mimi-fuku通信

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【追悼:はだしのゲン×中沢啓治=原爆の悲惨】:12月26日の朝刊コラムを読む。

2012-12-26 21:09:09 | 政治・社会・時事

2012年12月25日。
クリスマスのお昼休みに中沢啓治さんの死を知った。
2012年12月26日。
年末総選挙で大勝した第2次安倍内閣の組閣。

日本の反戦運動にとって重要な役割を果たした一人の漫画家の死。
大きなニュースの陰に隠れ決して大きな報道になったとは言えない。
しかし亡くなった翌日の新聞コラムでは多くの追悼文が掲載された。
亡くなられた中沢さんが伝えたかったことと記者の記憶に刻まれたこと。

自分用のメモとしてブログ内に記録したいと思う。

*****

ゲンの力「原爆の子―広島の少年少女のうったえ」。
60年余り読み継がれる被爆体験手記集の序文に数行、
6歳で被爆した中沢啓治さんの作文が引用されている。
「学校につくと、きゅうに思い出した。わすれ物をしたのだ。ぼくは早速家に帰ろうと」
絵の才能にあふれていた中沢さん。
34歳のとき自らの被爆体験をペンに託した。
漫画雑誌に連載を始めた「はだしのゲン」。
過酷な主人公の運命に大人も子どもも、心揺さぶられた。
ピカドンで地獄絵図と化したまち。
ゲンたちが受ける差別と非情な仕打ち。
生々しい描写は子どもには重すぎると批判も受けた。
だが「これでも現実のほんの一部だ」と中沢さん。
目をそらすな、怒りを忘れるな。
そんな問いかけだろう。
ここ数年、漫画家の命だった視力が弱り病と闘った。
「目は見えなくても思いを伝えることはできる」
と力を振り絞り子どもたちに語り続けた。
へこたれないゲンのように強く生きてと。
その肉声は聞けなくなった。
でもゲンはこれからも世界を駆け回る。
アジアや欧米で翻訳され愛読の輪は広がる。
平和への思いを私たちはどう受け継ぐか。
中沢さんがゲンの目で見守っている。
(2012年12月26日付:中国新聞コラム)

*****

戦後しばらく原爆をめぐる表現は占領軍にきびしく検閲された。
そんな中でまっ先に惨さを歌に詠んで発行した一人に正田篠枝さんがいた。
「大き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」。
自らも広島で被爆した歌人は1965年に他界している。
その翌年に漫画家の中沢啓治さんの母親も亡くなった。
やはり広島で被爆し後遺症に苦しんだ母は骨さえ残さなかった。
火葬のあとは白い破片と粉のようなものがあるだけだったという。
人が生きたことの最も素朴な証しが骨だろう。
「原爆は大事な大事なおふくろの骨まで奪っていくのか」。
たぎる怒りが被爆体験から逃げていた心を揺さぶる。
自伝的漫画「はだしのゲン」はそうして生まれた。
小1だった中沢さんは爆心に近い校門前で炸裂に遭った。
「小さき骨」にならずにすんだのは奇跡でしかない。
だが父、姉、弟を亡くし、妹も栄養失調で失った。
自伝を描くのに絞った勇気と涙は、いかほどだったかと思う。
「ゲン」は絵本も含めて1千万部を超え18カ国語に翻訳された。
生前最後の本になった、
『はだしのゲン わたしの遺書』(朝日学生新聞社)でささやかな喜びを述べている。
国内の図書館で表紙が手垢(てあか)でぼろぼろになってベニヤ板で留めてある「ゲン」を見たそうだ。
「うれしくてね。作者冥利に尽きます」。
73歳の訃報に多くの読者が胸に刻み直すことだろう。
原爆の悲惨とそれでも麦のように伸びて生きる少年の姿を。
(2012年12月26日付:朝日コラム)

*****

爆風で飛んだ窓ガラスが顔一面に突き刺さる。
遺体の山には、うじ虫がはう。
原爆投下後の広島を描いた漫画『はだしのゲン』には、
目を背けたくなるカットがこれでもか、これでもかと登場する。
漫画家中沢啓治さんの自伝的作品。
夢と希望が売りの少年漫画に、なぜ重い社会的なテーマをぶつけたのか。
自著に「戦争で原爆で人間がどういうふうになるかというところを徹底的に描こうと思った」
と記した。
きっかけは1966年の母親の死だった。
火葬場で遺体を焼いた際、骨がほとんど残らなかった。
原爆の後遺症だろうか。
「おふくろの骨を返せ」。
怒りを創作意欲に昇華させた。
ペンや映像で原爆の狂気を世界に訴えてきた。
単行本は18カ国語に翻訳されベストセラーになった。
最近は体調を崩して講演に力を入れていたが帰らぬ人となった。
廃虚の広島を脳裏に焼き付け、そこから立ち上がる民衆を愛した。
「残念なのは戦争の傷跡がどんどん見えなくなっていること」。
と被爆体験の風化を憂えた遺族は、
「星となりゲンとともに空から核兵器のない平和な世界を願っているはず」
とメッセージを寄せた。
震災の風化と風評被害に苦しむ東北の被災者。
中沢さんの作品世界を今こそかみしめたい。
(2012年12月26日付:河北新報コラム)

*****

その光は、目を閉じれば、ありありと蘇ったという。
白を中心にして、まわりが青白いリンが燃え狂ったような、
外輪が赤とオレンジを混ぜたような、すさまじい火の玉。
七十三歳で逝去した中沢啓治さんは六歳で地獄を見た。
広島原爆の爆心地から一・三キロで被爆した中沢さんは、
自宅の焼け跡から父と姉、弟の骨を兄と掘り出した。
父と弟は家屋の下敷きになり生きながら焼かれた
おびただしい数のむごたらしい死体、漂う死臭の記憶。
それは生涯、中沢さんを苛んだ。
そのたびに、
「逃げ場のない穴に閉じこめられたような暗い気持ちになって落ちこんでしまいます」。
と最後の著書『はだしのゲン:わたしの遺書』に書いている。
小一の子を持つ母親から抗議の手紙を受け取ったことがあるという。
漫画『はだしのゲン』を読み夜トイレに行くのが怖いと泣く。
あんなどぎついものはかかないでくれと。
中沢さんは返事を書いた。
「あなたのお子さんは立派に成長しています。ほめてやってください。
『はだしのゲン』を読んでトイレに行けないくらい自分のこととして感じてくれた。
こんなありがたいことはありません」。
座右の銘は「一寸先は闇」。
被爆以来死の恐怖と背中合わせで生きてきたからだ。
死を見つめ続けたからこそ生のたくましさを描きえた。
その死は穏やかなものだったという。
(2012年12月26日付:中日新聞コラム)

*****

「怒りですよ。弔い合戦です」。
73歳で亡くなった漫画家中沢啓治さんは作品に込めた思いを生前のインタビューで語っていた
広島市から上京した当初は被爆者であることを伏せていた。
転機は1966年の母の死だった。
遺体を火葬にすると骨は形をとどめず粉々になった。
「原爆は骨まで奪うのか」。
わき上がった怒りを原動力に原爆を題材にした作品を次々に発表した。
やがて自らの被爆体験を描いた代表作「はだしのゲン」に結実する
被爆の惨状を生々しく描き、
「子どもが怖がるからやめて」。
と読者から抗議の手紙が届いたこともある。
「怖いと思うならお子さんは正常です」。
と返事を書いた。
原爆の本当の怖さを伝えることが核廃絶につながるとの強い信念があった
晩年は病気との闘いで漫画が描けなくなったが、
「まだできることはある」。
と入退院を繰り返しながら講演活動を続けていた。
「原爆に負けてたまるか。この目で原爆の最後を見届けてやる。その一念だったと思います」。
遺族が広島市を通してメッセージを寄せた。
広島、長崎への原爆投下から67年。
核廃絶への道筋はいまだ見えてはこない。
だが、中沢さんはかねて、
「人間への希望を失っちゃいけない」
とも語っていた。
怒りと希望。
その二つを残された者が受け継がねばならない。
(2012年12月26日付:山陽新聞コラム)

*****

広島など中国地方には正月20日に麦を褒める唱え事をする「麦褒め」という行事がある。
昔は家族総出で麦の芽を踏んだ。
「おまえは麦になれ。ふまれて強く根を張り実をつける麦に」。
父の言葉を胸に生きたのが「はだしのゲン」だった
ゲンは原爆で父や兄弟を失い、原爆後遺症で母も失う。
広島の被爆者、中沢啓治さんの自伝的漫画を読んだ時はまだ子どもだったが眠れないほどの衝撃だった。
皮膚がただれた人が水を求めて亡霊のように歩く描写は見るのがつらかった
中沢さんは、
「残酷な場面を見て『怖いっ!』と言って泣く子が日本中に増えたら本当に良いことだと私は願っている」。
と述べた。
戦争の恐ろしさを伝える使命を心得ていたのだろう。
自身が被爆者であることを隠していたが母の死を聞きつけた米国の原爆傷害調査委員会が標本のため遺体の内臓の提供を迫る。
火葬した母の骨は形状をとどめないほど粉々。
それを機に「原爆」と正面から向き合う
20年前。
漫画家の新里堅進さんと中沢さんは沖縄と広島の少年を主人公にした絵本を企画。
出版社の都合で実現しなかったが過酷な体験をした2少年が出会う場面ができたかも。
中沢さんが73歳で亡くなり戦争の惨さを語れる人がまた1人逝った。
2度と軍靴の音を響かせてはならない。
ゲンの教訓に新しいこの国の宰相も学んでほしい。
(2012年12月26日付:琉球新報コラム)

*****

中沢啓治の名前よりも『はだしのゲン』。
『はだしのゲン』がなければ、
中沢啓治と聞いてもピンとこない。

少年ジャンプで連載された『はだしのゲン』。

リアルタイムで読んだ世代だ。
当時は貸本業が街に残る時代。
書店の立ち読み、理髪店の待合、友人宅。
何処に行っても漫画があった。
私は貪るように読んだ。


ウィキペディアによると、
1973年25号から連載が始まり、
1974年39号に終了(第一部)。
連載当初は飛び飛びに読み、
中学生の時に単行本を借りて読んだ。

約37年前の記憶は惨たらしい戦慄の描写と、
親しみにくいタッチの描き方に違和感を覚えた。
人間の皮膚が溶け爛れ水を求めて彷徨う人々。
夏の死体には虫がたかりウジがわく。
1発の爆弾は多くの命と多くの未来を奪った。
*その事だけは子供だった私にも理解ができた。

文書では伝えきれない漫画(絵)での表現。
自分の目に焼きついた地獄絵図。
今のように情報伝達手段を持たない当時の惨状。
漫画と云う手段は子供心にリアリティを植え付けた。

間もなく大人になって、
土門拳(写真家)さんの「ヒロシマ」を見た。
手元の資料によると昭和32年(1957年)7月23日に、
『週刊新潮』の取材としてヒロシマを訪れ、
多くの記録(時代の証言)を残し世に問うた。
<少女の醜形瘢痕植皮手術>
<被爆者同士の結婚>
<胎児で被爆したK君の死>
<原爆後遺症で13年間寝たきりの人>
ジャーナリスト;土門拳が伝えた真実。
原爆投下から13年の月日が過ぎての惨状。
中沢啓治さんが目にした“原爆の悲惨”が如何なものか?
今を生きる者にとって想像すらできない。

もうひとつ紹介したい文書がある。
先日から文字にしている矢沢永吉さんのブログ記事の資料として、
本棚から取り出し再読した『キャロル:暴力青春』(ワニブックス)。
冒頭部分を編集転載させていただくと、
「おばーちゃんの話だと、
広島に原爆が落ちるまでオレの家は金持ちだったらしい。
市内ではかなり大きな自転車屋で裏では酒屋もやっていた。
それが原爆で全部パーさ。
オレの兄貴も財産もいっぺんに失ったオヤジは、
そのとき地獄を見たんだろうか?
酒びたりになって立ち上がれなったらしい。
そのオヤジも、
オレが小学校2年の時に、
かわいそうに死んでしまった。」
原爆は残った者の未来すら奪い去る。

核兵器の脅威。
核と原爆(原子爆弾)。
核と原発(原子力発電所)。

ヒロシマとフクシマ。
時を経て永久に語り継がねばならない。
それが残酷な手段(リアリティ)だとしても、
子供心に焼付けた正義は生涯記憶に残る。

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【清涼飲料を飲む習慣の女性に脳梗塞リスク?4万人を調査】:私の疑問。

2012-12-26 19:37:00 | mimifuku

清涼飲料水を飲む回数が多い女性ほど脳梗塞になる例が多いことがわかった。
「ほぼ毎日飲む」人の発症率は「ほとんど飲まない」人の1・83倍。
男性でこの傾向は見られなかった。
★読売新聞

お騒がせな調査発表。
生産者・販売者にとって死活問題の情報に私は疑問を投げかける。
清涼飲料水の“何の成分が問題”なのか示さない研究者の勇み足?
予想される糖分接種量と血液の循環(血中糖分)。
調査サンプルの肥満度と清涼飲料水の関係(摂取カロリー=脳梗塞リスク)。
清涼飲料水の摂取量と運動量の関係=生活習慣?
清涼飲料水を摂取する時に所望する間食の有無(ケーキ・スナック類)。
何も示さないで清涼飲料水=脳梗塞。
私の目には無責任な発表に思う。

*****

清涼飲料水を飲む回数が多い女性ほど脳梗塞になる例が多いことが約18年間に及ぶ国内約4万人の追跡調査データをもとにした研修者(大阪大学教授:公衆衛生学)の分析でわかった。
分析に用いたのは岩手、秋田、東京、長野、沖縄の5都県で1990年に40~59歳だった男女計3万9786人を対象に生活習慣を調べた国立がん研究センターのデータ。
研修者が2008年まで追跡調査しコーラや果汁飲料など糖分を加えた清涼飲料水(果汁100%ジュースは除く)と循環器病の発症との関連を調べた。
このうち脳梗塞になったのは1047人(男性670、女性377)。
清涼飲料水を飲む回数で「ほとんど飲まない」から「ほぼ毎日飲む」まで4グループに分けたところ、飲む回数の多い女性ほど脳梗塞になる例が増え「ほぼ毎日飲む」人の発症率は「ほとんど飲まない」人の1・83倍になっていた。
男性でこの傾向は見られなかった。
男女差についての詳しい理由は不明という。
2012年12月26日:読売新聞)

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