ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

経済学者たちの日米開戦 牧野邦昭 圧倒的な国力の差を知りながら、なぜ開戦に踏み切ったのか

2019年10月25日 | 読書日記
牧野邦昭 経済学者たちの日米開戦 俊秀経済学者たちの分析はなぜ開戦判断に生かされなかったのか

 

 数か月前に買ってそのままにしていた。2018年5月の発行だが、2019年6月でもう9刷。評判のいい本だと思ったが、今年の吉野作造賞受賞作とは知らなかった。牧野氏は1977年生まれ。東大経済学部を卒業し、現在は摂南大経済学部准教授。近代日本経済思想史が専門だ。副題は「秋丸機関『幻の報告書』の謎を解く」とある。

 秋丸機関とは太平洋戦争開戦直前の1939年9月、関東軍参謀部から陸軍省に転任した秋丸次朗・主計中佐がつくった経済研究班の別称だ。彼は関東軍で満洲国の経済建設を担当していた。宮崎県出身で、陸軍経理学校を卒業し、主計将校として勤務した後、東大経済学部に入学し工業政策を学んだ。彼が在籍した関東軍参謀部第4課は、「関東軍の頭脳」。「第4課の任務は満洲国に対する国政指導と産業関係を担当すること」で、陸軍でもエリート中のエリートだったようだ。当時の満洲国は岸信介など日本政府から満州国に派遣された「革新官僚」による経済政策の実験場だった。本書には岸信介(当時は満洲国総務庁次長)と隣り合わせの写真が載っている。

 秋丸は上司から、「貴公が本省に呼ばれたのも経済戦の調査研究に着手したいからである。既に活動している軍医部の石井細菌部隊に匹敵する経済謀略機関を創設してほしい」と打ち明けられた。1939年5月、関東軍は対峙するソ連軍と満州国西北のノモンハンで激突したが、ソ連の重火器に一蹴される。陸軍が兵器近代化や国力充実の必要性を痛感していた時期だった。秋丸はすぐ陸軍省戦争経済研究班(秋丸機関)の創設に着手した。このとき頼ったのが東大経済学部時代の人脈。すぐ名前が挙がったのが東大経済学部にいた有沢広巳。当時、第二次人民戦線事件で、他の労農派マルクス経済学者とともに治安維持法違反で検挙され、休職中だった。有沢は秋丸に、「いま起訴保釈中の身分である。それをご承知の上なら、ひとつやりましょう」と応じた。有沢は陸軍内部でも優秀さを評価されていた。秋丸の上司も、「科学的客観的調査の必要性を強調した」ので、引き受けたという。

 評者は、猪突猛進のイメージが強い陸軍が労農派経済学者の起用を決めたことに驚いた。秋丸機関は有沢を主査に委嘱したばかりか、中山伊知郎(東京商大)や川上肇門下の宮川実(立教大)らも参加した。多くは有沢が人選した。「こうして有沢を中心とする英米班、武村の独伊班、宮川のソ連班、中山の日本班、蝋山および木下の国際政治班という体制が整った」。武村は当時慶應大学にいた武村忠雄、蝋山は蝋山政道、木下は木下半治だ。「こうした個別の研究班と共に『謀略的個別調査』のため、『各省の少壮官僚、満鉄調査部の精鋭分子』が集められる」「秋丸機関は、いわば『陸軍版満鉄調査部』として多くの学者や官僚などを集めて活動を始め、(中略、昭和)15年1月末に設立され、5月にその陣容が整った」。だが、研究は遅延する。詳細は不明だが、班員の一部が治安維持法違反事件に絡んで検挙されたことが原因らしい。

 それでも昭和16年3月には中間報告ともいうべき、「経済戦争の本義」が刊行されている。これと内容がほぼ同じ「経済戦の本質」が現存している。ここでは経済戦争とは「交戦両国の経済に対する抗争が戦争に於ける最重要なる手段の一つとなること当然である」「一国の国防経済力の強さは之を構成する諸力の最弱力に依って定まる」とし、「一国の国防経済力を増強するためには最弱点を補強し、経済動員の準備計画を整え、経済力の培養・育成・節約をしなければならばならない」と説く。筆者は有沢の筆になるものとみている。

 報告書は1941年中に完成し、陸軍内部で報告会が行われたらしい。しかし、報告書そのものが行方不明になったうえ、記録も残されていないため、完成時期ははっきりしない。だが、最近、発見された報告書の日付から昭和16年7月中に完成したらしい。

 幻の報告書は発見の経緯がすこぶる面白い。報告書は長年、秘密にされ、有沢ら参加者も陸軍上層部の命で、すべて焼却されたと考えていた。だが、有沢の死後、その旧蔵資料の中から報告書の主要部のひとつ、「英米合作経済抗戦力調査(其1)」が見つかった。これと対をなす「英米合作経済抗戦力調査(其2)は筆者が2014年、古書店のデータベースから東京の古書店が持っていることを発見、購入して東大経済学部資料室に寄贈した。報告書の主要部のひとつ「独逸経済抗戦力調査」も筆者のオンライン検索で2013年、静岡大付属図書館に所蔵されていることが判明した。オンライン検索を通して資料が「発見」されるのは、資料探索の新たな可能性といえるだろう。古書データベースから、探していた資料が見つかった喜びはどれほど大きかったことか。「独逸経済抗戦力調査」の「判決(結論)」は筆者自身が文字起こしし、経済史学会HPで公開したという。

 さて、その内容はどういったものだろうか。英米合作抗戦力調査の結論によると、
①英米が合作すれば米国の供給余力により、英国の供給不足を補い、想定規模の戦争遂行に対して耐え得る経済抗戦力がある
②英米の合作は70億ドル余の軍備資材の供給余力がある
③ただし最大供給力の発揮には、開戦後1年ないし1年半の期間が必要、などとなっている。

 一方、「独逸経済抗戦力調査」ではさらに踏み込んだ結論が述べられている。
「独逸は今後対英米長期戦に堪え得る為にはソ聯の生産力を利用することが絶対に必要である。従って独軍部が予定する如く、対ソ戦が2ケ月くらいの短期戦で終了し、直ちにソ聯の生産力利用が可能となるか、それとも長期戦となり、その利用が短期間になし得ざるか否かによって、今次大戦の運命も決定さる」「ドイツは既に労働力の限界に達しており、また食糧不足に悩んでおり、このままでは占領地の不満も高まっていく。したがってドイツにとってソ連の労働力とウクライナの農産物を利用することが絶対に必要である。(中略)また石油も不足しており、(中略)年産2300万トンのバクー油田を有するソ連に求めざるを得ない」「つまり『長期戦になればアメリカの経済動員により日本もドイツも勝利の機会は無い』ことを明示している一方で、『独ソ戦が短期で終われば少なくともイギリスに勝つことができるかもしれない』という見方を示しているともいえる」。

 報告書の内容が明らかになると、「秋丸機関が強調したかったのは特にアメリカと日本の国力の差による対米開戦の無謀さだった(それゆえに対米開戦を決意していた陸軍上層部には都合の悪いものだったので報告書は焼却された)」という議論が支配的になった。筆者はこれを報告書に関する「通説」とみる。これには異説があるが、両説とも「共に『秋丸機関の報告書に書かれた情報は当時の一流の経済学者が分析した高度なものなので一般には知られていなかった』という前提に立っている。しかし、本当にそうなのだろうか」と筆者は強い疑問を発する。当時の新聞や雑誌を詳しく分析し、こうした内容が当時も秘密ではなかったことを突き止めていく。秋丸や「独逸」班主査の武村は新聞や雑誌で報告書の内容を発表しており、関係者の間では既知の事実だった。とくに武村は雑誌「改造」の時局版(16年7月2日発行)で、「独ソ開戦と日米関係」と題し、報告書の骨子をほぼそのまま載せている。このあたりの筆者の綿密な調査には圧倒される。

 筆者は次いで秋丸機関の報告書の効用について、新たな角度から迫る。当時はドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)直前だった。駐ドイツ大使から事前に侵攻確実の極秘情報がもたらされ、陸軍は北進(ソ連侵攻)を主張する参謀本部と南進(ソ連の脅威が薄れるからこそ資源目当てに南方進駐)を主張する陸軍省との間で激論が戦わされていた。筆者は報告書には「北進させない」ための主張が込められているとみる。実際、「独逸」の結論には「我国の経済抗戦力の現状からして北と南の二正面作戦は避く可し」「北に於ける消耗戦争は避け、南に於いて生産戦争、資源戦争を遂行す可し」と書かれている。

 「秋丸次朗がどこまで意図していたかは別として、秋丸機関の報告書は当時の文脈でいえば、陸軍省軍務局の『南進』を支持し『北進』を批判するための材料としての色彩を帯びたのである」「北進について根強い反対論がある中、資源確保及び南進基地の確保のための南部仏印進駐については陸海軍内部で特に異論は無く、(中略、7月)28日から進駐が開始された。これにアメリカは直ちに反応し、7月25日に在米日本資産が凍結され、8月1日には日本に対する石油輸出が停止された」。

 「結局、北進しても南進してもアメリカ、イギリスとの戦争は避けられなかったと考えられるが、ただ一つ言えるのは、北進しなかったことによって日本が昭和20年8月まで、アメリカ、イギリス、ソ連と同時に戦うことだけは避けられたということである。終戦時に鈴木貫太郎内閣の書記官長となって終戦に尽力した迫水久常は、戦後の江藤淳との対談で、『日本の陸軍のたった一つのとりえは、ソ連の実力を正当に評価しておったことである、もし正当に評価してなかったら、おそらくあのときに兵隊を出しただろう』『そうすれば、明らかに日本は北日本と南日本に分割されていた』」と述べる。ソ連が戦後、北海道の分割統治を要求したことは知られている。

 秋丸機関創設を命じた秋丸の上司、岩畔豪雄大佐は開戦直前の日米交渉に加わるため渡米した。彼が持ち帰った「米国の経済調査報告」は衝撃的だった。報告は日米経済力を詳細に比較し、製鋼能力は1対20、石油産出量は1対数百、石炭産出量は1対10、電力は1対6、飛行機の生産計画量は1対5、船舶保有量は1対2など日本の劣勢を冷静に分析している。岩畔はこの資料をもとに、第一案は対米開戦論、第二案は日米国交回復論、第三案は情勢観望(日和見)論を考えたという。この中では第二案が「交渉妥結のためには仏印と中国から全面撤兵する必要があるため容易ではないが」一番現実的と執着していた。8月15日に帰国した岩畔はすぐに政府大本営などで帰朝報告会を開いた。近衛首相や木戸内大臣らは熱心に話を聞いたものの、陸海軍で話を真剣に受け止めたのはごく一部だった。岩畔にはその直後、南部仏印に進駐する近衛師団連隊長の辞令が出る。「岩畔はこれを対米戦回避を訴えたための左遷であると考えた」。陸軍部内ではこの報告書に、「商社マンからの情報にほとんど全部おぶさっていた」という厳しい批判が出ていたという。

 だが、筆者は日米抗戦力の圧倒的な差は当時の常識だったとみている。「秋丸機関の研究だけでなく、(中略)、『対英米開戦の困難さ』を示す研究は無数にあった。対英米開戦をすれば短期的には何とかなっても長期戦(二ー三年)になれば日本は困難な情勢に陥るということは、日本の指導者は皆知っていた」「にもかかわらず、開戦に至ったのぜなのだろうか。それは当時の指導者の『非合理的な意思決定』『精神主義』が原因なのだろうか」。

 ここからが本書の本領だ。現役研究者らしく筆者は最新の行動経済学で当時の指導者の心理を分析する。行動経済学は「経済学では『人間は合理的に意思決定をする』と考えられてきたが、実際には非合理的に見える行動をとることがよくある」と考える。ギャンブルなどで、人間はときにまったく合理的とは見えないリスク愛好的(追及的)な行動をとることがあるという理論だ。行動経済学は2002年のノーベル経済学賞を受賞している。

 筆者は当時の政府や軍部要人の発言を子細に検討し、長期戦になれば勝つ見込みはないが、国際情勢がどう変化するかわからない流動的状況では、状況が日本に有利に変化するそのわずかな可能性に賭ける心情に傾いたのではないかと推測する。実際、真珠湾攻撃後の大本営陸軍部戦争指導班の日記(12月8日)には「作戦の急襲と言い全国民戦意の昂揚と言い理想的戦争発起の成功せるを確認し戦争指導班として感激感謝の念尽きざるものあり。然れども戦争の終末を如何に求むべきや是本戦争の最大の難事」と書かれていた。

 「結局のところ、日本は『戦争の終末』の見通しなく、そしてそれゆえに戦争を始めたのである」。これが筆者の結論だ。当時の文献や指導者の発言をもとにした綿密な例証と大胆な推論には評者も大筋で納得できる。あの無謀な戦争は、実は戦争終結の見通しなく、無謀であるがゆえに始められたというべきなのだろう。

 次章では、「日米英開戦はどうすれば避けられ、経済学者は何をすべきだったのか」と問いかける。この中では開戦当時、陸軍省軍務局長だった武藤章の発言に注目する。彼は開戦が決まった時、「これですべてはっきりしました。蟠(わだかま)りがみな解けて結構ですな」と言う部下に「そうじゃないぞ、戦はしない方がいいのだ。俺は今度の戦争は国体変革までくることを覚悟している」「然しそれではこのシャッポを脱いでアメリカに降参するか。(中略)仮令噛みついて戦に敗けても、こういう境地に追い込まれて戦う民族は、再び伸びる時期が必ずある」と語った。一見、強がりともみえる発言だが、実は当時の戦争指導者の本音だったのかもしれない。武藤はA級戦犯として1948年に巣鴨プリズンで処刑されている。

 筆者はさらに秋丸機関の報告書がなぜ、幻の報告書とされたか、その謎にも迫る。「報告書は開戦を決定していた陸軍の意に反するものだった。国策に反するものとして焼却された」というのが通説。有沢など主要メンバーも戦後、それに沿う証言をした。報告書が行方不明だったので、その見方が一人歩きした面もあるだろう。だが、発見された内容をみると「当時の『常識』に沿ったものであり、あまり陸軍内で大きな問題になるようなものではなく、『数多くの情報の中の一つ』でしかなかった」。

 ここからの推論がまた興味深い。筆者は報告書完成とほぼ同時期に起きたゾルゲ事件の影響を重視する。ゾルゲ事件は開戦直前の1941年9月、ソ連のスパイだったドイツ紙記者リヒャルト・ゾルゲと日本人協力者尾崎秀実らが逮捕された事件だ。有沢はこれを機に左翼経歴を警戒され、首相だった東条英樹の厳命で、秋丸機関を追われる。ゾルゲには陸軍から大量の情報が流れており、陸軍は左翼関係者を一掃し、関係を断絶する必要に迫られていた。これが「都合の悪い資料の焼却」につながった、と推測する。

 秋丸は開戦とともに大本営野戦経理長官部の仕事に忙殺されるが、1942年12月にフィリピン派遣軍の経理部長として派遣される。その後インドネシアに転属したが、本土決戦を前に内地に帰還し、特攻基地建設などの業務に携わった。戦後、秋丸は地元宮崎に戻り、出身地の町長を務めるなど地元に尽くした。1992年、93歳で死去したが、「敗軍の将は兵を談ぜず」とあまり体験を語ることはしなかった。

 治安維持法事件の被告だった有沢は1944年の二審判決で無罪となったものの、すぐに東大には復職できなかった。戦後、第一次吉田内閣で初代の経済安定本部長官に推挙されるが固辞し、吉田の私的ブレーンとして重用された。有沢は戦後の産業やエネルギー政策にかかわって戦後復興に貢献し、1988年に92歳で死去した。本書には有沢以外にも脇村義太郎、中山伊知郎、大来佐武郎など著名な経済学者の名前が次々に登場する。こうした人たちが戦後の復興にどうかかわっていたかを知るのは興味深い。

 だが、経済思想史の専門家がどうして秋丸機関の研究に深く入り込んだのか。それは脇村義太郎の回想録で、秋丸機関の存在を知ったのと、政治学者の丸山真男が有沢の没後、回顧録を読んで、「海軍や陸軍というのは、もともと組織的に頭のいいのがいたというせいもあるけれど、よほど合理的だったのではないかな。(中略、秋丸機関に参加した)有沢さんは人民戦線事件で保釈中なのです。保釈中の被告を使うというのは、かなり大胆です」と発言していたことなどがきっかけになったようだ。「愚かな軍部が無謀な対米開戦に踏み切った」というのは通説だが、本当にそうだろうかという疑問が研究への強い動機になったに違いない。筆者は「当時のエリートである日本の指導者たち(特に軍人)が格別に『愚か』『非合理的』であったわけではない」と冷静に見ている。

 先入観を排除し、事実を見きわめることはきわめて重要だ。日米開戦をめぐっては数多の書物が上梓されている。戦後、70年以上を経て本書が注目されるのは既成の価値観や先入観を排除し、当時の文献や証言をもとに、指導者の心情や判断を丁寧に再現しようと試みた点だろう。大学研究者ながらジャーナリスティックな手法を用い、手間暇をいとわず、真相に迫っていく努力には感動した。歴史の核心に触れる問題だけに内容は必ずしもわかりやすいとはいえないが、昭和史最大の謎、「日米開戦の真相」に迫る貴重な研究だ。