図書館屋の雑記帳

自分のこと、図書館のこと、図書館関係団体のこと、本や雑誌など図書館の資料について気の向くまま書いていきたいと思います。

踏み台凡兆(2)

2006-03-07 | 踏み台凡兆

 2.凡兆の伝記
 
これからしばらく芭蕉とのかかわりを中心に、凡兆の人生を見ていこうと思います。便宜的に凡兆の人生を『猿蓑』の刊行された元禄4年(1691年)と、その準備期で芭蕉と凡兆がも最も親しく行き来した元禄3年(1690年)を真ん中に置き、前後併せて3期とし考えてみます。

1)第1期-元禄2年(1689年)まで
 凡兆の生まれに関する記事は次のもののみのようです。
「凡兆加州之産也。業医居于洛。」(森川許六編『本朝(風俗)文選』宝永3年<1706年>)
(ここでは藤井乙男著『校註風俗文選通釈』 昭森社 1944年、より引用)
 生年や、芭蕉と出会うまでの生活の詳細は記録にはありません。姓についても、野沢氏、宮城氏、越野氏、宮部氏等伝えられていますが、詳らかなことは不明です。医者として名は達寿です。

 元禄元年(1688年)には「序」で述べたように尚白の家において尚白・其角・凡兆(当時は加生と名乗っていた)による連句が作られています。
 この年芭蕉は伊賀で正月を迎え、その後伊勢、大和、紀伊、大坂、須磨、京、大津、尾張と周り、木曽路から中仙道を歩いて8月下旬には江戸に帰っています(ちなみに前年10月江戸出立から大坂までのことをまとめたのが『笈の小文』で、尾張から江戸帰京までをまとめたのが『更級紀行』です)。この間に凡兆に関する記事はなく、凡兆の存在がそれほど大きくなかったことがうかがわれます。
  
 元禄2年(1689年)3月山本荷兮(かけい)編の『阿羅野』が刊行され凡兆は「京 加生」として発句が2句入集しています。また妻の羽紅(生没未詳)も「京 とめ」として1句入集しています。芭蕉は『阿羅野』に序を書いており、「おくのほそ道」の旅に出るのはこの直後(3月27日出立)です。芭蕉がこの旅を終えて京に落ち着くのは同年12月下旬であり、この年に芭蕉と凡兆が直接会った可能性は低いと考えられます。
 まだこの時点では、やっと蕉門の一人として認められたという程度でしょう(『阿羅野』に載る作者の多くは蕉門の人々)。
 
 このように見てくると、元禄元年と2年の時点における凡兆の地位は、蕉門の無名の新人というものであったと推定できます。


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