わたしは、ブログに書かれていることは、ブロガーさんに関する、本当のことがベースにあるものだと思っていた。
そして、無邪気に、その内容に影響を受けていた。
(コメントとかは、めったに入れないけれど)
創作と、はっきりわかるものは、あくまでも、創作として捉えている。
だが、私生活っぽいものに関しては、私生活に限りなく近いのだと思っていた。
しかし、そうでない場合もあるようだ・・・。
というか、むしろ、真実と逆を書いてみたり、理想を書いてみたり、
まったく違う生活を描いてみたりして、趣味として、バリエーションを楽しむというのも、ありだけれど。
わたしの場合、「ホンネを書きまくっている」と書いていること自体、ホンネじゃないかも知れない。
なぜなら、ブログに自分の考えや、感想を書いたその直後、正反対の想いが、むくむく湧き上がってくることもある。
これは、自分のブログに嘘を書いていたわけではなく、ブログを書いた時は、ほんとうに、そう思ったのだ。
が、しばらくして、気が変わって、その、変わったほうの内容を、訂正して後でアップしていなかったりするので、
結果的には、嘘つきブロガーということに、なってしまう。
恋愛でも、こういうことって、よくある。
あの時は、ほんとうに、「好きだ」「愛している」って、思っていた。
だから、そう言った。嘘じゃない。
一瞬、一瞬の言葉には、嘘はない。
あれから気持ちが変わっただけだ。情熱が薄れただけだ。熱が冷めただけだ。
いいところより、悪いところのほうが、気になるだけだ。
なので、恋愛相手の、こころがわりを責めることはできない。
が、相手を傷つけることはあるので、相手の傷を最小限度にとどめておく、気配り、義務がある。
第一、非を責められたり、なじられたりするのは、自分でも嫌だし、相手に、そんなことをされても、嫌だろうし。
自分でも、ブログに書いたばかりなのに、正反対の想いに駆られた時、とても、こころ苦しいのだが、
いたしかたない。
こころって、ころころ変わるようだ。
こころの、下(した)の下の下の底流のところは、そうそう変わらないが、
読んだばかりや、知ったばかりの、まだ脳内表面から浅い、上っ面のことに対しては、
そんなにハイスピードでは、自分の脳内の奥深くまで、浸透したり、固まったりしていないで、
過剰に反応したり、飛沫が飛んだり、大騒ぎしている。
そんなことは、ない!
ありえない!!
キライだ!!
けしからん!!
わたしは、そうしていない!!
感情的に、そう、わめいているが、無意識のうちに、けしからん内容に刺激を受けて、こころが活火山になったりしている。
つまり、否定しているが、実のところ、受け入れたくないと、正の脳が言っているだけで、
正脳じゃない部分は、ばっしばっしと受け入れているようだ。
わたしは、その振幅幅がすごくて、自分でも振り回されたりして、たいへんだ。
で、結局は、見かけは、とても、クールな人・・・ということになる。
見かけとのギャップは、ひょっとして、大きいかも知れない。
ところで・・・話は、まったく変わるけれど・・・
バイリンガルの人って、ステキだ。
自分には絶対に死んでも、マネできない。
母国語ではない言語で書かれた文字が、恐ろしく詰まった文章のカタマリを読みこなす、
そういう読書ができるなんて、ぽーっとしてしまうほど、憧れる。
話すことも、聞くことも、理解することもできる・・・なんて・・・、すごい。
バイリンガルや、トリリンガルの人にとっては、ふつうのことで、べつに、どおってことないんだろうけれど。
自国以外の国に自在に、身を寄せることが出来る。
人生の選択肢が、大きく増える。
わたしは、今までの人生、語学に関しては(語学だけではないが)、怠けていて、サボっていて、これからも努力する気がないので、
ただただ、指をくわえて見ているだけに過ぎないが。
そんなことを書いても、これを読んで楽しい人は、わずかばかりであって、不快な人のほうが多いかも知れない。
つまり、共感よりも、反感を買うだろう。
欲しくなくても、したくなくても、身近に見たり、聞いたりすると、その行動を促される、無意識に眠っている欲求を掘り起こす、
潜在的欲求の喚起(広告や雑誌では、これでもか、と、それを刺激する)は、まあ、いいとしても、
それとは、また違う、潜在的コンプレックスの喚起に、つながる。
語学ができなくても、なんの問題もない、満足そのものの毎日を送っている人にとって、
呼び起こされたくもないコンプレックス、意識しなくてもいい、本来は弱点でもない弱点を自覚させられるなんて、とんでもない。
反感というのは、時として、こころに残り、無意識に反応してしまうものらしい。
わたしも、この年になって、上述したように、はじめて、そんな経験(=キライなことを大声で否定して、でも、影響を受ける)をした。
脳や目や耳に快いものばかりを自動チョイスして、受け入れ流すのもひとつだが、
逆のもの、反感を買うものに触れることは、脳の活性化につながるように思う。
ただし、瞬間的に、短時間。そして、いつでも、それから離脱できることが条件。
あまり長く触れていると、逆効果をもたらすかも知れない。
そして、キライなもの、コトは、無意識下のライバル心だったり、する。
こだわりの分野だったり、する。
柔軟なアタマを保つには、刺激は必要。
いつも、スタンバイ状態にあると、ちょっとしたことにでも、びんびん響く。
こころも、カラダも。
が、過度な刺激はよろしくない。
平常心も、揺れに揺れる。
なにごとも、ほどほどに。
そのさじ加減は、各々の人生の経験値に左右されることだろう。

