慰安婦問題は韓国社会が民主化されたことで初めて声を挙げることが出来た問題だった。
逆を言えば、戦後何十年もほったらかしにした韓国政府は何やっとんだという話でもある。
歴史的には、戦後政権を掌握し続けた軍事政権は、
植民地時代の対日協力者(親日派)がアメリカ(パク政権以降は日本も)の支援を受けて存続していた。
主人に都合の悪い事件は隠しておけということである。
その後、民主化により慰安婦問題はようやく声に出すことが出来た次第だが、
親日派が母体となる政党(ハンナラ党)が政権を掌握すると、
今度は軍事政権時代の美化に努めだした。教科書改悪などはその典型的な例だ。
このような政治情勢のため、
ベトナム戦争時に韓国軍が行った犯罪をもみ消そうとする動きが見られる。
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1975年に終結したベトナム戦争に延べ32万人を派遣した韓国軍は、
9000人に上るベトナムの民間人を虐殺したと言われる。この虐殺の生存者が戦後70年、
ベトナム戦争終結40年となる2015年、初めて韓国を訪れた。
滞在中の出来事は、まるで2人の人生のように波乱万丈だった。
(中略)
4月8日午前、ソウル中心部・鍾路にある社団法人・平和博物館のギャラリー「スペース99」。
戦後70年、ベトナム戦争終結40年を機に開かれた「一つの戦争、二つの記憶」写真展に招待された
グエン・トン・ロンさん(64)とグエン・チ・タンさん(55)は複雑な表情だった。
写真展のオープニングレセプションが前日、思いがけずキャンセルされたうえ、
自分たちの人生を台無しにした戦争が、韓国では「記念」するものとして
記憶されていると知ったからだった。
写真展を開いた写真家のイ・ジェガプさんが、2人を展示場の片隅にある小さな部屋に案内した。
韓国のあちこちにある戦争記念塔を撮った写真が、プロジェクターから天井に投射されていた。
ベトナムのあちこちに韓国軍を忘れない60以上の「憎悪碑」が建っているのとは対照的に、
韓国には至る所に100以上の「参戦記念碑」があると説明された。
「韓国ではベトナム戦争を“記念”しています。
韓国のこの戦争の記憶と、ベトナムの記憶の違いを示したかったのです」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/13/vietnam-war-victim-korea_n_7053626.html
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記事の途中には韓国の市民団体と被害者女性たちとの交流が描かれている。
ちなみに、この市民団体には日本では大変評判が悪い「挺対協」も含まれる。
「日本の慰安婦だけ責めて自国のベトナム人女性陵辱には無関心だ」
と保守派は騒いでいるが、実際には同じ傷を持つ者として協力し合っている。
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旧日本軍の元慰安婦を支援する民間団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は、
毎週水曜日にソウル中心部の日本大使館の前で「水曜集会」(水曜デモ)を開く。
この日は、150人の参加者が集まった。 ロンさんとタンさんは写真展の観覧を終えた後、
デモの場所まで歩いていって、2人の元慰安婦の後ろに立った。
「孫よ、あなたはこの言葉を覚えておけ。
韓国の軍人は私たちを爆弾の穴に追い込んでみんな撃ち殺した。
孫よ、大きくなってもこの言葉を覚えておけ」
ロンさんとタンさんが写真展の後で参加した、
旧日本軍の元慰安婦や支援団体が日本大使館前で毎週水曜日に開いている
「水曜デモ」のプラカードに書かれた文だ。
マスメディアのカメラマンが押しよせ、2人の表情はしばらく固くなった。
誰かが「穏やかな表情で」と頼んで、やっとわずかな笑みを浮かべた。
挺対協のユン·ミヒャン代表がマイクを握り
「二度と、どんな戦争でも、性暴力の被害者や民間人虐殺の犠牲者を出してはなりません」と叫んだ。
タンさんは「元慰安婦の方々と韓国の友人にあいさつします。
私の名前はグエン・チ・タン、韓国軍による民間人虐殺の生存者です。虐殺のとき8歳でした」
と話した。タンさんが発言するたびに、デモの参加者たちからため息が漏れた。
ロンさんとタンさんが旧日本軍の元慰安婦たちと会ったのは、この日が初めてではなかった。
訪韓初日の4月4日、宿に荷物を置いてすぐに向かったのが、
元慰安婦たちの共同生活施設「ナヌムの家」だった。
ロンさんは1966年2~3月、計1004人が死亡したタイヴィン虐殺の生存者だ。
虐殺で母と妹を失い、孤児となった。タンさんは1968年2月12日、
住民74人が犠牲になったフォンニィ・フォンニャットの虐殺で生き残った。
母と弟、姉、叔母、甥など5人の家族を失った。
これらの事情を聞いた元慰安婦のユ・フイナムさん(87)は
「戦争被害者の苦しみと悲しみを本当に理解できる人はあまりいない。
同じ被害者に会うと本当にうれしい」と語った。
加害者が韓国軍か日本軍かの違いだけで、
被害者は簡単に共感して悲しみを分かち合った。
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このように被害者同士が協力しあっている一方で、
韓国の右派団体はベトナム人被害者を嘘つき呼ばわりしている。
自分たちに都合の悪い言葉は消してしまえと言う考えは日本の右翼とそっくり。
幸い、挺対協はこのような連中とは質的に違うので安心だが、
仮に韓国の右派団体が活動の主権を握れば、日本のネトウヨが語るように
自国の罪には目もくれず、日本の犯罪だけ非難する運動へと転落してしまうだろう。
……ということを考えると、最近、「左右の枠を超えて」というフレーズが好かれているが、
やはり社会運動においては共闘する相手を選ぶことが求められるだろう。
慰安婦問題で慰安婦側の立場に立つからといって、誰でも味方にすべきではない。
今のところ歴史問題は加害者国VS被害者国となっているが、
将来的には加害者国と被害者国の左翼が協力して戦う必要があると思う。
逆を言えば、戦後何十年もほったらかしにした韓国政府は何やっとんだという話でもある。
歴史的には、戦後政権を掌握し続けた軍事政権は、
植民地時代の対日協力者(親日派)がアメリカ(パク政権以降は日本も)の支援を受けて存続していた。
主人に都合の悪い事件は隠しておけということである。
その後、民主化により慰安婦問題はようやく声に出すことが出来た次第だが、
親日派が母体となる政党(ハンナラ党)が政権を掌握すると、
今度は軍事政権時代の美化に努めだした。教科書改悪などはその典型的な例だ。
このような政治情勢のため、
ベトナム戦争時に韓国軍が行った犯罪をもみ消そうとする動きが見られる。
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1975年に終結したベトナム戦争に延べ32万人を派遣した韓国軍は、
9000人に上るベトナムの民間人を虐殺したと言われる。この虐殺の生存者が戦後70年、
ベトナム戦争終結40年となる2015年、初めて韓国を訪れた。
滞在中の出来事は、まるで2人の人生のように波乱万丈だった。
(中略)
4月8日午前、ソウル中心部・鍾路にある社団法人・平和博物館のギャラリー「スペース99」。
戦後70年、ベトナム戦争終結40年を機に開かれた「一つの戦争、二つの記憶」写真展に招待された
グエン・トン・ロンさん(64)とグエン・チ・タンさん(55)は複雑な表情だった。
写真展のオープニングレセプションが前日、思いがけずキャンセルされたうえ、
自分たちの人生を台無しにした戦争が、韓国では「記念」するものとして
記憶されていると知ったからだった。
写真展を開いた写真家のイ・ジェガプさんが、2人を展示場の片隅にある小さな部屋に案内した。
韓国のあちこちにある戦争記念塔を撮った写真が、プロジェクターから天井に投射されていた。
ベトナムのあちこちに韓国軍を忘れない60以上の「憎悪碑」が建っているのとは対照的に、
韓国には至る所に100以上の「参戦記念碑」があると説明された。
「韓国ではベトナム戦争を“記念”しています。
韓国のこの戦争の記憶と、ベトナムの記憶の違いを示したかったのです」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/13/vietnam-war-victim-korea_n_7053626.html
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記事の途中には韓国の市民団体と被害者女性たちとの交流が描かれている。
ちなみに、この市民団体には日本では大変評判が悪い「挺対協」も含まれる。
「日本の慰安婦だけ責めて自国のベトナム人女性陵辱には無関心だ」
と保守派は騒いでいるが、実際には同じ傷を持つ者として協力し合っている。
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旧日本軍の元慰安婦を支援する民間団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は、
毎週水曜日にソウル中心部の日本大使館の前で「水曜集会」(水曜デモ)を開く。
この日は、150人の参加者が集まった。 ロンさんとタンさんは写真展の観覧を終えた後、
デモの場所まで歩いていって、2人の元慰安婦の後ろに立った。
「孫よ、あなたはこの言葉を覚えておけ。
韓国の軍人は私たちを爆弾の穴に追い込んでみんな撃ち殺した。
孫よ、大きくなってもこの言葉を覚えておけ」
ロンさんとタンさんが写真展の後で参加した、
旧日本軍の元慰安婦や支援団体が日本大使館前で毎週水曜日に開いている
「水曜デモ」のプラカードに書かれた文だ。
マスメディアのカメラマンが押しよせ、2人の表情はしばらく固くなった。
誰かが「穏やかな表情で」と頼んで、やっとわずかな笑みを浮かべた。
挺対協のユン·ミヒャン代表がマイクを握り
「二度と、どんな戦争でも、性暴力の被害者や民間人虐殺の犠牲者を出してはなりません」と叫んだ。
タンさんは「元慰安婦の方々と韓国の友人にあいさつします。
私の名前はグエン・チ・タン、韓国軍による民間人虐殺の生存者です。虐殺のとき8歳でした」
と話した。タンさんが発言するたびに、デモの参加者たちからため息が漏れた。
ロンさんとタンさんが旧日本軍の元慰安婦たちと会ったのは、この日が初めてではなかった。
訪韓初日の4月4日、宿に荷物を置いてすぐに向かったのが、
元慰安婦たちの共同生活施設「ナヌムの家」だった。
ロンさんは1966年2~3月、計1004人が死亡したタイヴィン虐殺の生存者だ。
虐殺で母と妹を失い、孤児となった。タンさんは1968年2月12日、
住民74人が犠牲になったフォンニィ・フォンニャットの虐殺で生き残った。
母と弟、姉、叔母、甥など5人の家族を失った。
これらの事情を聞いた元慰安婦のユ・フイナムさん(87)は
「戦争被害者の苦しみと悲しみを本当に理解できる人はあまりいない。
同じ被害者に会うと本当にうれしい」と語った。
加害者が韓国軍か日本軍かの違いだけで、
被害者は簡単に共感して悲しみを分かち合った。
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このように被害者同士が協力しあっている一方で、
韓国の右派団体はベトナム人被害者を嘘つき呼ばわりしている。
自分たちに都合の悪い言葉は消してしまえと言う考えは日本の右翼とそっくり。
幸い、挺対協はこのような連中とは質的に違うので安心だが、
仮に韓国の右派団体が活動の主権を握れば、日本のネトウヨが語るように
自国の罪には目もくれず、日本の犯罪だけ非難する運動へと転落してしまうだろう。
……ということを考えると、最近、「左右の枠を超えて」というフレーズが好かれているが、
やはり社会運動においては共闘する相手を選ぶことが求められるだろう。
慰安婦問題で慰安婦側の立場に立つからといって、誰でも味方にすべきではない。
今のところ歴史問題は加害者国VS被害者国となっているが、
将来的には加害者国と被害者国の左翼が協力して戦う必要があると思う。