ターザンが教えてくれた

風にかすれる、遠い国の歌

愛というのじゃないけれど

2012-07-06 16:12:43 | モノローグ

情けっていうものが
時としてすごく怖いんだ

世の人々が口をそろえて
情けはいいものだいいものだというから
ますます僕はおびえてしまうことがある


贈り物ってやつが
時としてとても重いんだ

世の人々が口をそろえて
プレゼントはいいものだっていうものだから
僕はなおいっそうそれを掴めなくなってしまう


握力なんかなくったっていい
お涙なんかなくったっていい


できれば
それは
重さのない愛がいい
湿り気のない愛がいい

からっとどこまでもさわやかに乾いて
さらりと心を吹き抜ける風がいい

そんなものを
僕はずっと忘れないから
ずっとどこまでもちゃんと憶えているから


だから


静かで 平穏で ささやかでも
果てしなくずっと続くもの
なんの気兼ねなくこの手にできるもの

そんなものがいいな

できればそういうものを
相手からいただくことができれば
ほんとうに心から嬉しいし

また

そういったものを
気兼ねなく誰かに受けとってもらえるならば
それほど誇らしく嬉しいことはない


ほんのささやかでいいんだ
急ぎ足で歩く人には
それはないことと同じに見えるほどに
小さなささやかなものがいい




人はたった独りで生まれ出でて
そして
人はたった独りでこの世からおさらばをする

そんなこと
当たり前なんだけれどもね
でも
そのことをいつも忘れずに生きて
その日々の時間の中で
ほんの誰かと少しでも気持ちが通い合うことがあったなら
それでいい
大そうなことはいらないんだ
ほんのそれだけでいいのだと思う

それが自分の今日を彩り
そして
その想いが夜をめぐって
また明日の自分を奮い立たたせる

そんなんでいいんじゃないのかな、って

今はそう思ってるんだ。





テレビから流れる流行歌が
愛はいいものだと
とても素晴らしいものなんだと
そう繰り返し歌うからさ

物知り顔の大人たちが
みんなで口をそろえて
愛は尊いものだと
何にも増して尊いものだと
僕の頭をなぜながら言うものだから

愛しなくちゃって、さ
人をちゃんと愛さなくちゃ、って
そう思うようになるんだよね

子供たちはいつだって
そうやって
誰にもほんとは説明なんかできない
誰にもこれがそうだと
その姿さえ見せられることのない

そんな愛ってやつを
ちゃんと手に入れなさい
ちゃんとそのてでつかみなさいと
見えない手紙を渡される

大人たちは
そのころ大人たちは
どうやってそのことを伝える?

愛ってやつの正体を
どうやって他人に見せるのですか

どうやって伝え渡してゆくのですか

って、

そんなことを思う。





みゆきさんのわかれうた

恋の終わりはいつもいつも
立ち去るものだけが美しい

残されて戸惑うものたちは
追いかけて焦がれて泣き狂う


恋なんだよ。恋。

決して愛なんかではないんだよね

みんな、恋。




恋っていうやつはさ
ある意味において
ものすごく強烈に利己的だしわがままなものだよね。

相手を想って身を焦がし
普段の生活では決して味わえない高揚感
それをこれでもかと果てしなく求め行くもの。

ふたりのその高揚感を人は「愛」なのだと名づけて
たいへんに高尚で尊いものだとしながら
人々を魅了する物語になったりもするんだけども

実際はどうなのだろうか、と思ったりする。





孤独。

この自分は独りきりということにおいては
まったく寂しくななんかないし、
独りで時間を費やすことの贅沢さを知っているんだと思う。

だから
自分ひとりきりの孤独は辛いものではない。

孤独。

ほんとうに恐ろしいのは
誰かとふたりで味わう寂しさ。

そして

大勢の人々の中で感じる孤独こそ
たまらなくこころを蝕む寂しさだよ。

孤独ってやつは
独りの部屋の中にあるわけじゃなく
本当の孤独ってやつは
そこいらの街中にあるんだよね。


孤独。


僕はそれを
無知と怠惰と欲望と弱さなんだと考えることがある。





愛することって
目の前の相手を
なるほど、こんな考えを持っていて
そうかこんな風な人なんだな、って思うこと。

そこには批判だとか希望とか
そんなものの付け入る隙もなく

だた、
ああそうか、
あなたはそんな人なんだね、って思うこと。

そして

愛することって
その目の前の相手の価値観を
邪魔をせずに守ることなんだと思う

そうやって
誰にも気づかれることなく
自分自身の心の中で
ひとり静かに決心するものだと思う。




自分の満足するような人の愛し方ではなくて
相手の満足するようなやり方で
その人を愛することができたらいいなと思う

ありがたいんだけどさ
正直とてもありがたいと思うけれど

でも、やっぱり
情けはあまりうれしくないんだ
情に絡んで身動き取れなくなることなどが
自分の人生において
なるべく少ないことであってほしいと思う。

情けってさ
人間放っておいても
自然とわきあがてくるものだよ
誰だってそんなに抵抗なくできること。

でもさ、
情けってやつは
必ず相互作用を求めるものだから、
それは不自然に重い足枷ともなりうる
いわば劇薬扱いだからさ
効果的に注意をもって
ほんのちょっと使うのがいいのかもしれないね



The Art of Loving の著者エーリッヒ・フロムは

「愛するということは技術です」って言ったんだよね。

人は何もせずに放っておいて
自然と誰かを愛せるようになんかならない、と。

ちゃんと愛するという技術を
自分自身で学び取っていかないといけないものだと。


一方において

恋は誰だって自然とできるもの。
っていうか
実はそんな高尚なものでもないわけで
本能のおもむくままに突き進めばいい。

恋ってやつは
いわば
相手を使った自己陶酔、つまりオナニーなわけで
だからこそ恋ってやつは
いつだってどこまでも自分本位なものだもん。

楽しいけど、その興奮はすぐに過ぎ去る

一方の愛ってやつは
自分自身、つまりエゴを乗り越えないと
決して見えては来ないもの。



人を本当に愛するというとき、
その相手を通して
隣人、家族、そして世の中の人々というように
自然に広がり行き
誰をもを慈しみ愛するという気持ちに
ちゃんとつながっているのかどうか。

そこに「恋」や「情け」とはまったく違った
愛するということの意味が確認できるのだと思う。

フロムのぶつけてくるその質問に
この自分の気持ちがおおきく揺らぐのがわかるよね。

はたしてこの自分は誰かを愛しているのだろうか。

そんな声が自分自身を確かめようとささやく。





自分探しではなくて
自分自身を発見してゆくこと

どこかに自分というものがあるのかなと
そういって探し回るものではなく、

ああ、これが
こういった性格やこういった考えや価値観を持つ
こんなやつこそが
良くも悪くもこの自分というものなんだな、と
自分自身を発見して行くこと。


世の中のいろんな場面や状況の中で
この自分の気持ちなんて
はじめから思い描いて予想していたものとは
まったく違って
毎回、ほんとうに意外なこころの動きをするもの。

その度にびっくりして立ち止まる。




「こんにちは、ぼく」

「はじめまして、わたし」

「やあやあ、俺」

「ごきげんよう、あたし」




この諸行無常の世の中においてでも、
人は生まれ持った自分自身というものは
おそらく変わらないずっと

それを発見し、思い知ってゆくことが
歳を重ねるということなのかもしれないと思う。





SACDってあるじゃん。

普通の音楽CDよりも
ずっと高音質な音楽が記録されている円盤。

それにはΔΣ(デルタシグマ)変調高速1ビット記録という
ちょっと特殊な録音方式がなされていて、
最初にとにかく本来の音楽信号と一緒に
ノイズも含めた何もかも膨大な情報の信号を
片っ端からまるごと記録してしまうわけよ。

でね、
そのまま再生してしまうと
人間の耳に聞こえる部分にだって
同じようにノイズが混ざっているので
正常な音楽を聞くことができないんだけども、

この信号を演算して(ノイズシェーピング)
今までは低い周波数から高い周波数まで
均一に混じっていたノイズを
人間の耳には聞こえないような超高域に追いやってしまい、
結果として可聴帯域のノイズを無視できるほどに下げ
残った非常に高精細な音楽信号を楽しむっていう
そんな技術なんだけども。

これは実はノイズを低くすることはできなくて
全体のノイズの量はいつだっておんなじ。
ノイズシェーピングによって
そのノイズの分布の形を変えたもの。
つまりノイズの総エネルギーは変わらないわけ。

この説明を聞いたときに
技術ってすごいなぁって思ったのと同時に
ちょっと思い当たることに気づいたんだよ。



ノイズ
一定量ならばその割合を変えてみる。


人間の感受性
一定量ならばその使い道の割合を考える。

脳の働きの仕事量が一定だとすれば
その分布の形を少し変えてみる。

不幸なこと、傷つくことには少し鈍感になって
そしてその余力を
今度は幸せなこと、うれしいことに対しての
自分自身の感受性に振り分ける。


そうやって
できることだったら
自分の感受性にデルタシグマ変調をかけて
弱音を吐いたりせずに生きて行きたい。


そして、


ぼくは自分の知らないこころの奥に光を当ててみたい。

ほんとだったら何も気づくことなく一生を終えることが
世の中のほとんどだし
また、世の中においてはそれが一番いいのだという
ことになるのだと思うけど、

ぼくはやはり

たとえそれがとても恐ろしく寂しく孤独なものだったとしても
生きているうちにちゃんとそれを見てみたい
これが自分自身なんだなと
ちゃんと思ってみたい。

やあやあ、はじめまして、
この感情が自分というものなんだね、って

そうやって穏やかに笑ってみたいって思う。



自分の孤独を忘れるために
誰かと一緒になりたいというような、
世の中では愛とよばれているような感情。

それは往々にして
己の愛に足りうるべき相手を捜し求めるという
そんな徒労に人生費やしてしまうもの。

自分の愛が上手くいかないのは
その相手によるものだろうという錯覚。

だからこそ、いつだって上手く行かずに
次はどうだろう、その次の相手はどうだろうと
繰り返してしまう。

愛ってやつは相手の中にあるかどうかの問題ではなく

この自分の中にこそちゃんと
どんな場所であってもどんな相手であっても
愛があるのだと言うことのできること。


見返りとかではなく
己の孤独との引き換えなんかでもなく

独りでもだれかと二人でも
ちゃんと相手を愛することのできる
この自分をあらためて発見すること。

そうやって
少しずつでも上手に歳をとればいいなって
すごくそう思う。








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2 Comments

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Unknown (まき)
2012-08-15 21:04:52
いつもすてきな文章をありがとうございます
わたしも若い頃フロムの愛で衝撃受けたことがありました
ある愛する対象を得て自分の中に愛が生まれるのではなく
自分の中に元々あった愛する力がその対象を得たという

「惚れるってことは、愛するって意味じゃないぜ。惚れるのは、憎みながらでもできることだ。おぼえておくいい!」という小説のセリフがあって
それを思い出しながら

つまりぜんぶb-minorさんの

独りでもだれかと二人でも
ちゃんと相手を愛することのできる
この自分をあらためて発見すること。

になるじゃない、と心にしみ込むモノローグでした
ありがとうございました
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Re (b-minor)
2012-08-17 10:37:33
まきさん

こんにちは。

コメントありがとうございます。

まきさんもおっしゃるように
フロムの文章は本当に衝撃的でした、
こう自分の頭を後ろからゴツンと
やられた!って感じでして(笑)

「愛は技術なんだ」

やっぱり今の自分もそう思っているのです。

「惚れるってことは、愛するって意味じゃないぜ。
惚れるのは、憎みながらでもできることだ。
おぼえておくいい!」という小説のセリフ

すごくわかるような気がします。
思い当たることがリアルによみがえって
なるほどな!と自分の膝を叩く思いがします。

惚れたはれた、の
好きの嫌いの

そんな七転八倒を経てここまできて
なんとかかんとか
うっすらとわかる愛ってやつの意味、

なんだ、ずっとここにあったじゃん!

ずっとこの自分の手のひらに握り締めていた。

などと、そんな間抜けな話があってもいいですよね、
それだけだって
ここにいる意味があるのだと思いたいです。

こちらこそお礼を。

ありがとうございます。

b-minor
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