今回は、先行上映こそ見送ったが、よせばよいのに、通常公開初日に映画館行きを敢行した。
この作品、前評判が凄いものだから、公開初日には、地方の映画館としては異例ともいうべき長蛇の列がチケット売り場にできた。
これが厭なのだ。短気なわたしは、それだけで、もう観る気が失せてしまう。
ハリー・ポッターのどこがそんなにおもしろいというのか。
単に、子供向けのメルヘンではないか。
加えて、あまり前評判が良過ぎると、かえって観る気がなくなってしまうという天邪鬼なところが、わたしにはある。
・・・ちぇっ、世の中には、暇な人が随分といるのね。宣伝のし過ぎよ。だから、こんなに混んじゃうのよ。前評判が良過ぎるのも良し悪しよね・・・
などと自分のことは棚に上げて勝手なことを考える。
それなら、観なきゃいいじゃん。
いえいえ、そうもいかないんです。
小学生の甥っ子にねだられてしまって・・・。
・・・学校でね、ハリー・ポッターの先行上映を観に行った子がいてね。凄いだろうって自慢するんだ。そいつって、ホントに厭な奴なんだ。だから、僕も観に行って、あいつにギャフンて言わせてやりたいんだよ。ねえ、お姉ちゃん、連れて行ってくれるよね・・・
わたしの唯一の映画仲間の彼にそう言われちゃ、仕方がない。
よし、お姉ちゃんが、君を映画館に連れて行ってあげるよ。
ふふふ。ミッション完了!
白状すると、甥っ子にせがまれて、しぶしぶ観に行ったことにしているのは、一種の照れ隠しなのだ。
本当は、わたし自身が観たかったのだ。だって、大の大人が、ハリー・ポッターを1人で観に行くわけにはいかないでしょう?
ハリー・ポッターシリーズに関しては、わたしは、4作品とも初日に映画館に足を運び、なおかつDVDも揃えている。なんだかんだ言っても、わたしは、立派な「ハリー・ポッター大好き症候群患者」のひとりなのだ。ひょっとしたら、かなり重症かもしれない。
4作目ともなると、ハリーたちも随分と成長してしまった。
第1作目の「ハリー・ポッターと賢者の石」
ロンなんて、まるっきり子供。カワイイッ!!!
第2作目の「ハリー・ポッターと秘密の部屋」
うーん、ちょっぴり大きくなったかな。
おおおっ。なんか成長してる。お兄さんになってるよ。
第4作目の「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」
うーむ・・・。
こうやって並べてみると、子供の持つあどけなさや可愛らしさで十分に見る者の心を掴むことができた初期の作品と比べ、第3作目くらいから、ハリーにしてもハーマイオニーにしてもロンにしても、大人びた表情が垣間見られるようになった。
成長したハリーでは、この物語に少しマッチしないようになってきた気がする。
やはり、第1作目のまだあどけなさが残るハリーが、わたしは一番好きだ。
でも、成長したハリーの魅力も捨てがたい。
本当のことを言うと、わたしは、「アズガバンの囚人」では、少しばかり大人になったハリーたちに困惑し、今ひとつ作品の中にのめり込めなかった。正直、ハリー・ポッターはもうダメかなとまで思った。
ところが、この第4作目では、そういうマイナス要因は目立たなくなり、逆に、さらに奥行きの増したハリー・ポッターの世界を楽しむことができた。
その理由のひとつは、彼らが大人になった分だけ、自然にストーリーも複雑かつミステリアスなものとなったことだ。そのことが作品を観る側の層を広げると同時に、結果として、前作で感じていた違和感がなくなったのではないかと思う。歳をとって失うものがある代わりに、得るものも大きいということだ。
もうひとつの理由は、観る側の問題だと思う。
個人的な理由にはなるけれど、わたしは、いつまでたっても「大人になりきれない」、ひょっとしたら「大人になることを拒否している」、あるいは、「大人になりたくない」「大人子供」みたいな人間なのであって、ハリー・ポッターの魔法の世界への逃避することによって、束の間の安息を得ようとしていたのだ。
わたしは弱い人間なのだ。
現実の世界では叶えられない様々な欲求が、魔法の世界では叶えられる。
わたしの心の奥深くに押し込められた自我が、この作品を観ている間だけは、それこそ魔法の杖にまたがって空を駆け巡るが如く、自由に解放されるのだ。
当然の帰結として、わたしのこの作品に対する要求は、作品を重ねるにしたがって、より高度なものとなっていった。
ハリーたちは、より高度化したわたしのわがままな要求に応えるべく、一層の進化を遂げなければならなかったのである。
ストーリー展開にしても、初期の頃のような子供向けの単純なものでは満足できなくなっていたわたしのようなファンの期待に応えるために、「入念に張り巡らされた伏線」と「複雑なプロット」が用意されたのに違いない。
・・・ああ、なんて自己中心的な感想なんだろうね!
でも、ファンなんてみんなそんなものだ。
最初のうちは、子供騙しみたいな手法でも簡単に引っかかってくれるのに、目が肥えてくると、ちっとやそっとのことではダメ。
自称ハリポタファンともなれば、些細なことでも、目ざとく見つけて、ああでもないこうでもないといっぱしの評論家のようなタメ口をききだす。
例えば、衣装。
今ではすっかり有名になってしまったホグワーツ魔法魔術学校の制服。
最初のうちは、年不相応というか、服に着られていたというか、まあ、あんまり似合ってなかったように思えた。
素敵だ。カッコいい。こういう雰囲気はとても重要だと思う。
なぜなら、ファンタジーにおいては、雰囲気作りがきちんと出来ていないと、なかなかその世界にのめり込めないからだ。これがいい加減に処理されていると、興醒めしてしまう。反面、きちんと細かいところまで作りこまれていると、安心してその世界に身を漂わせることができる。
ハリポタシリーズでは、第1作目から共通していることなのだが、建物とか森や湖などの背景に相当な神経を使い、多分、予算もたくさん費やして、重厚な雰囲気を創り出している。
そういったことの地道な積み重ねが、映像に深みを与え、作り物の安っぽさを感じさせずに、ハリー・ポッターならではの世界へ観客を誘う。知らぬまに、魔法の世界にどっぷりと浸っているという仕掛けだ。
つまり、第4作目にあたる「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」は、これまでのハリポタの世界を継承しつつも、より高度化した観客の要望に応えるべく、構成を練り上げ、わたしのような熱狂的なファンにも対応すべく、映像の隅々にまで神経を張り巡らして、シリーズ最高傑作に仕上がっているのだ。
これが、今までの作品に劣らず、第4作目がおもしろかった最大の理由だと思う。
さて、第4作目について、それまでの作品との違いという点では、これまで述べてきたような点以外に、わたし個人としては、どうしても見逃せない点が1点ある。
ダーズリー一家のことである。
なにしろ、わたしは、こいつらの顔を見たとたんに胃がしくしくと痛み出し、鳥肌がたってしまう。そのくらいこの赤ら顔のデブ親子が大っ嫌いなのだ。
1作目から3作目まで、この憎たらしいダーズリー家の人間がハリーを苦しめる。もはや、わたしにとって彼らは、ハリポタの作中人物というだけではなく、忌まわしい現実世界の象徴となってしまった。
3作目では、彼らに両親を侮辱されて堪忍袋の緒が切れたハリーが、ダーズリー家を飛び出してしまうが、あのシーンでは、わたしは、「よくやった。ハリー!!!」と心の中で拍手喝采したくらいだ。
それにしても、不思議なのは、3作目までは、ハリーがダーズリー家へ戻っていることだ。
1作目も2作目も、ハリーはダーズリー家の連中の制止を振り切って魔法界へ旅立ちながら、学期が終わると、その度に、あの惨めな生活が待っているダーズリー家に戻る。
どうしてなんだ、ハリー。君はマゾなのか。
小説を読むと、この理由が朧気ながら理解できる。
・・・つまり、宿敵ヴァルデモートからハリーを守るために、今は亡きハリーの母親が、魔法をかけたのだ。ダーズリーのような人間の親戚に預けられている限り、ヴァルデモートは、ハリーに指1本触れることができない・・・そういう防御魔法にハリーは守られていたのだ。
でも、そんなことは、映画を観る限りでは判らない。
2作目からは、階段下の物置部屋から昇格して、ちゃんとした部屋を与えられたけれども、それでも、召使か奴隷のような扱いを受けて、惨めな生活であることには変わりない。
ハリーの惨めな生活が、わたし自身の日常生活とオーバーラップして、彼に対する親近感が強くなっていくのを感じずにはいられなかった。
ダーズリー家の人間に迫害を受けるという人生の逆境の中で、一生懸命、健気に生きるハリーのことが、可哀想で、可愛くて、どうにもならないくらい好きになってしまった。そして、彼のことを何とかして助けてあげたい、できれば、わたしが守ってあげたいなどと夢想してしまうのだ。
日常生活の中で、不幸な境遇の人間であればあるほど、その想いは強いものになると思うのだ。
わたしがそうであるように。
これが、わたしのハリーへ対する心の傾斜の理由のほとんど全てだ。
もし、これが、わたし以外の観客にも当てはまるならば、彼の人気の秘密には、彼自身には何の落ち度もないのに、ダーズリー家の人間のような「心貧しい人間に甚振られる可哀想ないたいけな孤児」という設定が大きな比重を占めるのではないかと思われる。
そして、彼のように、人間世界では虐げられていても、本来住むべき魔法世界に戻りさえすれば、その魔法世界の住人からは尊敬され、愛される存在になれるのだということが、作品を観る者(特に、わたしのような実社会での落ちこぼれ者)に希望と勇気を与えてくれるのだと思う。
ハリーには気の毒だけれど、彼は、人間世界では、思いっ切り惨めで不幸である必要がある(わたしよりも!)ということになる。
それでは、ダーズリー一家がいなくなったら、困るのではないかということになるが、困らないように、ちゃんと彼らの代わりは用意されている。
ダーズリー家での虐待に代わるハリーの新しい逆境は、年齢制限に抵触して伝説の対抗戦に出場する資格がない・・・どこかの国の女子フィギアスケートの選手にも似たような境遇の選手がいるけれども・・・ということである。
ダーズリー家での虐待と比べたら、甘すぎる設定と思われるかもしれない。
しかし、ハリーにとって、人間世界の出来事などどうでもよいのは、彼の生きるべき魔法世界が別に存在するからである。
ハリーにとって、魔法世界は彼の最後の拠り所なのである。
その魔法世界で起こった出場資格問題は、もの凄く大きなダメージを彼に与えたと推測される。
ハリーにとっては、ダーズリー家での迫害現実も含めて、人間世界の出来事などどうでもよい些細なことなのだ。
魔法世界の出来事である出場資格問題は、正に彼を苦しめる喫緊の重大事件なのだ。
ここで物語の構成として重要なのは、悪の化身ヴォルデモートの謀略により、本来は出場資格のないハリーがホグワーツ魔法魔術学校の代表選手に選ばれてしまう点だ。
全てはここから始る。
ハリーは可哀想に、ズルをして代表選手に選ばれたと思われてしまうのだ。
親友のロンでさえも、ハリーのことを信じてくれない。ことここに至ると、この設定が、ハリーにとって、相当過酷な逆境であるということがご理解いたただけるのではないかと思う。焦燥にも似た苛立ちの中で、対抗戦の開催日が迫ってくる。
一体誰が何のために、ハリーを選手に選ばせたのか。
これまでのハリー・ポッターの物語にはないミステリー仕立てで、物語は進行していく。
こうやって、わたしの関心を逸らさない展開は見事というほかない。
さらに、今回のハリーでは、思春期における彼の淡い初恋まで演出されている。
お相手は彼女、チョウ。東洋人というのが、泣かせるではないか。少なくとも、わたしは、彼女に自分自身を投影してしまった。
パーティのダンスの相手に、彼女を誘いたいのだけれど、なかなか言い出せなくて、結局、他の男に先を越されてハリーとロンは「壁の花」になってしまう。なんともやるせなく切ない話だ。
むろん、わたしなら、先約を蹴って、ハリーと踊るのにっ。
反面、ハリーのファンとしては、非常に好ましい状況設定だ。
彼はこうでなくちゃね。
万一、ハリーが最初からチョウを誘うのに成功して優雅に踊ったりしたら、それこそ大変。
ハリーのイメージが壊れてしまう。
それに引き換え、ハーマイオニーは実に美しく変身する。
ダームストラング校代表のビクトールと華麗なダンスを披露し、両校の友好に一役買う。
彼女にしても、本心は、ロンかハリーに誘って貰いたかったのに違いないのだが、ロンもハリーも煮え切らないのだから・・・。
このへんの心の機微は、実に丁寧に描かれていて、物語に幅と深みを与えている。
このようなサブストーリーを散りばめながら、メインストーリーは骨太に進行していく。
メインストーリーとは、伝説の対抗戦に隠されたヴァルデモート復活の陰謀である。
なぜ、年齢制限規則を破ってまでハリーを出場させなければならなかったのか。
対抗戦が進行するに従って、その理由が明らかになっていく。
ヴァルデモートは、ハリーの両親が自らの命を犠牲にしてやっと退治できた極悪人であるが、そういう情報は、物語の中でも、もはや伝説化していて、実際のところ、これまでの作品の中では、その最後の状況などが詳しく語られることはなかった。
今回は、遂にヴァルデモートの正体の一部が明らかになる。
そして、ずっと胡散臭いと思っていた「ルシウス・マルフォイ(ジエイソン・アイザックス)」が、やはりヴァルデモートの手先だったということが判明するのだ。
ヴァルデモートを封印しているのは、やはりハリーの両親の力だった。その封印を解き、死者の世界から抜け出すためには、偉大なる魔法使いの血を受け継いでいるハリーの血が必要だった。ハリーを捕らえ、ヴァルデモートが封印されている死者の世界へハリーを誘き寄せるために、伝説の対抗戦の最後の難関「魔法の迷宮」に罠をしかけたのだ。
そして、その罠を仕掛けたのは、かつてヴォルデモートを復活させようとして魔法界を追放された魔法省の高官「バーティ・クラウチ」の息子「クラウチ・ジュニア」だった。彼こそが、ハリーの夢の中に何度も出てきて、ハリーを怯えさせていた張本人だったのだ。クラウチ・ジュニアは、「マッド・アイ・ムーディ」になりすまして、対抗試合を裏で操り、ハリーが優勝できるように画策する。
なんと優勝杯がヴァルデモートの隠れている場所への移動キーになっていたのだ。
いきなり、宿敵ヴゥルデモートの許に転送されてしまうという絶体絶命のピンチ。
ハリーは、ヴァルデモートを打ち破り、生還することができるのか・・・。
わたしは、このミステリアスにしてスリリングな展開に、一瞬たりとも、画面から目をそらすことが出来なかった。
やっぱり、ハリー・ポッターはおもしろい。
一緒に映画館に行った小学生の甥っ子も、存分に魔法の世界を満喫した様子だった。
今年、最高傑作のひとつであることは間違いない。是非、劇場の大画面で観ることをお勧めする。
期待以上の感動を与えて貰った。
もちろん、ハートは満点の3つ。
mina、お勧めの作品。
公式サイト
本も読んでみたのだが、これも、さすがにおもしろい。
上下2冊。凄いボリュームだ。
ゴシップ女性記者「リータ・スターキー」のエピソードは、本で読む方が、断然、詳しくておもしろい。
最後のヴァルデモートとの顛末も、本の方が詳しくて判り易い。
映画を観た後で、もし、まだ読んでいないのなら、一読をお勧めする。
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次の作品では、すっかり大人になってる?!
ハリーよりロンが気になっていくんデス・・・・・・
特に3作目はDVDでさえ見てないので、大きくなった経過がすんなり繋がったという感じです。
劇場で見るとこんなに楽しいものか!と今回つくづく思いました。
お話ですが、ドラゴンがこわかったですね。
ハリーが、すごく大人になって、
ハーマイオニもうつくしい女性に
変貌しましたねー!
大人から子供まで楽しめるよね。
ところで新宿で働いてたんだ。
ビックリ。
今でも愛媛から東京に遊びに来たりするんですか?
この映画の登場人物たちが成長を遂げているように、映画鑑賞という「経験」を踏みしめてゆくことで映画に対する観察眼をお互い更に養って行きましょう!
こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。m(_ _)m
官能小説も途中までしか読んでないけど、
映画記事を楽しませていただきました。
俺は大の大人・・・というよりおっさんですが、
子供向け映画も平気で一人で見に行きます。
恥ずかしい場合には、
「私は映画評論家よ」みたいな顔をして、
手にメモ帳と映画雑誌を携えていくと完璧です。
来年もどぞヨロシク。
御挨拶に参りました!!
あたたかいコメントの数々に感謝!いたします。
本当にありがとうございました。
来年もまた宜しくお願いいたします。
良い年をお迎えください!!!!!
インフルエンザに罹ったり、忘年会とか残業で、
疲れきった朦朧とした頭で書いたため、
なかなか決定稿が書けず、
ようやく本日になって、推敲ができました。
・・・推敲もしていない文章を貼り出すなというご批判はごもっともで、今後は、自分で納得したうえで貼り出します・・・
したがって、特に、最初にコメントいただいたsam様やみはいる・B様は、えっ?って思うくらい内容が変っていると思います。
本当にすみません。
それにしても、今年は、内外ともに秀作が多かったですね。わたしも、観たけれども、まだ感想を書いていない作品がたくさんあります。
今年中に全部書きたいと思っているのですが、こんなことでは、到底無理ですね。
はりぽた4、おもしろいんですね。
僕も一応前3作を見たので、
今回も見ることでしょう。
キングコングみました。
映像、すごすぎ!!!
今回は青春映画でしたね。
だんだんと大人になる三人の心の機微が結構丁寧に描かれていました。
あ~一瞬でも学生に戻りたい(笑
これ シリーズ中 一番好きな作品になりました♪
人気があると、天邪鬼になってしまう。。。
日本で人気が出る前に本は買ってたのですが、そのときはまだ読んでいませんでした。
しかし、ロンの成長振りがすごいです♪
ではこのへんで^^いつも楽しく読ませていただいてます