広重こと徳太郎は豊広の門人になった翌年文化9年(1812)、広重と云う名をもら
い「一遊斉」と号した。それから長い間どの画家も経験する風俗美人絵、役者絵等
の錦や草双紙の挿絵を描いた。しかも本職の火消御役同心は真面目に勤め上役から
表彰された事もありました。しかし広重の志はあくまでも画道に専念する事にあり
このため文化6年(1823)11月同心職を祖父の晩年の子仲次郎に譲っている。
この時27歳、相続人仲次郎がまだ幼少なので或る期間は後見人として代役を務め
なければならなかった。この為広重は御役屋敷に天保10年(1839)43歳までここに
住んでいた。
広重と同年配の国貞や英泉が比較的若いうちから華やかに売り出したにもかかわら
ず広重の画名が余り有名にならなかったのは、師豊広と同様にその画が地味だった
事にもよりますが、本質的に婦女子相手の美人画や役者絵に満足しなかったのでは
ないのかと。広重が早くから着目していたのは風景画と花鳥画で美人画を描いても
必ずその一部に風景を描いていた。
い「一遊斉」と号した。それから長い間どの画家も経験する風俗美人絵、役者絵等
の錦や草双紙の挿絵を描いた。しかも本職の火消御役同心は真面目に勤め上役から
表彰された事もありました。しかし広重の志はあくまでも画道に専念する事にあり
このため文化6年(1823)11月同心職を祖父の晩年の子仲次郎に譲っている。
この時27歳、相続人仲次郎がまだ幼少なので或る期間は後見人として代役を務め
なければならなかった。この為広重は御役屋敷に天保10年(1839)43歳までここに
住んでいた。
広重と同年配の国貞や英泉が比較的若いうちから華やかに売り出したにもかかわら
ず広重の画名が余り有名にならなかったのは、師豊広と同様にその画が地味だった
事にもよりますが、本質的に婦女子相手の美人画や役者絵に満足しなかったのでは
ないのかと。広重が早くから着目していたのは風景画と花鳥画で美人画を描いても
必ずその一部に風景を描いていた。