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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

今朝のブログ散歩

2013-02-18 | ブログ

今朝は、雨。

時間がないなか、ブログ散歩。
そして、思うことは・・・やっぱり暗いのはキライだ。
でも、怖いもの見たさ、自分のキライなことを再確認、再認識したくて、たまに行ってしまう。

好きなのは、ヘリクツ系。
価値観とか、そんなかんじのもの。
でも、言葉遣いが乱暴だと、内容がどんなものであれ、キライ。

それと、日常のことを軽快なリズムで綴ってあるものも、好き。
朝の連ドラのノリ。
あんまり考えなくていいから、負担が少なく、楽しい。

・・・やはり、書き方(文章表現)と、人間性。


社交ダンスの先生が、おっしゃっていた。
競技ダンスの相手選びの条件は、技能でも、癖でも、なんでもなく、性格、人間性だそうだ。
長い時間、いっしょに居るから、合わない人とでは、苦痛以外のなにものでもない、と。
苦痛なものからは、なにも生まれない、と。
あとは、お金があるかどうか、だそうな。
なるほど、わかりやすい。

というわけで・・・

わたしのブログ散歩。
愛読するのは、骨があるけれど、さらっとしているブログ。
そういうのが、飽きが来なくて、長続きするようだ。

(ユニーク・ブログは、別枠キープ)


 

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愛があれば・・・

2013-02-17 | 暮らし

ご近所の、同じ自治会の知人の方が、なんの前触れもなく、突然、お引越しをされた。

彼女は、元、子ども会も同じ。
子ども会も、自治会も、役員として顔をあわせた時期、年度も、何度かある。
季節の到来モノなど、お宅に持って行ったり、いただいたり、していた。
自治会主催の近隣・緑道掃除の日には、ほんの最近も、顔を合わせたりもした。

まったく知らない間に、お引越しされたといういうことは、
彼女にとって、わたしは、それほどの人物だったということなのだろう。
あるいは、それが、アーバン風、彼女風スタイル?
いや、おそらく、前者だと思う。
寂しいというよりは、からっとしたクールな風を感じる。
そして、自分は、彼女との付き合いなど、ほとんどなかったことを思い知る。

自宅は、さっそく、売りに出ているらしい。
しんみりするヒマもなく、そのことを教えてくれた別のご近所さんに、即、お値段を聞いてしまう、下世話なわたし。
へえ・・・あのお家は、そいうお値段・・・
株価や為替、不動産も少し動き出し、アベノミックス効果が現れているとはいえ、
売り家の値段は、決して、素晴らしいものではなく、
土地神話は崩れ、バブルは、とうの昔に過ぎたと、しみじみ痛々しく実感として感じる。


それにしても、シンプルだ。
住まいを変わる、早業。
土地や地域に対する、愛着とか、そういうものはなさそうで、
いとも冷静、沈着な判断で、この地を離れるようだ。

子供たちも就職した赴任地に離れて住み、夫婦二人だけになり、
子供を育てた場所、家の役割を終了した様子。
夫婦二人だけの生活にマッチした、駅まで傘の要らない駅近の、新築マンションに移ったとのこと。
新築だから、だれが、古参で、だれが新米、とか、そういう序列もなく、新しい門出、出発。

いやはや、潔い判断と、行動力。
定年を過ぎると、旦那さんは、奥さんの意見に従う傾向にあるそうだ。
奥さんが、この地を離れる、と言えば、旦那さんは、おとなしく付いてくるそうな。
二人とも同じ意見なら、なんの問題もないが、
奥さんは、駅近マンション、旦那さんは、郊外の一戸建て、と、
意見が分かれた時は、夫婦が別れる時、だそうで、別れたくないご主人が、奥さんの意見に従うとか。

女性は、強いなあ・・・。
その逆は、・・・?

泣く泣く旦那さんに付いていく奥さん・・・。
悲劇だなあ・・・。
じゃあ、泣く泣く奥さんに付いていく旦那さん・・・は?
これは、悲劇? 喜劇? 悲劇? 喜劇? 歌舞伎? 現代劇? ミュージカル? オペラ?

二人の間にあるものは、愛情か、生活の目安、算段か、真の豊かな老後か?

「愛があるから、我々夫婦は、そんな悲劇にはならない」
「我々は、死ぬまで、どんな環境になろうが、どこに行こうが、一緒」
「一緒に暮らさないなんて、夫婦ではない」
「健康な時と、健康を害した時では、状況が違う」
「老親の介護で、事情が変わる」
「助け合い、互助会」

「・・・」

いろんな素晴らしいご夫婦がおられることだろう。
いろんなところに、いろんなご夫婦。

それぞれのご夫婦には、それぞれの幸せを追求して、新しい愛の形、あるいは、旧来の愛の形を
具現化、実践していただきたいものだ。

そして、
土地や地域に対する思い入れというものは、環境、歴史、背景、地域、風土、考えによって違う・・・ものだ。

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ブロガーの嘘

2013-02-16 | 無題

わたしは、ブログに書かれていることは、ブロガーさんに関する、本当のことがベースにあるものだと思っていた。
そして、無邪気に、その内容に影響を受けていた。
(コメントとかは、めったに入れないけれど)

創作と、はっきりわかるものは、あくまでも、創作として捉えている。
だが、私生活っぽいものに関しては、私生活に限りなく近いのだと思っていた。
しかし、そうでない場合もあるようだ・・・。

というか、むしろ、真実と逆を書いてみたり、理想を書いてみたり、
まったく違う生活を描いてみたりして、趣味として、バリエーションを楽しむというのも、ありだけれど。

わたしの場合、「ホンネを書きまくっている」と書いていること自体、ホンネじゃないかも知れない。
なぜなら、ブログに自分の考えや、感想を書いたその直後、正反対の想いが、むくむく湧き上がってくることもある。
これは、自分のブログに嘘を書いていたわけではなく、ブログを書いた時は、ほんとうに、そう思ったのだ。
が、しばらくして、気が変わって、その、変わったほうの内容を、訂正して後でアップしていなかったりするので、
結果的には、嘘つきブロガーということに、なってしまう。

恋愛でも、こういうことって、よくある。
あの時は、ほんとうに、「好きだ」「愛している」って、思っていた。
だから、そう言った。嘘じゃない。
一瞬、一瞬の言葉には、嘘はない。
あれから気持ちが変わっただけだ。情熱が薄れただけだ。熱が冷めただけだ。
いいところより、悪いところのほうが、気になるだけだ。

なので、恋愛相手の、こころがわりを責めることはできない。
が、相手を傷つけることはあるので、相手の傷を最小限度にとどめておく、気配り、義務がある。
第一、非を責められたり、なじられたりするのは、自分でも嫌だし、相手に、そんなことをされても、嫌だろうし。

 

自分でも、ブログに書いたばかりなのに、正反対の想いに駆られた時、とても、こころ苦しいのだが、
いたしかたない。
こころって、ころころ変わるようだ。
こころの、下(した)の下の下の底流のところは、そうそう変わらないが、
読んだばかりや、知ったばかりの、まだ脳内表面から浅い、上っ面のことに対しては、
そんなにハイスピードでは、自分の脳内の奥深くまで、浸透したり、固まったりしていないで、
過剰に反応したり、飛沫が飛んだり、大騒ぎしている。

そんなことは、ない!
ありえない!!
キライだ!!
けしからん!!
わたしは、そうしていない!!

感情的に、そう、わめいているが、無意識のうちに、けしからん内容に刺激を受けて、こころが活火山になったりしている。
つまり、否定しているが、実のところ、受け入れたくないと、正の脳が言っているだけで、
正脳じゃない部分は、ばっしばっしと受け入れているようだ。

わたしは、その振幅幅がすごくて、自分でも振り回されたりして、たいへんだ。
で、結局は、見かけは、とても、クールな人・・・ということになる。
見かけとのギャップは、ひょっとして、大きいかも知れない。


ところで・・・話は、まったく変わるけれど・・・

バイリンガルの人って、ステキだ。

自分には絶対に死んでも、マネできない。
母国語ではない言語で書かれた文字が、恐ろしく詰まった文章のカタマリを読みこなす、
そういう読書ができるなんて、ぽーっとしてしまうほど、憧れる。
話すことも、聞くことも、理解することもできる・・・なんて・・・、すごい。
バイリンガルや、トリリンガルの人にとっては、ふつうのことで、べつに、どおってことないんだろうけれど。

自国以外の国に自在に、身を寄せることが出来る。
人生の選択肢が、大きく増える。
わたしは、今までの人生、語学に関しては(語学だけではないが)、怠けていて、サボっていて、これからも努力する気がないので、
ただただ、指をくわえて見ているだけに過ぎないが。

そんなことを書いても、これを読んで楽しい人は、わずかばかりであって、不快な人のほうが多いかも知れない。
つまり、共感よりも、反感を買うだろう。

欲しくなくても、したくなくても、身近に見たり、聞いたりすると、その行動を促される、無意識に眠っている欲求を掘り起こす、
潜在的欲求の喚起(広告や雑誌では、これでもか、と、それを刺激する)は、まあ、いいとしても、
それとは、また違う、潜在的コンプレックスの喚起に、つながる。
語学ができなくても、なんの問題もない、満足そのものの毎日を送っている人にとって、
呼び起こされたくもないコンプレックス、意識しなくてもいい、本来は弱点でもない弱点を自覚させられるなんて、とんでもない。

反感というのは、時として、こころに残り、無意識に反応してしまうものらしい。
わたしも、この年になって、上述したように、はじめて、そんな経験(=キライなことを大声で否定して、でも、影響を受ける)をした。
脳や目や耳に快いものばかりを自動チョイスして、受け入れ流すのもひとつだが、
逆のもの、反感を買うものに触れることは、脳の活性化につながるように思う。
ただし、瞬間的に、短時間。そして、いつでも、それから離脱できることが条件。
あまり長く触れていると、逆効果をもたらすかも知れない。

そして、キライなもの、コトは、無意識下のライバル心だったり、する。
こだわりの分野だったり、する。


柔軟なアタマを保つには、刺激は必要。
いつも、スタンバイ状態にあると、ちょっとしたことにでも、びんびん響く。
こころも、カラダも。

が、過度な刺激はよろしくない。
平常心も、揺れに揺れる。

なにごとも、ほどほどに。
そのさじ加減は、各々の人生の経験値に左右されることだろう。

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コンプレックスに、塩をすり込まれた

2013-02-15 | 日々のこと

記事、書き始めから、文字チェック、校正、タイトルまで、
すべてを10分以内に収めるなんぞ、無理だが、どこまで出来るか挑戦!!

お気に入りブログを読む暇もなく、とっ走る。

昨日書いた、クボさんではない、ヤマダさんの言葉や顔が、
昨日、一日中、ちらちら浮かんでは消え、浮かんでは消え、した。(好意、とかでは、決してない)

その中でも、気になる言葉。

ヤマダさん「あなたは、平安時代の高貴なお方のようですね」
わたし「それって、目が細いだけですよね」
ヤマダさん「げらげらげら」

否定してほしかったのに、あるいは、もっと、つっこんで、いかに高貴なのか、追加補足してほしかったのに、
何回も「平安人」と言われ、そのお返しに、目が細いことをわたしが言う度に、げらげらげら。
これって、けっこう、こたえる。
小倉山荘のオカキのパッケージに描かれている、お姫様みたい?
(見たことないけれど)(そんなイイものではないか・・・)

「おたふく、ってことですかねー」と、まったくアタマで考えず、口先から出るわたしの言葉に、
ヤマダさんは、ただただ、「げらげらげら」。

これも、しっかり否定してほしかった。

わたしは、そんなに目が細いのか??

まあ、いいですけど・・・。

 

ということで、本日は、時間いっぱい、です。

 

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ヤマダさんが、クボさんになるまで

2013-02-14 | 日々のこと

昨日、Aさんという人と、初めて話した。
初対面から2回目。初対面は、1週間前。
その人の名前を現場にいたBさんに、「あの人、誰ですか?」とわたしは聞いていた。
「ああ、あの人は、ヤマダ(仮名)さん」と、Bさんは教えてくれた。

で、Aさん(ヤマダさん)に、「あなたのお名前、Bさんからお聞きしていて知っていますよ」
と切り出した。
「たしか・・・間違ってるかも知れないけれど、クボさんでした?」

ヤマダさんは、答えた。
「違います。わたしは、ヤマダです」
「ああ、そうそう、ヤマダさんでしたね。間違ってごめんなさい」

と、しょっぱなから、はじめて話す人の名前を間違ったわけだが・・・
それにしても、なんで、ヤマダさんから、いきなり、クボさんになってしまったのだろう。
わたしのなかで、脳内転換されたらしい。

ヤマダさんに、よっぽど、
「すみません・・・直近に読んだブログのことがアタマに残っていて、つい、その影響で・・・。
クボさんっていうブロガーさんがいて、名前がタイトルになっていて・・・」
と説明しようかと思ったが、うまく、端的に説明できるかどうか自信がなかったし、
自分が、へなちょこブロガーで、かつ、人のブログを読むのが趣味だということを、
初対面に近い人に、知られたくなかったので、もごっと口の中に封じ込めた。

なんでだろ?
今どき、ブログなど、珍しいこともなんともないのに、なぜだか、自分が、そういうことをしていることを知られたくなかった。
おそらく、わたしは、自分のことは、極力、自己開示しない主義なんだろう。

というか、なんで、クボさんなの?
って、自分で可笑しくなった。
クボさんが、へんなところで、突然、現れ、しかも、目の前にいる実在の人物に、
「わたしは、クボではありません」
なんて言われると、ほんと、説明できない自分の脳内に、再度、問いかけてみたりする。

ブログ内容もさることながら、ハンドルネームって、ある意味、インパクトがある。
わたしの、いま使っている「スロー」は、今までのハンドルの中で、いちばん、つまらない、気に入らない名前だ。
もともとは、「素浪人」から由来したものなのだが、それもなあ・・・。
わたしの、「木枯らし紋次郎」的・年齢、感性が、バレバレで、よろしくない。

・・・で、だ・・・。
そのヤマダさんと、初対面に近い状態で、2時間も話した。
よく、そんなに話せるものだ、と、自分でも感心した。
だんだん、ヤマダさんが、疲れてきたようなので、2時間で終了した。

話をするのは、わたしはとても不得意である。
ましてや、相手があまり話さない人、受身の人と話すときは、話題を提供したり、切り出したり、
流れのようなものを作ったり、しなければならない。
相手が、それをしてくれるのなら、こっちは、とても楽で、
ベルトコンベヤーに乗ったまんま、なにも考えずに、「はいはい、そーですね」、と答えるだけでいいのだが。

いったい、相手は、なにが言いたくて、どんな人なのか、結局、よくわからなかった。
無駄か? あの2時間。
まあ、誰とでもそうだが、最初は、全く知らない他人なので、相手と馴れる(慣れる)時間が必要だと思う。
会った瞬間に、十年来の友人みたいに、意気投合、垣根のない性格・性質の人もいる。
が、わたしは、相手によるが、けっこう人見知りするタイプだ。
なので、相手がおしゃべりなタイプでないと、とても苦しい思いをする。

次回、いつになるのか予想できないが、偶然、ヤマダさんに会っても、おそらく、そんなに親しくはできないと思う。
2時間しゃべろうが、なんであろうが、しょせん、なにを話したか、よくわからないような、
そんな話をした人とでは、距離は近寄らない。
まあ、そういうこともある。
でも、話さないより、話した後のほうが、まったくの無関係、無関心、ノーコンタクトより、距離は縮まる。

じつは、その、話の中には、わたしの中では、がががーーんと、ショックな内容が含まれていて、
大きく舵を切らねばならぬ局面を目の前に迎えたような、そんな重大事項、気付きを感じた。
他人のくせして、平気な冷静な顔をして、不意にアッパーパンチ、
わたしの弱点をすいすい、ぺらぺら、容赦なく指摘してくる、大先輩のアドバイスが、堪えた。
口が重い人なのに、なんで人の欠点は、あんなによく観察できるんだろう・・・??
辛口アドバイスは、染み込みすぎて、辛(から)すぎて、辛(つら)すぎる。

しかし、今まで頑張ってきたんだもの。あきらめてなるものか。
頑張って、激辛コメントを肥やしにしようと、めげない、負けない、覚悟を固めた次第だ。


申し遅れましたが、最後になってなんですが、登場人物の、このAさん(ヤマダさん)、Bさんは、
同じ趣味の人々であります。
情報交換も盛んに行われ、趣味の話って、甘かろうが、辛かろうが、尽きないのだ。
そして、どんなに踏みつけられても、情熱の炎は、消えないのだ。

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強がりでは、ありません

2013-02-12 | 日々のこと

わたしは、付き合いが悪い。
お仲間に入れていただいても、その後、マメにやりとりせず、マイペースを突っ走る。
これは、実生活と、まるで同じだ。

「癇に障る」の意味をググっていたら、とあるブログにヒットした。
一人行動をしている、協調性のない「癇に障る」女性のことが書かれている記事があった。
その女性の行動タイプが、わたしと、そっくりだった。

彼女が、一人行動が好きなのは、誰も、あんな人とは、付き合いきれないからだそうだ。
おそらく、わたしもそうだろう。

いやはや、反省・・・。
しかし、自分自身、本気で反省していないところが、致命傷だ。
一人が、気楽で、とてもいい。

なんで、こう、わたしは団体行動が苦手なんだろう?
小学校の低学年の時の、通信簿に、「協調性 ×」って、なっていた。
かなり努力して直さなければ、直らないだろうに、ずっと放置したまんまにしている。

団体行動といっても、ゆるいもので、そんな、ぞろぞろ、びっちり、くっついて団体行動するわけでもないのに、
なぜか、群れから外れたくなる習性があるようだ。
一人が、好き。
べつに、強がりでもなんでもないところが、救いようがなく、重篤化しているかも。

そんでもって、一人で、こうやって、ブログに、ぶつぶつモノ申しているなんて、
とても奇妙で、ヘンで、変わっているかも。
でも、自分では、けっこう、充実の時を過ごしているから不思議だ。
どうしてだか、楽しい。

こんな楽しさ、人に話しても、わかってもらえないと思う。
引きこもり、内向的性格なんだろう。
(その割には、あまり、在宅せず、引きこもっていない)


話、変わって・・・

「女性は子宮で考える」っていうけれど、あれは、比喩表現ですよね?

女性の子宮のことは、女性が一番よく知っていると思う。
なので、「子宮で考える」と言った人は、男性なんじゃないかと思う。
なぜなら、わたしは子宮で考えないから。
ありえないし。そんなの、無理だし。

男性が書いた官能小説に出てくる女性・・・あれは、男性が考えた、想像した女性。
女性のことは、女性が一番、知っている。
なので、ああいう、官能小説でなくても、普通の小説でも、
「男性作者は、女性のこと、わかってない」ということを、いやというほど思い知らされる。

女性が女性のことを書くと、えげつない。
わたしは、正視できない。まともに、向かい合えない。
なので、わたしは、オトコ目線になる。
そのほうが、体温が、へんに生暖かくなくて、いい。

自分と向き合いたくないから、逃げの一手の、卑怯作戦。
自分の中の嫌なものをわざわざ取り出してきて、これでもか、と、自虐的に、自分を痛めつける趣味はない。
これって、前にわたしが書いたことと、正反対。
人はみな、嫌な部分、悪い部分があるのに、
それを見ないフリをして、そんな負の部分は、ないかのように思い込もうとしている、と。
ちゃんと、自分と向き合うべき。嘘をつくな、自分を騙すな、と。

それは、それ。これは、これ。
ちょっと、分野が違うわけであります。


寿司職人に、女性はなれないそうだが、これは性差別?
女性の手が生暖かいから、だとか。
男性と女性のカラダの特徴の違い?
それとも、男社会から女性をシャットアウトしたい、身勝手な理屈か?

「おんなっぽすぎるのは、気持ち悪い」
そんなことを、知人のT氏が言っていた。
多くの女性たちと浮名を流しまくったお方なのに。
年齢が上がってくると、感覚や好みも変わってくるのか。
なまっぽいのは、苦手になるんだろう。

ということで、わたしは、自分の路線は、オトコ目線が、お気に入り。
涼しいかんじで、軽快だ。
オネエの逆?
オニイか?


ブログタイムを夜中にシフトしたら、時間制限がなく、だらだらと余計なことばかり書いてしまう。
朝の時も、そうだったけれど。
自滅寸前で、このあたりで、終わりにしよう。

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失望させて、すみません

2013-02-11 | オトコとオンナ

今のわたしの恋愛観は、けっこうキレイなものになっていると思う。
(注)「恋愛観」であり、「恋愛」ではない。あくまでも。
汚いものをするりと、通り過ぎたかんじか。

かつては、どうだったか、忘れてしまった。
覚えているとしても、忘れるほうが、今となっては自分のこころは気持ちいい。
忘れたことにする、忘却・確信犯。

わたしは、いつも、醜い、こころの裏ばかりを掘り下げて書いているかも知れないが、
恋愛に関しては、残念ながら、読む方々の溜飲を下げさせるような、そんなご期待には、まったく応えられない。

つるん、と、ゆで玉子の殻をむいたような、すべすべしたかんじか。
書けば書くほど、
パソコンやケータイの、向こう側の皆さんの、みるみる失望感が増す、がっかり感ありありの顔が見えるようだ。

でも、仕方ないじゃないですか。
自分は、自分、わたしは、わたし、なので。
皆様のために、わたしは、あるわけではなく、わたしのために、わたしがあるわけで。

恋愛関連で、もがき苦しんでおられる方々のブログを見ると、
「ご苦労様!!」
と、肩をぽんと軽く叩きたい気分になる。
「頑張って!! 」
と、明るく声をかけたい。
次に続く、
「頂上まで、あと少しかも知れないし、
永遠に頂上になんか、たどり着けないかも、・・・それより、頂上なんか、ないかも知れないけどね」
という言葉は、ごくんと飲み込み、笑顔だけを送る。

人の恋路を邪魔する気はまったくない。
頑張ってください。

ただし、ここで、文学や、芸術のジャンルから、ころげ落っこちる。
エンタメも、ダメかも。


わたしは、恋愛「卒業」とはまた違う、別のコースに行ってしまっている。
思いもよらぬ、軽快で爽快で、・・・とってもすっきりした、ぬける青空のような、そんな世界。
そう、・・・卒業したわけではない。
まさに、コースが変わった。

おどろおどろしいのは、や、だ。

年とった?

「年のせい」と言ってしまえば、すべて、終わってしまう。
免罪符か、ドラキュラの十字架か、水戸の黄門さんの印籠か。

自分では、なんでもかんでも年のせいだとは、捉えていないけれど、
ひとつひとつ、悩みが、しゅーっと消え、けっこう、ステキな気分になれて、いい調子だ。

考え方が、変わったようだ。
植物が、太陽の光のほうばかりに向かって伸びるように、明るい方にしか、向かないようになったのかも?
暗くて、じめじめ湿度が高いほうとは反対の向きに、向かいたがっているように思う。
嗜好、志向の変化か?

暗いのは、やっぱりキライだ。

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薄情もの

2013-02-10 | 人生

苦悩されている皆様方には、申し訳ないけれど・・・

わたしは、まったくというほど、皆様方の苦しみが、我が事のように捉えることができない。
同情はするが、自分のこととして、置き換えられない。
なぜなら、自分は、ちっともそんなことの経験もないので、感情や感想が湧き上がらない。

喜びも同じ。
やたらめっちゃか喜んでおられるのを見ても、どうも、ぴんと来ない。

わたしは、感情が薄いというか、薄情、冷徹、というか、アップダウンが少ない、というか・・・
古びたロボコップの、ひ弱いバージョンじゃなかろうか。
よろよろロボットおばさん、か。


上娘が、おそろしく、いろんな知識を得て、はじめての子育てに挑んでいる。
非常に情熱をもって、手間隙と愛情をかけて、丁寧に育てている。
自分の時は、まったくといっていいほど、なんにも、ほんとうに、なんにも考えず、
ただただ、毎日、子供を育てていたんだと、ある意味、驚きの目をもって、見ている。
当然、婆は、控え要員として、ベンチの裏の、そのまた裏の、第4控え室ぐらいで、ぼおっと、呼ばれるのを待つだけ。
しかし、いまのところ、ほとんど、呼ばれないし、文字通り、出る幕がない。
(子育て戦争が激化して、ややこしくなると、こんなこと言っていたことが、懐かしくなるかも知れないが)

今の世代の子は、インターネットなどで、情報や交流が盛んになり、日常化し、
我々の時代の情報や、方法など、通じない感がある。
ま、停電の時は、昔流で、アナログの世界で、出番が来るかも知れない。
(しかし、それも、ぼおっとしていただけの経験では、あまり役に立てるとは、期待できない・・・)


人の誕生や死は、ものすごく大きなこと。

話は、変わるが、・・・・

ペットの死も、そう。
わたしは、ペットを飼ったことがないので、
(昔、子供の頃、犬や鶏を家で飼っていたが、ペットというカテゴリーには収まらないかんじ。
可愛がるというよりも、実生活に役立てるためのもの)
お気に入りブロガーさんが最近、突然、ペットを亡くされたが、その喪失感を共有できず、慰めの言葉がかけられない。

わたしは、祖母や父、義理の祖母や父を亡くしているが、いまひとつ、喪失感がない。
なぜなら、彼らは、高齢になってからの死であり、天寿を全うした、と、わたしは捉えている。
こんなに長生きでき、しかも、おそらく悔いのない人生を閉じることができて、よかったね、という思いすら、ある。

なので、さほど、悲しくない。
思い出として、こころには、残っているが、そう、しょっちゅう思い出すこともない。
が、あなた方がいなければ、今のわたしはないし、子供や孫もいないわけだから、強く感謝の念は持っている。

若く、突然に、人が亡くなるのは、もちろん悲劇である。
しかし、亡くなる時期を越えても、生き続けて、しかも自立していない場合、これは、どうなのか。
PPK(ぴんぴんころり)の理想そのままの最期を迎えた親戚が、けっこういる。
理想だ。

彼らは、自立していた。
ちょっと気難しい、うるさ型の人もいたが、若い人々に侮られることはなかった。
自立って、素晴らしい。
母親たちや、わたしが、理想どおりに行く、行かないは、別として。

自分ではどうしようもない運命や宿命に振り回されることがあるとすると、
そういう時は、多くの人は宗教にすがることだろう。
じっと流れに身を任せ、祈るのみ、なんだろう。
へんにあがいても、逆効果のこともある。
大きな流れに逆らうことなく、静観していると、自分の進む道が見えるはず。

もし、その道の向こうが、この世でなかったとしても。
導きのままに進むと、安らかなこころで、いられるのかも知れない。
今は、想像しているに過ぎないが、想像で収まっていることに、感謝しなければ。

実際、その時が訪れても、穏やかな気持ちで、いられるかどうかは、わからないが、
毎日、平穏無事に過ごせることは、じつに幸せなことだ。

ある程度の年齢を重ねると、つまり、長生きすると、人は宗教っぽいことに熱心になるようだ。
それは、年齢的に考えて、次のステージが、この世ではないから。
若い頃には、考えたこともなかったし、そういうお年寄りの宗教活動が、まったく理解できなかった。
自分もそういう年齢に突入しかけているのか。

いや、まだ、早い。

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ブログの自由

2013-02-09 | ブログ

3581文字の記事を書いたが、これまた、アップするのをやめた。
タイトルは、「神経に触る」。
とある某さんが、「読むと、神経に触る」と仰る、とあるブログを軸に、わたしなりの分析を延々として、書いたのだが、やめた。

もしも、とあるブログのご本人が、「あ、これ、オレ(わたし)のブログのことか?」と、へんに勘ぐって、気を悪くされると困るから。
そんなブロガーさんが、予想以上に多くて、何人も、何十人も続出してしまったら、心外だから。


うんと年上の、大先輩から、あれこれ、深いお言葉を頂戴するのは、いいが、
似たような、同世代の人から、偉そうな口を叩かれるのは、神経に触る、という、某さん、
確かにその通りだ。

それぞれ、個人の考え方や価値観を、人に押し付けられると、むっとする。
マザー・テレサのような人に諭されると、もっともだ、と、素直に受け入れられ、自ら、反省したりもする。
そうでもない人に言われると、「は? あなたに、そんなこと言われる筋合いはないわ」、と、なる。
「その年で? 百年、早~い」と、なる。
しかも、カチカチに凝り固まって、絶対に動きようのない、柔軟性のない考え方だったりすると、さらに、うんざりする。
人の意見や考えに、聞く耳を持たないスタンスが、見え隠れすると、げげっとなる。
いくら、あまりある文章の才能に満ち溢れていても、神経に触る、というわけだ。

そう書くと、わたしも、偉そうなことを書いて、非難されている口なんだろうけど。
でも、わたしは、書くことが好きなだけで、べつに、文学者じゃないし、文豪でも、文筆家でもない、
自分の文章にこだわりのない、ただの、へぼブロガーなので、あまり、人のことが気にならない。
ブライド持ってやっているわけではなく、鼻息も意気込みも、たいしてなく、単なるお遊び。
お金のかからない、ストレス解消だ。

権威や、大家の重々しい威圧に苦しむほど、自分自身は、たいしたことがないので、ふつーに、へらへらしている。
これは、大げさでも、なんでもなく、正直な気持ちだ。
自負がない。
まったく、いいかげんなものだ。
そのあたり、気合、信念をもって、取り組んでおられる人とは、ちょっと温度が違うかも知れない。

だが、正統派の大家は、遊びやフリーな部分がなく、決め付け、固定観念が強い。

わたしも、固定観念はビシビシにあり、動きようがないような気がする。
しかし、自在な目線がないと、生きて行けない。

自由は失ってはいけない。
自由のないところでは、窒息する。
自分の脳内にも、自由に行ったり来たり振幅できる、柔らかさがあるといい。
(ややもすると、わたしは、振幅しすぎて、優柔不断の傾向、大いにあり)

選択の自由、多角的に捉える目、自分も他人も認める寛大さ、敬意、
こういうのが、必要。

それと・・・主流派と、アンチ主流派は、いつだって、対立する。相容れない。
それで、いいんじゃないですか?

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キライなものは、読まない、ってことが、一番シンプルでいい。

 


ブログ村の住民たち

2013-02-08 | ブログ

いろんなお方がブログ村に、常駐、たむろしておられる。
じつに、おもしろいものである。

昨日の、わたしの記事「物欲まみれ」。
期待はずれで、すみません。確信犯です。
結局、最後は、いい子ぶってます。(でも、書いた時は、そう思った)

ベンツのSLの話も書きたかったんですが、税務署の目もあることだしい~
庶民感情を逆なでしても、いけないしい~

おそらく、ブログ村の皆様方は、わたしが想像するに、2極に両極端に分かれていると思う。
とても文才あふれる方々であるのは、共通の特徴であるが、
あと、背景は、2パターン。
毎日が面白いか、面白くないか。
この、どっちかだと思う。

「面白いから、書く」、場合と、「面白くないから、書く」。

うっぷん晴らしの要素、大。

人生が思い通りに行っている人は、文章なんぞ、書いても、書かれたものは、とてもつまらんものだと、想像する。
すると、わたしは、例外か。
思い通りに行ってないのに、つまらん。
思い通りの内容にもよるだろうけれど。

人生がただただ、楽しくて、思い通りに行っていたら、ぜったいに、ブログなんて書かないと思う。
もっと他のことをしてると思う。
あるいは、よっぽどヒマを持て余しているか、だ。
ほとんど無料で、一日中、遊べるんだもの。
こんな安上がりな、お遊びはない。

600円の入場料で、半日、踊り放題、遊び放題のダンスパーティと似たようなもの、だ。
ただし、600円で誰もが参加できる、その背景・環境は、いろんな人がいて、
本当に600円だけを握ってやってくる人もいる。
他には行きたくても行けない、1日、600円以上、使ってはいけない人。
それはそれで、健康的だし、社交的だし、なんの文句もない、結構なことだ。
家で、ぐじゅぐじゅ引きこもっていたり、一日中パチンコしているよりは、ずっといい。
(わたしは、大のギャンブル嫌い)

でも、なんだかんだいって、自分と似たような人を見つけ、知り合いになり、距離が近づいていくようだ。
それもまた、素晴らしいことなんではなかろうか。
(他人事のように言う・・・)

人を見る目を肥やしつつ、探りつつ、距離感を保ちつつ、好きな集まりに、顔を出すのは、
いろんなネタが落ちていて、暇つぶしには、もってこいだろう。

「人生、死ぬまでの、暇つぶし」
小学校4~6年の時、担任の先生が、そう言っていた。 

しょせん、人生は、暇つぶしなんだ・・・。

ただし、未来ある希望に満ちた、小学生を悟らせるには、ちょっと気が早いと思うが。

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