蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

目を覚ませ。実践せよ。

2013-06-16 | 暮らし

わたしは、思いやりのカケラもない。

いつも、自分のことで、精一杯だ。

最後列から、ふーふーいって着いていく、オチこぼれ一歩手前の人間は、
自分の目の前や、真横、真後ろにいる、同じ方向目指して頑張っている人たちが、ぽろぽろオチこぼれていく、
そんな風景を見ながらも、足を緩めるわけにはいかない。
手を差し伸べていては、自分も、まっ逆さまに落ちていく。
わたしも、何度も、何度も、崖から落ちそうになり、崖に生えている草を掴んで、ピンチを切り抜け、
ずずっと少しすべり落ちても、どうにかこうにか、谷底への転落を免れる。

こういう状況で、今日まで歩んできているので(ただし、これは心象風景)
自分がいかに、へこたれないか、そればかりに集中して、へこたれている人に手を差し伸べる余裕がない。

へこたれている人を見かけると、自分だってこんなに頑張っているのに、こんなに日が当たらない、
へこたれているアナタと、同じように休んでいる場合ではない。
そういう気持ちになる。
つまり、余裕がないのである。だから、思いやりが生まれない。
思いやって欲しいのは、わたしだ! 
救いの手を差し伸ばしてほしいのは、わたしだ!
と、わたし、わたし、わたし、と、自己主張、自分こそが、かわいそうな人、とばかりに被害者意識が働く。
だから、弱い人に暖かいまなざしを向けられない。
つまり、自分自身が弱いということだ。

自分が、目指す山に上ってはじめて、下から登ってくる人や、落ちこぼれていく人に、手を差し伸べられるのだろう。

※(註)これは、あくまで、心象風景であって、現実の行動や現象は、また違うものです。


甘ったれている人を見ると、なぜかムカついてしまう。
わたしだって、こんなに頑張っているのに、こんなに冷遇されているんだ!!
と、またまた、へんなマイナスの感情がむくむく湧き上がってくる。

どうして、自分もデキが悪いくせに、人のデキの悪さに寛容になれないのだろう。
自分の器が小さいのだろう。
自分に厳しく、人にも厳しいのだろうか。
性格は、ひとそれぞれで、優劣、評価しがたいと思うが、人格、人間性の問題だろうか。
この年齢になっても、ぜんぜん、人間ができていない。


これは、精神的な世界であって、
現実の世界では、ほんの小さなこと、ささいなこと、たやすいことでも、
わあ、すごい、偉い!立派!尊敬できる!!と、わたしは、他に対して、かなり評価のハードルが低い。

現実の出来事では点数が甘く、精神面には、点数が厳しい。
つまり、理想と現実のバランスがうまく取れていないのだろう。

気持ちはあくまでも、高く高く、崇高に、理想は、天まで届くほどなのに、
実際に自分が出来ることといえば、たいしたことは出来ない。
このギャップがあるので、これを克服しないかぎり、ひとに優しく出来ない、思いやりの手を差し伸べられない。

わたしの課題は、現実と理想の調和をはかること。
言うばかりでなく、行動で示せ、ということ。
理想の高さが、自分を貶(おとし)めていることに気付いているのなら、
その悪癖を改め、良い方向へと行動で示せ。実践せよ。


さ、そろそろ、現実タイムが始動する。
今日は、日曜日だが、忙しい。

 

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