蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

不良と遊んだ、非・不良

2020-03-18 | 思い出
学生時代。
わたしにとっては、幼小中までが学生時代のようなもの。
つまり、義務教育期間。
高校はオマケ。
それより以降は、もっとオマケ。
せっかく、のびのびと勉強できる黄金学習期なのに、勉学に勤しむことはなかったから。
もし、気づきがあるとすると、わたしの学力は、中学で終わっていることかなと。
それ以後は、何を注いでも、あふれかえって零れ落ちるだけ。
キャパを超える。
つまり、わたしのキャパは、盆栽のような小さな庭。
だが、盆栽は小さいから、手をかけやすい。
枯れたらゴミ箱行き。
大切に育て、いくつもの鉢を少しずつ増やしていく、、、わたしは、そういう丁寧なタイプではないようなかんじ。

なぜなら、、、頭に入らない。
理解できない。
正確に記憶できない。
脳が拒否しているのだろう。
ただ、咀嚼して身体に溶けてしまう場合もある。
プロセスは(どうでも)いいから、結局、情報の海の中で、その情報、説は、自分にとって有益か否か。
結果オーライ。
人やAIに演算させたり、調査、集計させたりして、その間は、ウサギと亀のウサギのように、お昼寝。
出来た〜?  まだぁ〜?
と、頑張っている人をせっつく。
そろそろ終盤かなと思える頃に、重役出勤のごとく顔を出す。

わたしは幸せだなあ〜。
こんな優秀な部下に囲まれて。
なんて自分のこころの中で思いながら、彼らには、知能指数ゼロと見なされている。
いいのだ。
知能指数ゼロは、ゼロな分だけ、「有効なものは何か」と鼻が効く。
自分が汗水流すには無駄とも思える演算は、寝ている間に済ませていただく。
ただし、自分を認めて欲しいとか、承認欲求がある人には不向き。
何もしないで認めてもらおうなんて、ムシが良すぎる。
なんらかの努力をした人は、努力を認めて欲しがる。これは、当たり前。
馬の目の前の人参。
モチベーションやご褒美がないと、人間は動かない。

わたし、ご褒美は要らない。
要るとすると、今まで生かしてくれてありがとう、その余波で今も生きてます。
これからも、そっと静かに生きることが出来たら、それがご褒美かな、と。

ちなみに、
学生時代の同窓会。
小学校は、幹事不在のため、一度も開催されず。
中学は、嫌というほど開催され、直近2回を除き、卒業間もない時期を始め、出席皆勤賞。
どんだけ、中学が好きなの?
たんに、幹事さんが、開催好きで、周りも参加好きな人が多いだけ?

一度も顔を出さない生徒も結構いる。
全く一度も見たことがない。
嫌だったんだろう、中学生活が。

生徒は学校を起点に、東西南北、かなり遠くから集まっていて、出身エリアは様々な市町村に多岐に渡り、かなり広がっていた。
延々と電車やバス、船に乗って通って来ていた。
その中で、わたしは、学校は、徒歩、目の前、という、至便の位置に家があった。
JRや私鉄、バスがストの時など、生徒には通学の足に影響があった。
が、わたしは全く関係なし。
皆んなが通学利用駅まで往き来する途中に、わたしの家があったので、ちょっとした休憩所のようになっていた。
同学年女子のほとんどの子は、うちに来たことがあると思う。
わたしの親もほぼ不在だし、いつもお菓子やジュースなど飲食し放題の息抜きにはもってこいだったのでは。
だから、その中学時代が好きだったわけでは全くない。
そんな時もあったなあ、、、と目を細めるのみ。
今のわたしとは、全然違う。

で。
同窓会に顔を出さないメンバーを思い浮かべてみる。
成績がパッとしない子、いじめられていたり、からかわれていた子、、、かなあ、、、と。
家が裕福でなくても、親ごさんが頑張っておられる生徒もいた。
お誕生日会は、親ごさんが、広々とした会館を借り切って催された子もいた。
たまたま、その子は、わたしと同学年、その子のお兄ちゃんは、姉の同級生。
その関係もあり、わたしも、姉も、そのお誕生日会に同日、参加した。
先日、姉とそんな昔話をしたが、そのお誕生日会の姉の感じた印象と、わたしが感じた印象は、少し違っていた。
姉とわたしは2歳しか変わらないが、年齢や性格によって感じ方は変わるもののようだ。

ちなみに、我々3きょうだいは、けっこうユニークで、悪い意味で目立っていたと思われる。
上から順番に、変人度が増していて、わたしは、一番下で、わりと普通に近い変人だった。
上2人がユニークすぎて、そのせいで、わたしは目立たないため隠れ変人とも言える。
姉は、当時、いじめられていたらしく、小学時代の思い出は封印している。 
が、中学から人が変わったように大変身して、体育系クラブ活動で頭角を現した。
勉学では、高校生になり学年が進むにつれ、上2人は優秀だったため、わたしは何かと比較され、サボっていると見なされた。
きょうだいと比較して、こんな失礼な発言をしたりする教師が普通に存在することに、新鮮な驚きを感じた。
普通の子なら、絶対にひねくれたり、非行に走るだろうと思った。
が、わたしは、非行の道には全く魅力を感じなかったのと、ひねくれるには性格が真っ直ぐすぎて天然、楽天家だったため、先生の言動に驚いたに過ぎなかった。
強靭な神経を持っていたのだろう。
ナイーブ、ナーバスの真逆。
無神経。

成績悪い、それがどうした?
なんか、悪い?
と思っていた。

補習的なことをしたり、カツを入れるため、先生のところに来るように直接言われたが、行かなかった。
なんで、行かなきゃならん?
行かない。

でも、全然卑屈ではなかった。
高校生活全てが、自分の属する生活ではないような気がしていた。
皆んなと、合わないなあ、、、と思っていた。
嫌い、とかではない。たんに感覚が違うだけ。
それに、非行の道は快適ではないし、美しさを感じなかったので、わたしは不良にはならなかったが、不良の子たちが友達だった。
これは、ひょっとすると、自覚がないだけで、わたしも不良なのか?
でも、わたしは違うと、自分で思っていた。
不良と遊んでいるだけで、本来の立ち位置にいつも戻っていた。
わたしは不良を目指さなかった。
不良に転がり落ちることはなかった。
が、優等生たちとは、水と油だった。
優等生ではない、不良でもない、不良と遊ぶ、一般生徒。
先生は、非行の道に転落してしまわないか心配だったのだろうが、全然そんな心配は不必要。
わたしは、不良には憧れていなかったから。

本当に社会の闇の中にいる、純然たるバリバリの不良とは、当然、接点はない。
第一、接する機会がない。
自分は安全な場所に身を置く。
何が危険かぐらいは、子供でもわかる。

で。続き。
同窓会に出てこない同級生たち。
今頃、どうしてるかな?
そんなテレビ番組があるけど。

直近に参加した中学同窓会に、小学校の同級生が初めて来ていた。
すごい変人小学生だったが、変人大人になっていた。
社会的には、優秀、まともになっていた。
わたしは、変人が好きだと、たぶん思う。
だが、超ストレート優等生が、超エリートコースを歩んでいるのも、ミーハー的に大好きである。
自分とは一線を画するものに対するファン心理だろう。






シンプルライフって、実は贅沢

2020-03-17 | 暮らし
コロナを境に世の中、様変わり。
引きこもり、家生活を余儀なくされる。

人の往来、移動を制限されたり、江戸時代のよう。
集会の禁止!戦時下の暗黒時代のよう。
医療さえ整えば、どうにかやっていけると思う。
インターネットも不可欠。食べ物も。
インフラも。
なんだ、全部、現状維持ではないか。

江戸時代に戻っても、電気ガス水道が無いと生活出来ない。
水汲みだけに半日かける生活、、、
山から木を切って薪にして、燃料にする、、、
身体が動かない人は、自分を生かすことを保てず、自然の摂理のままに寿命を全うする。
強者と弱者が、はっきり分かれる。
経済力ではなく、体力。
怠けモノのわたしなんか、1番に「役立たず枠」に放り込まれる。
ただし、社会全体が非常事態の時。

生活や価値観を見直す良い機会かも。
経済が破綻しても生きていく方法を考える。
だけど、時給自足、各人、家で完結したら、経済は活性化しない、回らない。
お金を使ってこその、経済。
(食べ物の自給自足は、農業、漁業などが出来ない都市部では無理)

個人的にはシンプルライフは嫌いではないけれど。
でも、モノグサだから、スイッチ一つ、ボタン一つで何でも出来る生活に慣れていると、不便になると嘆き悲しむに違いない。
シンプルライフは、絵空事、綺麗事。
何でも整った上でのシンプルライフである。


と、以上は別SNSの日記に書きかけた文章だが、蝶ブログに書く。
人によっては同じ文章を複数のところに重複してアップしている人がいる。
個人の勝手だろうけれど、わたしはそんなことはしたくない。
これまた個人の勝手ではあるが。

蝶ブログに書く心境と、別SNS日記に書く心境は、違う。
どうしてかというと、語りかける相手が違う。
別SNS日記は趣味に特化している。
皆さん、実在の人物でリアル人。
中には、覆面ユーザーもいるが、ROM専門ではないかと思う。
覆面で何か発言しても、信用があまりない。
わたしなど、覆面中の覆面だが、なぜか、一目置かれているようだ。(自分で自己申告した瞬間、イヤミな勘違い人物に変身・転換するが)

しかし、その別SNSにも、二人だけ、リアルなわたしを知っている人がいるので、無茶な嘘は書けない。
そして、こころのままに思ったままの心情も書けない。
何かしらその二人を意識する。
リアル人と関わりがあるのは、この蝶ブログと共通する。
ややこしい。

あるブロガーさんは、ストレス発散のため、毒吐きブログで泥を吐き出すようだ。
全てを吐き出すと、スッキリするのだろうか?
また、逆に、ありもしないことをねつ造して、虚偽の自分をアピールする人もいるようだ。
長〜く読んでいると、バレる。
書く方も、よほど強い信念をもって何か目的でもないと、嘘ばかり書き続けられない。
いっそ、作家になって小説を書けばよい。
わたしも、かつて小説を書いてほしいと頼まれて、少しだけ書いたが、ギブアップした。
疲れる。
読書嫌いのため、自分のボキャブラリー貧困と、思考力の浅さに、ヘキヘキした。
何十手も先を考える将棋士には、絶対になれない。
脳ミソの質、キャパ、性能が違う。

なので、読むに値するレベルの空想や、ねつ造は断念した。
ねつ造は元々しない。
頭が悪いため、自分のねつ造内容をいちいち覚えられず、書くことに矛盾が生じてくる。
空想は、読んでいただくレベルではなく、自分が楽しむため。
めちゃめちゃ楽しい。
わたしは、内向的性格にありがちな、空想好き。
空想の中で、自分が遊んでいる。
人によっては、気持ちを絵にしたり、モノを作ったりして楽しむように、わたしは文章にして遊んでいる。
運動したり、いろんな活動して、自分を楽しませている人もいる。

空想を文字にすると、意外な進展があったりする。
読む人とつながることがある。
心友が出来ることもある。
死ぬまでに一度、お会いしたいなあ、、、なんて想像するだけで楽しい。
実際には会えても会えなくても、出来ても出来なくても、しようと思えばできる、可能性、選択肢があるということは、喜びを感じられる。
毎日、文章を通してお話しているような気がする。


話はころっと変わり、
それにしても、昨日見た、わたしの子供の頃から20代の写真。
陰があるように感じた。
自分が自分に引き寄せられた。
惹きつけられた。吸引力がある。
でも、なんでモテなかったんだろう。
モテなくて、大正解だ。
モテていたら、人生、グチャグチャになっていたことだろう。
小さな失敗はよくあるものの、若い頃の大きな過ちは、人生進路をも変える。
自分を見失うことは、決してなかったようだ。
それは今も同じ。

わたしは、人の縁に関しては運が良い。
悪い縁には、繋がらないようになっているようだ。
知らないうちに切れている。
世の中には色々な人が存在して、人を欺く悪人だったりする可能性もある。
口が上手かったり、実際にあるビルなどを大道具として使ったり、公文書偽造したり、雇った人を総動員して嘘の芝居をさせたり、大企業でも詐欺集団に騙されている。
実際に世の中ではごく普通に起こっている。
自分だけが騙されないという盲信は良くない。

誰も信じない、孤独な老人、なんていうのも実在する。
自分はどうしたいか、どんな道を歩きたいか。
過去はさておき、その過去の上に今がある。
過去は過去で切り離せない。
嫌な過去のあった人は、忘れる努力が必要なのだろう。
わたしは、幸せだった過去を忘れない努力が必要だ。(脳ミソ、軽いんで)
今、不幸というわけではない。
だが、この度のコロナ騒ぎのように、一斉に皆んな同じ状態になることも考えられる。
同じ体験を人生の一時期に共有する。
大災害なども、そうだ。

幸せな過去の後には幸せが来るとは限らない。
逆に不幸な過去の後には不幸が来るとは限らない。
幸せと不幸せは、隣同士だったり、裏表だったりする。
今後も不幸は自分とは無縁だと言い切るには、根拠がない。
が、不幸オタクになっても仕方ない。

何ごとも無常。
常に変わる。
幸せが不幸せになったとしても、無常なんだから仕方ない。
それまで幸せだったのなら、ラッキー。
幸せがそのまま続いて変わらなかったら、なおさらラッキーだ。

諦観と達観は違う。
けど、なんでもいい。


ちなみに、最後になって、今頃、何なんだが、、、
今日も明日も、自分の予定を続けてキャンセルして、孫Aのお預かり。
もうすぐ来る。
悠長にブログなど長々と書いている場合ではない。
、、、と、蛇足中の蛇足でした。



時間が逆戻りして静止した

2020-03-16 | 思い出

ものすごく超々久しぶり、4年ぶり?に、パソコンを開けている。

電源はどうにか入れることは出来た。やれやれ。

あとの作業は、まあもたもたと、ありえないぐらいモタついている。

そもそもなぜ、いつもスマホからの投稿、そして閲覧なのに、パソコンに挑んでいるのか?

それは、ある人が、半世紀以上前の写真画像をJPEG加工してUSBを郵送してくれた。

今の時代、通信!!!で、と思いつつ。JPEGまで加工したなら、メール送信でもよいと思われるが、なんらかの事情で郵送になったようだ。

おそらく受け手側の通信音痴を察してのことだろう。

 

「郵送しました」とグループラインで言ってきたが、わたしではないもう一人の人物は、どうやらまだ画像を開けていないような気配。

でもLINEでは、開いた様子がうかがえず、「ありがとう~」のみ。

開く気はあるのだろうか。

わたしは、郵送された当日に、ちゃんと開いてみた。

が、USBの扱いに、まごついた。

あまりにも久しぶりだったので、いったい、どうやってするのだろう、と、パソコンの画面を食い入るように見つめた。

しかし、脳も目も指も、フリーズ。

使わないと、人間、こういうことになるんだなあと、むしろ新鮮な気分。

やがて、、、、、出る出る、50枚近くの昔のモノクロ写真。

あ、おばあちゃん、おじいちゃん、父、母、親戚の顔、顔、顔、、、

黒詰襟学生服に、学生帽の、きりっとした若い父がいた。

令和の現在の今と全く変わらない家、庭で、出征前の軍服姿の独身の父が、父の両親や姉妹と写っているものもある。

ロングコートにロングブーツ。外国の戦争映画に出てくるような恰好。

若い、ふっくらした母も後に登場。

前庭に停められた自家用車に乗ってはしゃぐ幼い兄。

時代は、行ったり来たり。

わたしは、小学高学年でやっと顔が出てきた。

今も覚えている、あつらえてもらった、白地に細かい赤の格子模様のジャンパースカートを着ていた。

あの服は、記憶にしっかり残る。

日頃、小学校は制服だったので、外出用の私服はほとんど必要なかった。

といっても、なにかしら着ていたのだろうけれど。

 

おばあさんばかりの自宅での記念行事の集合写真が多かったため、わたしたちは若すぎて浮いていた。

両親さえも、若くて浮いていた。

最後のJPEG最新写真は昭和56年ごろ。40年近く前である。

いやあ、参りました。

若すぎる自分に出会って、びっくり。

若い時は、誰も美しい。兄も姉も、変テコではない。

こんなにわたしが自分が好きだなんて、ちょっと予想はしていたが、なんと自己愛に満ちていることか。

他人からの評価を気にしたり、他人と比べたりする気は全くないが、自分が自分に対する自己評価はかなり高い。

うっとり。あくまでも、自己比なんだろう。自分と自分を比べる。

時系列で自分が出てきて、おもしろい変化、推移を楽しめる。

今、現在の(ぜんぜん若くない自分の)写真も、きっと遠い将来の自分の目を悦ばせることだろう。

今から期待している。

 

※せっかくパソコンからの投稿だから、USBからのお気に入りの写真を張り付けてもいいのだが、絶対にそんなことはしないわたしである。

 

 


睡魔に襲われながら、わけわからんことを書いた。

2020-03-13 | ブログ
別SNSに、日記をよく書いている。
閲覧数が順次リアルタイムで公表されるため、書くだけ書いて、未公開にしている日記も少なくない。
しょうもなさ過ぎて、閲覧数がかなり少ないと、ショックを受けそうな、チキンなわたし。
スベる恐ろしさ。凍てつく温度。
なので、いっそ、人に見せない。
お蔵入り。鍵かけて、置いておく。

溜まってくる。
日記だけでなく、自分の気持ちが、、、。
書くだけで発散できる場合もあるが、もやもやが燻り続けることもある。
もっと変ちくりんなのは、、、
この日記、表に出さないのは、もったいない、、、
あちこち、表現が面白い箇所がある力作なのに、ボツにするには惜しい、、、
なんていう、自分だけの買いかぶり、自己擁護目線。
または、ちょっと過激かも知れない意見、感じ方、斬り方、捉え方で、反感を買う可能性もあるけど、皆さん、どう感じるかな?という、アップした後のリアクション、反応に対する興味、期待。
興味の方が上回り、なぜか不安などはあまりない。
賛同はなくても、その代わりに、バッシング、非難、マイナス、ダメージが予想されるのに、ハイリスクに挑む勇気に、少し小さな小さな応援が、各人のこころの中で、あるやも知れぬ、、、。
善人の皆さんは、自ら悪役を買って出たり、非難を浴びるようなことはしたがらない、良い人を演じたい人ばかりの中で、一石を投じたい、大それた思い。

別に注目を浴びたいわけではない。
ただ、読んだ日記がつまらない時は、自分を面白がらせるために書いている。
自分のためのオリジナル。
買いたい服がないと、別注するようなもの。

閲覧数は、アップすると安定した一定数はあるのだが、気に入らないことがある。
いつも、イチャモンを付けてくる人がいる。
わたしの日記で気分を害するのなら、そっと静かに人知れず気分を害してほしい。
わざわざ、「それ、あんた、違うやろー」と、コメントをいちいち付けなくてもいいのではないかと、付けられる身としては思う。
わたしと違う意見なら、どこがどう違うか、などと話し合い、ディスカッションすると双方、理解が深まる。
イエスマンばかりだと手応えがなくて、さらっと、うわっ滑りで面白くない。

かと言って、意見を戦わせているかというと、全然だ。
「あんたは、間違っている」「あんたは、おかしい」
一方的に否定される。
う、る、さぁ〜い!
そんなに気に入らないなら来るな!あっち行け!
なぜ、意見、考えや感じ方が違うのに、来るのか?
分かり合う気がないなら、来んでいい。
でも、何が楽しいのかさっぱりわからないけれど、なぜかわたしの日記を読み、一言放って帰る。
最後に一言、放たないまま帰っていただければ、わたしのモヤモヤも生まれないだろうに。

お互い、自分の価値観が標準基準だと思い込んでいる。 
お〜マイガー!

わたしも、きっと似たようなもん、なんだろうな。



そうか、そうだったのか!

2020-03-12 | 日々のこと
孫A。コロナ対策休校のため、お預かり。
ケーブルテレビのディズニージュニア番組を熱心に見ている。
「うん!」「そうだね!」「違う!」「いいよ!」
などと大きな声で元気に画面に話しかけている。
ちょっとコワイ光景。

昔昔、学生時代、家族社会学だかなんだかで、習ったことを思い出した。
アメリカの研究者によると、家庭環境の整わない貧困家庭では、子供の相手はテレビに任せている、と。
そのせいで、直のリアルなやり取り、会話のキャッチボールが出来ないため、子供に言葉の遅れや知的遅れ、偏りが見られるそうだ。
ありゃ、うちの孫A!
テレビが相手!

しかし、彼は幼児ではないし、既に文字の読み書き、数字の計算(小学一年レベル、年齢相応)が出来る。
さらに、放映側と視聴者の間をリモコンで双方向性のやり取りをしている。
まあ言葉や理解力の遅れは大丈夫だろう。

今、番組を見て、目の前で大声で立て続けに笑っている。
なんと、笑いの沸点が低いこと。
吉本芸人なら、こんなに観客にウケられると、才能ない芸人もすっかり有頂天になり勘違いしそうだ。

しかしまあ、ディズニー番組は、楽しい。
色彩、動き、キャラクター、ストーリー、音楽、歌、、、大人も楽しめる。
ミュージカルの要素もある。
ばあちゃんちで、ビートルズや演歌の影響は受けそうもないが。
どこの子も、こういう番組に接して育つと、夢いっぱいの冒険家になるんだろうか?
(それはないか、、、)

昨夜は、「忍たま乱太郎」をいつもと違う時間にEテレで放映していて、やったぁ〜と思って孫Aに見せていたが、、、
通常の18時台のものとは異なった。
ガリレオガリレイや、天動説、地動説、惑星などのお勉強がみっちり詰まっていた。
わたしにはとても勉強になり、小さい時に習ったことの、おさらいにはなったが、初めて目にする孫Aには、やや難解かなあと感じた。
小学校高学年向き?
勉学から遠のいた大人向きかも知れない。
科学を真摯に追及するガリレオガリレイの気の毒な人生にも、時代の大きな流れを感じる。

娘宅に孫Aを送った帰り道、夜空を見上げると、やたら明るく大きく光る星があった。
細い光の飛行機も。
地球は丸くて、宇宙に浮かぶ星の一つなんだ、と考えると、単なる知識ではなく、実生活と結びつく部分を感じた。
知識としての概念だけでなく、地球という星、気の遠くなるような天文学的時間が流れる宇宙にあるこの星、今のわたしたちの時代に大変な状況に変わり果てさせようとしている。

便利さや、快適性を求めるあまり、資源を無駄に使い、環境を破壊している。
こんなことは、恥ずかしながら、実際に考えたことはなかった。
行動するとしたら、他人の圧力に屈してだったり、行政のゴミ出しルールに、従ったりのこと。
身近に感じ実践している人は多い中、わたしはかなり奥手である。

気の毒な環境にある人に感情移入するようになったのと同じく、人だけでなく、「ものごと」や「自然」にも自分の身に関わることとして感じた。

歴史や科学を復習するのは、悪くない。
習った当時は嫌々義務だったから、知識は単なる魂の入らない頭の中だけの知識として覚えているに過ぎなく、生命を吹き込まれていない。体温がない。
知識が実際に自分の中で動き出す瞬間を体験すると、アミューズメントパークの体感シュミレーターに乗って遊んでいるのとはまた違う、独自の自発的な感覚、教えを得る。

随分昔、学生時代に義務で習った英語に、実践として使い、立体的に組み立てられ息を吹きかけられた時もそうだった。
わたしの脳は、種を植えても芽が出るのが遅い。
晩年、学習意欲に燃える人がいるようだが、わかるような気がする。
知る喜び、生命や実生活につながる実感を味わう楽しさ。

孫がきっかけになり、弱りかけた脳に、一度入った知識を眠らせているのはもったいない、冬眠から目を覚ませ、と、神様から知らされているかのようだ。

孫Aは、神様の使者なのか?
いやいや、ただ単なる食いしん坊だ。
今も、番組と番組の合間に、どんどん次から次へとオヤツを要求され、弱っている。


明日のことは、明日考えよう

2020-03-11 | 老い
今日は小学一年生の孫A、お預かりの日。
なので、早めに、さささとブログをアップしなければならない。
と同時に、お菓子を隠さなければいけない。
緊急の必要性もないのに、冷凍していたストロベリーショートケーキまで解凍して胃袋に収めようとしているわたし。
孫Aの食意地が張っているのは、わたしの隔世遺伝かしらん。

孫Aが一番最初に口から出た言葉は、「パン!」。
彼はもっと小さい乳幼児の頃、満腹中枢が故障していたのかも知れないと思われるが、食器に食べ物の残りが少なくなり、カリカリとスプーンの音がし始めると泣き出した。
これで食事、終わりは、最大の悲しみ。
いつまでも、いつまでも食べていたい。

次に喋ったのは、「デンシャ〜!」。
小さい頃から今も電車オタクである。
日本中の鉄道や駅名、電車名を並べて教えてくれるのだが、地理音痴のわたしには、聞く端からアタマから抜けていく。
今では、こんな教え甲斐のないばあちゃんには、あまり教える気にもならないのではないかと、、、。

言葉は不思議。
わたしの長女が初めて喋ったのは、幼児テレビ番組「ひらけポンキッキ」の視聴者向け募集要項だった。
いきなり、長い説明をベラベラ話し始めた。丸暗記。
毎日聞いて、ある日、突然、脳と口から溢れ出たのだろう。
今、末子孫が、同じ状態。
幼児言葉を全く話さない。
関西語も標準語も話す。
女の子は、口が早いと、よく言われる。
これで、オシメをしているとは思えない。
本人に、そう言うと、「オシメじゃない。オムツ!」と反論される。
いやはや、、、
最近の紙オシメは、性能が良くて快適だから、なかなかオシメ離れが出来ない。
2歳ぐらいで、自分の子供はオシメが取れていたと思うのだが。
子供の年齢が重なる時期は、3人分、全て布オシメを家で洗って干していた。
手がガサガサ、アカギレ、ヒビ割れがすごかった。
隔世の感がある。
まあ良い。いずれ、高齢になるとまたオシメだし。

と、これは前置き。
今日、書きたかったのは、孫のことではない。
姑のこと。
色々、思い出す。
戦中派なので、戦後派のわたしとは当然、時代的価値観は違う。
育った家庭環境も違うし、地域も違う。
旧態の家意識そのものの人だった。

女性が自立していない時代。
悔しい思いもたくさんしている。
家や夫への依存(権力を盾にする)から、子供への依存に移行する。
経済力がないから生きる術は、経済的には依存しかない。
だが、ものは考えよう。
依存しているのではない。
家族を経済面以外で支えている、大黒柱である。
経済が立ち行かなくなると、そんなことは言えなくなるが。たんなる理想になる。

大奥のお女中や、お姫様は、経済力無し。
武士も無し。いや、雇われの身だったから、お給料は貰えたかも知れない。
給料は、庶民からの税金。国民は統治料金を取られる。
統治料金の歳入の中には敵国からの戦利品や略奪金品も含まれているのだろう。
商人が経済力があった。
エリザベス女王だって、自らが、無から稼ぐお金は?
だから専業主婦だった姑も堂々としていればよい。
が、姑は理知的でもあり、経済構図が見えていたのだろう。
開き直ることはしなかった。
昔の女性は、みんなあんな感じ。

わたしの母は、姑と年齢は1歳しか違わないのに、全然、違った。
地域的なものや、生まれつきの性質、性格が違うのだろう。

2人の人生の先輩女性を身近に見て、色々思う。
2人とも幸せな人生だったんじゃないかと。
て、まだ生きているが、晩年である。

最近、苦難に直面したり、克服したりしている人の話しに接すると、涙が溢れる。
気の毒な悲惨な人に対しても。
以前は自分のことばかり。
自分で精一杯。
自分しか見えなかった。
谷に張られた綱を必死で渡って、他を見る余裕はなかった。
最近は歳のせいか、他人の境遇にも、自分のことのように感情移入するようになった。
だが、あまりやりすぎると自分の幸せを壊す可能性があるので、ほどほどに。
これまでが、あまりにも他人を見なさすぎた。
自分も年を取り、高齢枠で弱者に移行する可能性を感じ始めると、次に行く場所を整えようとするのだろう。
ちょっと前のお年寄りたちは、自分が次に行く先(あの世)に向かって、準備をしていたとわたしは捉えている。
毎日、お線香をあげたり、お経を読んだり、宗教行事に精を出したりしていた。
何もすることがない、自分は役に立ってないと感じるよりは、ずっと素晴らしい。
皆の健康や幸せを祈る役。
今は仏壇もミニマムだったり、なかったり、墓もなかったり、随分、様変わりしている。
お年寄りのこころの支えを見失う場合もある。
長生きしすぎると、プラン通りには行かない。
自分の健康を維持するだけが精一杯、生きるために生きることになる。
生き甲斐は、自分の健康?
健康オタク。それもまあよし。
では、健康に翳りが見えたら?
生き甲斐も失い、老人鬱になるのか。
心身が、ワンセット。
身体はガタがきて、頭脳も少々緩んでも、生き甲斐は維持したい。
でもセットになっているので、分離、切り離しは難しい。
信仰心であったり、強烈な趣味であったり、なんらかのこころの支え、生き甲斐が無いと、健康を無くした時に自分の精神を持ち堪える自信がない。

今から考えても仕方ないが、ほんの少しでも健康を害すると一気に不安の泥沼に落ち込むだろう。
健康や知力は絶対的なものではない。
無常。
そういうこと。
一昨日、夫との冷戦中に、般若心経の本を読んだら、退屈で居眠りばかり。
読む→居眠り→読む→居眠り
これの繰り返しで、最初のページから一向に進まない。
わたしには、やっぱり向いてない。
明日のことは、明日考えよう。

て、今日に引き続き、明日も孫Aをお預かりだ。






毎日、生きている実感

2020-03-10 | 暮らし
世の中、ころっと変わった、とわたしは感じている。
感じない人がいるとしたら、もともと長年に渡る真性引きこもり人では?
ただ単に自分の行動が制限されるだけではなく、子供たち、小中高生が休校延期。
これには、ほんとうに肌感覚、いや、そんな悠長なことを言ってられない、深刻な影響を受けている。

世の中に、お子さんがいない世帯はたくさんあるだろう。
単身世帯、子育て卒業世帯、老人世帯、、、などなど。
身近に子供を抱えるのは大変なことだが、世の中の動きに直撃される。
子供を育てるのはかなりキツいが、その分、子供がいない状態では感じることが出来ない事態に直面し、社会の機微に触れる思いだ。

自分だって子育て経験があるにもかかわらず、当時は細かいことや心配などに捕らわれる余裕がなかった。
ただただ昨日があり、今日があり、明日につなげる、目の前のタスクをこなすことで精一杯だった。
ある意味、幸せだったかも知れない。
細かいマイナス面に足止めされていては、次に進めなかった。
とりあえず、不安があっても、Go!前に進むしかなかった。

今は、(地理的にも)少し離れたところ(といっても目と鼻の先)から接しているので、余裕がある。
余裕の分、心配も大きくなっている。
真隣に住んでいても、あるいは、二世帯住宅に住んでいても、または、同居していても、こころは離れていることはある。

だが、世の中の動きが自分のこととして感じられるのは、身近な家族に小さい子供たちが存在しているから。
有難い体験をさせてもらっていると、こころから思っている。

とかなんとか言いながら、小学校、お休みで受け入れ家庭は、ばあちゃんちも、ローテーションの一つ。
またまた、お菓子を隠さなければ。
子供も知恵がついてくると、苦労して見えないところに隠しても、隠し場所をすぐ見つけられる。
椅子を持ってきて、高い棚でも、へっちゃら。
さらに高いところに置かねば、、、。
そうやって隠したことを忘れて、賞味期限切れになる、、、。
いつものことだ。

頭の黒いネズミが三匹もいると、ゴソゴソガタガタ動き回る。
かなわんわあ。
そこへもってきて、コロナを発端とする家庭不安の黒幕じーさんが、へんにストライキを意固地に敢行して、わたしはストレスからか、歯茎を腫らしている。

しかし、どういうものであれ、動きを感じることは、生きている実感であり、ある意味幸せなのか?
でもマイナスの動きは嫌だ、避けたい。
当たり前のことだけど。


ちなみに、最近のブログ村エッセイ、理知的女性たちが、新たに加わっている。
色々な思いや考えに、冷静沈着な読み解きが書かれていて、わたしの脳が気持ち良さを感じているようだ。
皆さん、賢そう。
読み応えがあって楽しみにしている。

相変わらず、声をあげて笑わせてくれる大学生ワニくん。
なんであの子は、あんなに面白い?
そうそうたる女性陣に埋もれることなく、彗星若者枠で頑張っていただきたい。

そして、タクシードライバー業をとりあえず卒業しそうな、MR.優秀主夫の、ブログ戦友。
応援してます!

などなど、つらつら書いていたら、雨も上がり、お日様が顔を出した。
一気に外も室内も明るくなった。
理屈抜きで、こころが、ぱあーっと明るく楽しくなる。
あるブロガーさんによると、人生は不快と快適の繰り返しらしいので、うん、納得。
上がったり下がったりの波に身を任せ、その時々に刻まれるリズムを楽しめたらいいなあと思うのであります。
(て、歯茎の腫れ、痛み、はやく治ってほしいが、、、)



一般的な多数派である自分を振り返ってみる

2020-03-08 | オトコとオンナ
LGBTについて、ググってみた。
案外、知っているようで、正確には知らなかったこともある。
性的マイノリティーの人たちが声を上げ始めたのは、そう昔ではない。
社会でも認識され、行政や企業も前向きに取り組んでいるようだ。

身近に、そういう人が実際にはいないので、(いたとしても、カミングアウトしてないだけかも知れないけれど)、実態に見知ったり、聞いたりしたことはない。
が、今、ブログ村エッセイ注目記事を読んで、知識や理解を深めはじめている。

知らないからといって、偏見は良くない。
まずは正しく知って理解すること。
わたしは、ストレート(異性愛者)なので、同性愛傾向はない。
だが、女性には、ボーイズ・ラブのコミックが人気がある。
わたしも、最近、綾野剛扮する、男性を好きになる男性を描いた映画「影裏」を観て、ガツンと来た。ドキリ。
性別にとらわれず、恋をしてしまいそう、、、
それ以来、ボーイズラブものにハマるとまではいかないが、同性愛に対する拒絶反応や否定感は、すーっと消えた。毛嫌いはしない。
実際に自分もその傾向に走るかというと、わたしは全くその気はない。
わたしは男性ではないので、ボーイズラブの実践は無理。
一旦男性に性転換してから男性を相手にする、、、としたら、ちょっと面倒。
更に、一旦男性に性転換した元女性が、これまた男性に性転換した元女性とラブ組み合わせ、なんてことになると、見た目はボーイズラブだけど、元は女性同士のガールズラブ(こんな言葉はあるのか?)

省エネ派のわたしは、ボーイズラブは見るだけにして、現在の女性のまま、男性を相手にしたほうが手っ取り早い。
ただ、いろんな感性、嗜好は存在して、一つ一つ認めるべきだと思った。
だが、どうしても生理的に受けつけないこともあるだろうから、それはそれで石を投げつけるのではなく、距離を持って見る、認める。
お互い、嫌なもの同士が無理やり認め合わなくても、なにも、いがみ合う必要はない。
わたしは積極的推奨者ではないものの、消極的ではあるが理解者である。

ダンスをしていると、男足を踏む男役の女性がいて、組んで踊ることもあるが、わたしは同性には拒絶反応を示す。
柔らかく線の細い女性らしさが気持ち悪い。
同じ女性でも、筋肉質で骨太、がしっとした大柄の女性にはあまり抵抗感がない。
丸く、ふわっとしていたり、そういうのが苦手。
華奢で細くて小柄の男性も苦手。
単なる肉体面の好みであるが。

幼い頃から意識するのは異性オンリー。
中には、意地悪な同性と関わったことも一瞬あったが、ほんの短時間だった。
わたしは、能天気で、超が付くほど楽天家のため、意地悪されるのは、気がある証拠と思っている。
女子から意地悪されないのは、女子たちに、あまりライバル視されていない、箸にも棒にもかからないからだろう。
キャラ自体が(思春期以降は封印したが)お笑い系だったためもあるかも知れない。

女子には一目置かれていた面もある。なぜか?
今、想像するには、身体が大きかったからかなあ??と。
理由が単純すぎるか?
マセていたので、同級生は子供に見えた。
男子はわたしより頭ひとつ小さい。
なので、隣のクラスにわたしと同じぐらいの身長の男子がいたが、とても嬉しかったのを覚えている。
小学生は男子は成長が女子より遅いから仕方ないが。
早く大きくなあれ、と、植えられた小さい芽に、ジョーロで水をやるごとくの気持ちだ。

それでも、なんの関わりもない上級生の男子たちには意地悪されたりした。
当時は不愉快だったが、きっと、好かれていたのだろう。(ああ、楽天家!)
一部の男子クラスメートにもイジメられていたが、成人になって和解した。雪解けムード。
年かさ行かない未熟な男子のすること、許してやろう、という上から目線。

関わりがあるのは、全て男子。男性。好きになるのも。
女子が好きになったり憧れたりしたことは一度もない。ライバル視することはあっても。
無意識のことなので、同性が好きになる人々も、きっと無意識のことなのだろう。

今は、若い頃と違って女性ホルモンも減少して中性寄りになっていると思う。
が、やはり身もこころも女性色100パーセントで、惹かれる対象は異性。
ごく普通の平凡なマジョリティである。
わざわざカミングアウトする必要は全くないが、自分を振り返り検証してみた。

不穏な空気は家庭にも、、、

2020-03-07 | 暮らし
(実際のウイルスではない)コロナが家庭の中にやって来た。
平和だった家庭に、(コロナではない)ウイルスをもたらした。
このウイルスのせいで、歯車が一つ一つ狂い出している。
最初の具体的なコマの移動は、法事の日時変更。
「風が吹けば桶屋が儲かる」の、逆、ブラック・バージョン。

おそらく、読み手側は、家庭の不和的不幸話は、お嫌いではないだろう。
コロナウイルスのような、ジョークには使えない、解決されていない、今、まさに深刻な世界的問題は、力を合わせて皆で闘っていく。
共闘。
だが、同じコロナのしわ寄せ絡みとは言え、各家庭の話は、共通ではない。
家族構成員も違うし、背景、歴史も生活スタンスや暮らしテイストも違う。
単純に表面的に並べて、上っ面だけでは比べられない。

と、前書きを書いた段階で疲れた。

いよいよ趣味もプライベートも、本格的に自粛。
国としては、国民の行動を縛るような強制力な権限を持たないとか。
何かの解説で読んだ。
条例を新たに作り、普段の生活を制限する国もある。
国によっては制圧に近い?
(詳しい情報は入ってこないが)
外交問題に発展して、ややこしいことになっている国もある。
国民一人一人の自覚を持って冷静に対応するしかない。

と、ここで眠くなってきた。
順風を逆風に方向転換したり、欲求エネルギーに灰をかぶせて、火を緩めたり止めたりする、自省、自己抑制パターンはどうも、わたしにとっては、お利口さん脳が指導する、意識的行動のようだ。
ZZZ、、、眠い、、、
眠くなっても、重苦しいものを引きずったまま。

ちょっと出直します。

探しモノは、何なのか

2020-03-05 | 無題
新着ドイツエッセイ記事を読んだ。

おや?なんだろう?
ドイツ製の万年筆!
それを手にした青年は、、、

孫たちに読み聞かせていた絵本にあるような寓話。
さて、青年はこれからどうなるのだろう、、、

前に見たテレビで紹介されていた、ある風俗嬢。
1000万円、とりあえず貯めるのだそうだ。
使い道、何に使うのかは1000万円を手にしてから考えるらしい。
そういう順番もある。
貯める手段は、人それぞれ。

ひたすら宝クジを買う人、、、当たったら、あれに使おう、これをしよう、、、夢が膨らむ。
先に夢。
夢を買うのが宝クジだから。

とりあえず、キッカケが欲しい。
自分の人生を変えるキッカケ。
キッカケを探していると、キッカケが見つかることもある。
探していないと見落とす。

ただし、あくまでもキッカケである。
幸運の女神の前髪を掴んだ、その後は、実践。
中身を詰めていく。
チャンスに恵まれるか、恵まれないか。
チャンスがあっても、一発屋なんてこともあり、持続、継続は苦しい。
真価を問われるのは、チャンスを活かせる実質的な中身。
運だけで乗り越えてきたものには、なにかしらメンテや補充、補填が必要。

こころを打つもの、衝撃が走るもの、そういうものに出会っても、それは入り口で、まだ具体的なことが見えない場合もある。
広く深い海の中をむやみやたらに泳ぎ回って探し回っても、効率が悪い。
思いを具体的なカタチにするには、アンテナに引っかかるものを傍受し、立体的に組み立てていく。
抽象的なもの、頭で描いたものを実際に動いて総合的に作り上げる。
ただ、ぼーっとしているだけでは、できない。

ザルの目を少しずつ細かくしていくと、ザルに残るものの精度もアップする。
大きな目のザルだと、最初は良いが、必要なものも溢れて落ちてしまう。
かといって、最初から細かい目のザルだと、目詰まりしてしまう。
ザルの目を少しずつ小さくしていって、精選すると、求めているものがはっきり見えやすくなる。
なんて、わざわざ書くようなことでもないけど。


最初はドイツ製の万年筆!
それに、インスピレーションを受ける。
それがドイツなのか、万年筆なのか。
たんに、たまたま万年筆なだけであり、ドイツに惹かれたのか。
現状が嫌で、現実から逃げ出すための出口、突破口だけを探していたのか。
ドイツに来れるだけのお金を貯めることが出来た、その青年は、自力で第1ステップはクリアした。
問題は次に繋がらないことだ。
さあ、、、

ちなみに、
ドイツで広がりを見せたシュタイナー教育に共鳴し、日本の大学で教鞭をとるドイツ人教授と結婚した日本人女性に、ご自宅でお話をお伺いしたことがある。
お子さんは小学生低学年ぐらいの女の子二人、レトロな昭和初期の日本家屋に暮らす、金髪ヨーロピアン顔の少女たちがバリバリの関西弁、しかもズバズバ辛口だったのがミスマッチで面白かったが。
憧れた教育、自分でしたかったんだなあ、、、と思った。
元々、ドイツ的なものに惹かれたとおっしゃっていた。
女性の場合、手っ取り早い。
好きなものを全部つなげると、ああなるんだ、、、と感じた。
夢と理想と、暮らしと現実をドッキング。
内装や家具を好きなブランドで揃えたかの如く、ドイツ的なものに囲まれた家庭ではあるが、元々、シュタイナー教育に端を発したとのこと、スピリットがメインなら、上部や見かけだけの憧れではないと思いたい。(見かけだけでも別に結構。それも、個人の好き好き)。
(理想通りには行かない)色んな現実に直面されていることもあるだろうが、対岸から応援するのみ。

また、別のある方。
一昨年行った旅行先のメキシコで、万年筆青年と似たような経験をした日本人男性がいた。
船乗りになって外国に行きたい!
漠然と外国に憧れていた男性は、そう思って、船乗りになった。
(当時の高校受験事情もあったそうだが)
しかし、19歳の時に商船会社が倒産。
倒産時、行った先の外国で職を失った。
今まで一度も頼ったことがない親に、初めて電話をした。
そこでお父さんは電話口で息子にこう言った。
「お前、今、目の前に見えるのはどんな景色だ?」

「公園や」
「そうか、公園があるんやな。
身の危険が迫る場所ではない、その公園のある地で、職を探せ」

当面の生活費、せめて帰国費用でも工面してくれるのかと思いきや、しっかり突き放された、と。
あの時の言葉は今でも忘れられないが、それがなかったら今の自分はない、その男性の原点だそうだ。
その地は、たまたまメキシコだった。
地球では、日本のちょうど反対の位置。
フライト時間の長い、まあ遠いこと、遠いこと。

色々紆余曲折を経て、小さいながら現地会社の社長さんになっておられた。
リズムのあるトークが面白い、明るくユニークで元気な人だった。

とまあ、話は逸れた。

何がなんでも、へばりついて頑張れば、どうにか道は見える。
道は拓けるかどうかは別にして。
見えた段階で、拓ける方向を探すなり、掴むなりすればよい。
だが、見えるまでは、なかなかだろう。

一生、見えない人もいる。
見ない、見る気がない。
そのほうが、楽である場合もある。
わたしは、見えても見えなくても、見ても見なくても、どっちでもいいと思っている。

悔いのない人生をシャカリキになって、送らなくてもいい。
悔いがあるのが、人生。
なにも、悲観主義ではない。
ありのままを受け止めたいと思うだけだ。
頑張りたいのもよし、頑張れないのも最悪ではない。
ガムシャラに頑張って、結果として、希望する、第2か、第3希望が果たせたら良い。
探し回ったが、探していたものは無かった、なんていうのでも、最悪ではない。
答えなんて、有って無いようなもの。
出た答えに対して、自分がどう思うか、だ。
ただ、自分がその時点で何歳かで、思いは違うだろう。
年齢に制限や区別、差別はない、といっても、明らかにポテンシャルが違うし。
年齢だけではなく、個体差、個人差はあるが。

C'est la vie
これは、意味が広く深い。