌日、東京へ列車で帰る途中駅で天皇の終戦勅諭を伺うことになる。

戦災により失われた青森市の記憶と三沢海軍航空隊大格納庫のHPより
昭和20年7月14日、三沢基地はハルゼー第3艦隊艦載機による奇襲を受ける。
同年8月9日、三沢飛行場は再びアメリカ軍の空襲を受ける。
三沢飛行場終戦時保有機数
九六式陸上攻撃機1、一式陸上攻撃機11
九七式艦上攻撃機2、流星5、天山5、九九式艦上爆撃機16、彗星5、銀河8
東海2、彩雲6、二式艦上偵察機1、九三式中間練習機8、零戦(練)2、九〇式機上練習機1、白菊4
連山2、烈風1、明星1


※終戦時には、一式陸上攻撃機は11機残存していたようだが、パノラマ式51号電探を搭載していた一式陸攻が破壊されたかは不明である。
齋藤成文氏の証言記録により、パノラマ式51号電探は動作していたようだがこれを以て実用化レベルのものかは判断できないが、とりあえず所期目的は達成していたと判断できる。
ただし、昭和20年(1945年)6月に連山の試作計画自体が中止となり、排気タービンを使用した試験は実施されないまま8月に同地で空襲を受け破壊されたとのことである。
このため連山のパスファインダーとしての搭載目的自体が四散したこととなった。

ここから、少し残された回路図などから技術的検証をおこなうこことする。
送信機


 
同軸管(※実用レーダー工学抜粋)
給電系としては同軸管を使用したものと導波管を使った場合の系統図を示すが、パノラマ式51号電探は明らかに同軸管を使用している。
この構造は二つの同心状の導体からできている。内側導体は普通棒または線であり、外側導体は管状をしている。
誘電体としては空気かまたはポリエチレンのような固体誘電体がよく使用されるが、本機では空気が使用されている。
※なお、本機は送信部と受信部を一つのパラボラアンテナを利用するため空胴共振器も共用していることが分かる初めての事例である。

 

UHF(マイクロ波)の受信機回路について(※実用レーダー工学抜粋)
レーダーの場合には、無線通信やラジオに使われているスーパーヘテロダイン受信機とは次の諸点に相違がある。すなわち
(a)センチメートル波領域の受信機では一般的に無線周波増幅段はない。その理由は、この程度の周波数ではごくわずかの利得しか得られない事を合わせて考慮すると、信号対雑音比が極めて低くなり無線周波増幅をする価値がないからである。
UHFでは通常局部発振としてはクライストロンを使用し、周波数混合作用は空胴共振器中に置いた鉱石検波器で行う。
(b)もう一つ異なる点は、局部発振器、周波数混合用鉱石検波器、および中間周波増幅器の最初の二~三段を、通常は導波管系の受信部分岐部にできるだけ近く、つまり空中線の近くに置く点である。
空中線位置から受信機位置まで場合によっては50ないし60フィートあるいはそれ以上あるが、このようにして適当に増幅した信号を同軸ケーブルあるいは伝送線路でこの間を送るのである。
こうしないと長い伝送線路の途中で妨害波を拾うと非常に弱い信号が隠蔽され、受信機に到達した時には役に立たなくなってしまう。
それゆえに空中線近くの位置にあるはじめの方の中間周波増幅段は前置増幅器と考えられる。
(c)磁電管の変動、つまり送信信号の周波数変動、あるいは局部発振器自身の周波数変動により、中間周波数にずれが起きるのを是正するため、局部発振器に何らかの形の周波数制御、なるべくならば自動周波数制御を行わなければならない。
(d)レーダーでは特定のエコーを観察し追跡している時だけしかフェージング(fading)が重要な問題にはならない。
したがって無線電信やラジオの場合のように、むやみに受信機の出力信号に自動利得調整すなわちAVCをかけない。
レーダーでは特定の信号を追跡している場合にだけ自動利得制御ができるようになっている。
換言すれば自動利得調整を行う前に信号選別の動作を行わなければならないのである。
(e)テレビジョン受像機と同様に、出力は影像周波数すなわち数サイクルから大体4Mcにおよぶ。
このような帯域が必要なのは、パルスの形を問題にし、したがってパルスの形を崩さないために、高周波成分を忠実に再現しなければいけないからである。
※なお、本機では、(a)、 (b)、 (e)が同等なレベルで実現されている。

※パノラマ式51号電探として唯一現存する送信菅
マグネトロン (空冷式マグネトロン) M314
日本無線株式会社 三鷹製作所
機上用レーダー51号電波探信儀に使用された空冷式マグネトロンで、1943年の初め、空胴磁電管M312の8分割橘型陽極を採用した試作品が完成した。
波長 10 cm、尖頭出力 6 kWで酸化物陰極を使用している。

 

受信機

 
中間周波増幅7段(RH-4)、検波(ソラ)、低周波増幅2段(RH-4)の構成である。
この映像出力が表示機の入力信号となる。


指示機

 

 

51号試作の指示機に関する開発分担は、以下のとおりである。
① 柳技師が放送技研グループを活用してPPI方式の指示機
セルシン変圧器の採用(※実用レーダー工学抜粋)
PPIの場合に、実際の偏向コイルを回転するのを避けたい時には、セルシン変圧器を使って同等な結果を得る事ができる。
セルシン変圧器は一つの回転子と二つのお互い直交した固定子巻線をもっており、その関係は、もし回転子巻線に電圧を加えた時に、いずれか一方の固定子巻線に誘起する電圧が、回転子コイルの軸と、着目している固定子コイルの軸となす角の余弦に比例するようになっている。
したがって、他方の固定子の誘起電圧は上記の角の正弦に比例するわけである。

② のブラウン管の蛍光塗料を、技研三鷹分室の鳩山道夫技師(ソニー初代研究所長)のグループ
米軍のレーダーでは、一般的には電磁偏向型の残光時間の長い陰極線菅を使用している。
一方、日本の51号レーダーでは、簡易な静電型陰極線菅に残光時間の長い蛍光塗料を散布した新開発の陰極線菅である「GB-3」(未確認)を採用したものと思われる。
高度用表示装置には通常型CRTの「BG-75G」を採用している。

※いずれもNHKの放送技研グループでのテレビジョン開発のノウハウが生かされた成果の結果のようである。
本機の外観に関する資料はないが、英国のHS2レーダーに類似したものと思われる。
なお、PPI画面と高度表示画面から構成されている。


輻射器

 
この輻射機の内部にセルシン変圧器が内臓されているものと思われる。
なお、51号(A筐体)輻射機組立図には、昭和19年11月30日の調製日が記されており、B29のレーダー調査よりも前から、かなり大規模な組織で開発が進められていることが分かる。

最後に
※51号試作機を技術的に検証すると戦後数年で発刊された米国の「実用レーダー工学」の技術内容と大変類似していることが分かった。
逆に言うと51号試作機は米軍のレーダー同様に教科書どおりものを情報遮断の戦時中に独自に製作され、一応動作が確認された近代的レーダーを終戦間際ではあるが製造できたという事実である。
不思議なのは、Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946には本機だけはブロックダイヤグラムしか掲載しておらず、本機技術的内容を封印する意思すら感じられる。
このようなことから、戦後GHQにより航空機やレーダー開発を禁じられ、旧軍の電波兵器に対する評価が低いままで今日に至ったのではないだろうか。

追記
上記考察は現代を視点としていたが、昭和20年の敗戦直後の視点で再考察すると、当時、米軍としては原爆、VT信管やレーダーなどは最高の軍事機密であり、たとえReports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946であったとしても、他の連合国へ機密が漏洩する可能性があることから詳細情報は掲載しなかったではないか。
逆に言うと、それほど米軍のレーダーと機能に遜色がなかったことの証左ではないだろうか。

[e2] 幻のレーダー・ウルツブルグ 津田清一著 抜粋
余談ながら、海軍の渡洋爆撃機“連山”用レーダーはこの池谷少将が所管する航空技術廠(横須賀の田浦にあった)で、海軍技術研究所の益子透大尉が完成し、青森県三沢航空隊に空輸されて試験中、米軍機に爆撃されて消失してしまった。
池谷少将も益子大尉も故人になったが、いずれ、関係者によって発表されるここと思う。
私は池谷、益子両名から“連山”用レーダーは独軍のウルツブルグの高周波ケーブル、送受共用回路ボザネ、米軍の三cmであり、磁電管は空冷式、そして局部発振管はクライストロンだから小さく設計できたが、日本のものは10cm波であり、送信磁電管は水冷式であったから、航空機用にはもともと不向きだったといえよう。


[a2] 「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会 抜粋
電波暗視機
電波探信儀の輻射電波を回転して得られる反射波を組み集め、一望の下に反射物体の存在を見ようとする電波暗視機に関する海軍の研究は、昭和20年に入り着手したもので、波長10糎、尖頭出力6kw、衝撃幅1.4マイクロ秒、繰返周波数600c/s有効距離20乃至100粁、輻射部の回転速度毎分60乃至45回のものを試作し、高度9000米までは異常なく動作する状態に於いて実用実験をなし、或程度の図形が出るようになったが、その僅終戦になった。

 

日本海軍レーダー解説http://minouta17.web.fc2.com/aradar_main_navy.html

広島戦時通信技術資料館http://minouta17.web.fc2.com/

 


参考文献
[a1]  Reports of the U.S. Naval Technical Mission to Japan, 1945-1946
[a2] 「日本無線史」10巻 1951年 電波管理委員会
[a4] 「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
[b6] 51号金物(B筐)送信機結線図、輻射機組立図TYPE51RADAR、51号受信機結線図、TYPE51指示器回路図 国立文書館
[b16] 英機上用電探「ロッテルダム」X装置と独乙側の対策 海軍技術研究所電波研究部 防衛省戦史資料室
[b17] 英機上用電探メドウ(Meddo)の概要 海軍技術研究所電波研究部 防衛省戦史資料室
[b18] 英機の対独空襲における機上電探「ロッテルダム」装置について 海軍技術研究所電波研究部(複写)防衛省戦史資料室
[e3] 日本海軍エレクトロニクス秘史 田丸直吉 原書房
[e19] 写真集 日本の爆撃機 昭和48年8月 丸編集部 光人社
[g4] 横浜旧軍無線通信資料館 http://www.yokohamaradiomuseum.com/
[g6]  海軍レーダー徒然草 http://www1.odn.ne.jp/~yaswara/
[g9]  三沢海軍航空隊大格納庫 http://aomorikuushuu.jpn.org/misawa.html
[g10] 産業技術史資料情報センター http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?no=901290190234&c=&y1=&y2=&id=&pref=&city=&org=&word=&p=1267
[g2] ウィキペディア 用語解説
[y2] 米国国立公文書館

 

 


 

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