蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、花咲く時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

小学生のころ

2019-01-23 | 思い出
小学生になった時の思い出。
はじめて開いた教科書。
理科の教科書で見た「菜の花」が、印象に残った。
国語の教科書、「さくら、さいた」が、優しく目に映った。
担任のH先生は、わたしが幼稚園の時からレッスンを受けていたピアノの先生。
上品で柔和な優しい先生だった。
先生は、地域では高級住宅地とされる高台に、お姑さんとご主人と息子さん2人でお住まいだった。
長い階段を登って行くのに、子供ながら息が切れた。
門をくぐり、庭の中をまっすぐ歩くと、裏玄関があり、そこから入って右に回ると、先生のお姑さんが習字を教える和室があった。
和室の前には、裏玄関まで通ってきた庭が見える。
わたしはお姑さんに書道も習っていた。
さらに、その和室を出て、応接室のような部屋で、ピアノのレッスンを受ける。
お姑さんも上品で柔和な方、ご主人も背の高い、アメリカドラマに出てきそうな上品で素敵な男性、子供たちも、超おぼっちゃまだった。
わたしは、小学6年まで、その先生の家に通っていた。
ただし、習字は、小筆になってから、全然うまく書けず、脱落した。
筆が細いため、付けた墨が続かないのだ。
先生は、一度墨を筆に付けると、さらさらと何文字も書いてお手本を見せてくれる。
だが、わたしは、一文字、やたら太くなった無様な文字。
枯れた文字など到底書けず。
で、辞めたわけだ。
辞めることに対して、親は、どういう反応だったか忘れた。
バレエも珠算も、自分から言いだして習った。(正確には「習わせてもらった」)
小学生高学年から6年ぐらいまで。

全部、中途半端で終わった。
自分から習いたいと言い出したくせに、軟弱にも2〜3年ほどで辞めている。
ただ、家庭教師だけは、わたしには充てがわれなかった。
兄にも姉にも家庭教師がいたのに。
兄や姉が家庭教師が来た年齢になると、自分も当然、順番が来るものと思っていたが、一向に気配がない。
で、一応、わたしもー、と親に頼んだような気がするが、どうもスルーされたようだ。
末っ子なので(あるいは見込みのないものには投資しない、合理主義か?)、明らかに手を抜かれた。

そのあたりから、わたしの学業不振の根源があるのかも知れない。
その後、成績が振るわなくても親のせいに出来るネタを掴んで、何かと不利な状況に陥れば、そのネタを持ち出し、自分を慰めた。

話は、戻る。
ピアノの先生であり、小学1年の担任だったH先生。
想像するに、昔は公務員も副業が認められていたのだろう。
H先生からの、受け持ち小学生としての初めての通知表。
先生直筆の小さな美しい文字で書かれた、わたし評価は、「大人しく優しいが、芯はしっかりしている」だったような。
これ、ブログに何度もしつこく書いている。
気に入っているんだろう。

幼稚園に入った時は、父が信号機の見方、横断歩道の渡り方を、現場でわたし目線になるよう父が、しゃがんで教えてくれた。
父がちゃんと1対1で接してくれたのは、それぐらいだ。
あとは、食事中のマナーが悪いだとか、こんなことも知らないのか(知識がない)だとか、叱られてばかり。

父が仕事から帰宅すると、それまでうちで遊んでいた近所の子供たちは、蜘蛛の子が散るように、一斉に駆け足で逃げて帰った。
ガラの悪いガキ大将や、ハナタレ小僧の嫌いな父だった。
自分の息子に、彼らからの悪影響が及ぶのを嫌がった。

わたしは、末っ子で、しかも女の子だったので、あまり期待もされず、力も入れられず、野放しに近い状態で育った。
逞しく雑草のごとく育ったと多分思うのだが、見かけはフツーに大人しげだったようだ。
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