蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

人の幸せには、むやみに近寄ってはいけない

2016-02-04 | ブログ

久々ぶりに、とある他人の幸せブログを見た。

人の幸せには微動だにしないわたし・・・のはずだった・・・が。

・・・疲れた。

良かったね。ばら色の人生。
拍手を笑顔で送る予定だった。
が、だんだん自分の幸せ色が薄まっていくように感じた。
ピンクの酸素が減ってきているような気になった。

これは、一種の嫉妬、妬みであろうと自己分析する。

自分もじゅうぶん、幸せであると感じている、わたし。
だが、欠点がある。
欲張りなこと。
もっと、もっと・・・と思ってしまう。

目に見えなければなにも思わないが、
具体的に(記事や写真で)見えると、潜在的欲求のようなものを喚起されてしまう。
うなぎの蒲焼屋の店先のニオイに惹かれるのと同じか。
駅前の、バターがこげ焼ける、なんともいえない幸せのニオイに頬が緩むのと同じか。
頬が緩むのならいいが、買えなくて、空腹なら、腹が立つのみ。
マイナス効果である。

しかも、わたしののぞいてきた幸せブログは、わたしより人生の歩みとしては少し後。
5年~10年、わたしのほうが先輩である。
その人の幸せと同じ分野の幸せは、わたしは既に経験済みである。
しかも、わたしは存分に、満足している。
にもかかわらず・・・。
そうとう、わたしは強欲であると思われる。

さらに加えて、わたしが経験して、その人がまだ経験していない(もうすぐ経験する)幸せを想像すると、
どっとアタマが重くなる。
ひとの幸せで自分のアタマが重くなる、ってどういうこと?

これは、自業自得、欲が深い自分を戒めるには、もってこいの教材、題材である。
その人を否定することは、カンタンである。
比較したり、勝ち負けの分野、部分を見つけると、必ずある。
しかし、人をけなしてまで自分の満足を得たいかというと、そんなことはない。

人を不幸にして、強奪した金品で、身を飾っても、楽しくないようなもの。

その部分をピックアップして、「わたしのほうが勝ってるわよ」と仮に思ったとする。
それは、傲慢なだけであり、勝ったもの、戦利品は、そう思った瞬間、途端に色あせる。
人に自慢するために、頑張ったのではない。
自分のために頑張ったのだ。
それで、仮に人より勝っていたとしても、こころの中でだけ誇りに思うのは自由だが、
わざわざ、口に出して表現するのは浅ましい。

なにげなく、自分がしたいからしている、数々の素晴らしい幸せな毎日。
それを純粋に、自分の日記としてアップされているものに対して、あれこれ思うのはどうかと。
(わたしも、思われている可能性、大。わたしは、純粋ではないけれど)

しかしながら、その人、ほんとうに純粋なのか、ちょっと疑いたくなる時もある。
見せびらかし、自慢?と取るわたしは、やはり、人間が出来ていないのだろうなあ。
不純な目では、純粋なものも、レトロな分厚いガラスを通してみるように、歪んで見えるのか?

見ないことに限る・・・と、今回もそのブログを訪問して、そう感じた。

むやみに、不急不要に、うなぎの蒲焼屋の前は通らないこと。

よい勉強である。

 
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