昨日の朝、母が亡くなりました。
一夜明け、寂しくはありますが、弟を失ったときの悲しさとは全然違います。
寂しいけれど、悲しみに暮れるというのとは違う。
昭和一桁生まれって凄いなぁと改めて思ったのは、大阪府北部地震のとき。
箕面在住の我が家も揺れは過去最大に感じたものの、食器がいくつか割れた程度。
茨木に住む両親に連絡して「大丈夫だった?」と尋ねたら母が「うんうん、大丈夫」。
実家に行ってみてたまげました。「ようこれで大丈夫や言うたね」と。
家具という家具はすべて倒れ、食器はほぼすべて見事に割れている。
足の踏み場もないほどの被害で、そのうえガスも止まっているというのに、大丈夫!?
「うん、でもね、生きてるから。命があれば」と母。
幼い時分に結核を患ったそうですが、それ以降の母はいたって元気。
女性が車を運転するのはまだ珍しかった時代に仕事で車に乗りこなしていたらしいのに、
父と結婚するとき、自転車すら乗れない父に「車の免許、どうしよう」と聞いたら、
父が「要らないだろう」と言ったらしい。
そう言われてその通りにする母も母ですが、免許を更新せず。
結果、どこに行くにも徒歩か自転車だったおかげで健脚。
水泳も続けていたから、本当に病気知らずでした。
私の知る限り、母は寝込んだことがありません。
朝起床して「風邪をひいたみたい」と言っていても、晩には元気になっている。
だから、「今日はしんどいから御飯は作れない」と言ったこともない。
それゆえ私が御飯の支度をしなければいけない状況になったこともなく(笑)。
どんだけ元気やねんと思っていました。
今年に入って母の手足と顔にも浮腫が出てきて、私は癌の進行を感じていましたが、
母自身はそんなことを一切感じておらず、「毎日異様に眠たいねん。病人みたい」と言うので、
「お母さん、一応、病人やから」と言ったら「あ、そっか」。ふたりして笑いました。
本人はしんどくもなんともないと思っているせいで、末期癌なのにホスピスの面談にも行けず。
昨春に病院の地域連携室担当者がホスピスに連絡を取ってくれましたが、
「自覚症状がもう少し出てきてからでないと」と断られた経緯があります。
そりゃそうだ、本人どこも痛くないしんどくない、何もかも自分でできているのですから。
いろんなことを思い出します。
池田に住んでいた折、台所の食卓に広げた新聞を読みながら座ったままの母は、
後方のガス台横に置いた炊飯器のスイッチに手だけ伸ばして押さえている。
「お母さん、何してるん」と尋ねたら、「スイッチのバネが壊れてるねん。
お米はちゃんと炊けるから、こうして炊き上がりまでスイッチ押さえてたらええやん」。
確かにそうやけどと大笑いしました。
弟が買ってくれた自転車がなくなったと電話してきたこともありました。
「マンションの自転車置き場にないねん」。交番にも届けたそうです。
ところがその夜、ふたたび母から電話がありました。
「自転車でプールへ行って、帰りがけに向かいの関西スーパーへ寄ってん。
関スーからそのまま歩いて帰ってきてしまった」。
実家はマンションの9階。夜になって窓から関スーの駐輪場を見たらチャリが1台。
まさに母が置いてきたチャリがそこに。交番にただちに謝りに行ったとか。
笑ってしまう思い出が多いけれど、この数ヶ月は浮腫のせいで転ぶことも何度かあって、
それでもまだ運動不足のせいだからもっと歩かなきゃなどと言っていた姿を思い出すと切ない。
LINEが既読にならない母を心配して実家に駆けつけたら、
寝ていた母が解錠しようと慌てて玄関まで走ってきたために転んだこともありました。
ごめんね、お母さん。
悲しかったことはあまり思い出さないようにするわ。それもごめんね、お母さん。
やっぱりありがとう、お母さん。