2.凡兆の伝記
これからしばらく芭蕉とのかかわりを中心に、凡兆の人生を見ていこうと思います。便宜的に凡兆の人生を『猿蓑』の刊行された元禄4年(1691年)と、その準備期で芭蕉と凡兆がも最も親しく行き来した元禄3年(1690年)を真ん中に置き、前後併せて3期とし考えてみます。
1)第1期-元禄2年(1689年)まで
凡兆の生まれに関する記事は次のもののみのようです。
「凡兆加州之産也。業医居于洛。」(森川許六編『本朝(風俗)文選』宝永3年<1706年>)
(ここでは藤井乙男著『校註風俗文選通釈』 昭森社 1944年、より引用)
生年や、芭蕉と出会うまでの生活の詳細は記録にはありません。姓についても、野沢氏、宮城氏、越野氏、宮部氏等伝えられていますが、詳らかなことは不明です。医者として名は達寿です。
元禄元年(1688年)には「序」で述べたように尚白の家において尚白・其角・凡兆(当時は加生と名乗っていた)による連句が作られています。
この年芭蕉は伊賀で正月を迎え、その後伊勢、大和、紀伊、大坂、須磨、京、大津、尾張と周り、木曽路から中仙道を歩いて8月下旬には江戸に帰っています(ちなみに前年10月江戸出立から大坂までのことをまとめたのが『笈の小文』で、尾張から江戸帰京までをまとめたのが『更級紀行』です)。この間に凡兆に関する記事はなく、凡兆の存在がそれほど大きくなかったことがうかがわれます。
元禄2年(1689年)3月山本荷兮(かけい)編の『阿羅野』が刊行され凡兆は「京 加生」として発句が2句入集しています。また妻の羽紅(生没未詳)も「京 とめ」として1句入集しています。芭蕉は『阿羅野』に序を書いており、「おくのほそ道」の旅に出るのはこの直後(3月27日出立)です。芭蕉がこの旅を終えて京に落ち着くのは同年12月下旬であり、この年に芭蕉と凡兆が直接会った可能性は低いと考えられます。
まだこの時点では、やっと蕉門の一人として認められたという程度でしょう(『阿羅野』に載る作者の多くは蕉門の人々)。
このように見てくると、元禄元年と2年の時点における凡兆の地位は、蕉門の無名の新人というものであったと推定できます。
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