聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

 教会と聖書の読み方について

2017-04-23 17:13:36 | ミッションノア学びレジメ

2017年4/23晴れ

 説教 教会と聖書の読み方について

桜が散り、だんだん温かくなってきた今日この頃ですが、皆さん、お元気でしょうか。

昨日は、私は、管野牧師が主催した新宿での路傍伝道に参加しました。

雨の中10名以上の人達が集まり、ギターやタンバリンを使い2時間くらい、神の愛を皆様にお伝えしました。

さて、私達にとって教会とは、何でしょうか。

教会とは、キリストの体であり、また、キリストの体とは、罪赦された私達が、主・イエスの十字架の愛無条件の愛を伝え、そして、善をおこない、互いに戒め、互いに神の為に一致して、神の宣教の為に働くところが教会なのです。

上記の路傍伝道の話を上げたのは、私は昨日集まった、超教派で集まった兄弟姉妹たちの集まりは、立派な教会であると主に於いて思います。

私達は、主・イエス様の十字架の愛により、救われました。

人間には、肉体と魂があり、神は、霊であるといいます。

霊と真によって礼拝しなさいと、世界の創造主である主はいいます。

私が主に於いて、伝えたい事は、教会とは、神を拝む事、礼拝するだけの場所ではありません。

信徒の皆様方の献金や奉仕活動、様々な善意ある行為によってキリスト教会は成り立っているのです。

その中で、牧師がいて、長老がいて、信徒がいるのですが、まず私達がなぜ聖書を読み律法を学ぶのかというならば、

神は愛であるからです。

そして神は、隣人を自分自身のように愛せよと言うからです。

でも、私達教会に来る人達は、様々な職業につき、また信徒の中でも長い信徒、最近来た信徒もいるし、子供から大人まで、様々な考えを持っている事だとおもいます。

だから、聖書を注意してよく読む必要があります。宗教とは、一つに結ぶという意味もあるのだそうです。

ゼカリア11:7 私は、羊の商人たちの為に、ほふられる羊の群れを飼った。 私は2本の杖を取り、1本を慈愛、1本を結合と名付けたとあります。

慈愛と結合、慈愛の心をもち、一致して教会がキリストの為に歩む為に律法は存在するのです。

今日の教会で、この事に対して、主の牧師として羊飼いとして、よく兄弟姉妹を見張り、神の御言葉を用いて、正しく牧会なされている教会があるのかというならば、完璧な教会はありませんから、何とも言えませんが、子供たちと大人の距離を感じますし、それというのも、聖書を読んではいても、それぞれの教会の秩序や、信徒それぞれの霊的な成長により、異なった見解を持っているので、中々一致するのは、難しいのが現状だと私は感じます。

だからこそ私は、説教者と教会の役員長老を選ぶ時に、主・イエスに祈り、テモテ第一3:1~16までを良く読み、まずは、学歴地位だけではなく、聖書的に正しい信仰の持ち主で説教者や役員長老にしていく必要があります。

この間もどこの教会とはいいませんが、精神的な病があり、その人がまた゛牧会者となれる状況か、そして、罪に対して信仰に対してきちんとした主の聖霊に於いての判断ができるのかも鑑みずに神学校も牧師もその人に神学校に行かそうとしていた事がありました。

上述した問題に対して、今日の教会では、信仰の一致の為、指導者を良く吟味して選ぶ必要性を多々感じています。

肉と御霊の関係に於いて、職場や社会の中で、信仰的な罪との戦いや信徒としての証を聞き、そしてその人が、どのような

信仰生活を送っていたのかが、とても重要です。

職場や社会で人を導く事は出来ずとも、職場の外や親しい人に対しての伝道の証のない人が、いくら地位学歴があって説教者や牧師になっても、その人は、神からのレッスンを受けてきていないのですから、聖書に書かれている神の証言を伝え、神の愛を伝えたり、どのように、青年たちが職場、社会で生きたらよいかのアドバイスもできないでしょう。

一致した教会神の愛にあふれた、教会をつくるのは、一人一人ですが、説教は、教会の徳を高め、教会の秩序を保つ為にあるもので、私達が正しくあろうとする事をはぐくむ事が必要です。

そして説教者自身が神を恐れ、罪を犯さないようにする事が肝心な事です。

伝道者とは、神の愛キリストの救いを伝える事ですが、説教とは、教会を建てあげ、そして人々に神の愛を伝播させる事が何よりも大切な事である事を私達は知らなければなりません。

信徒達も説教を聞いたならば、その得た神の御言葉を生かす者にならなければなりません。

神の御言葉は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神とあるように、今生きている私達信徒の為だけにあるのではなく、神の御言葉は、職場や社会、全ての人々の為に主が聖書を通し、説教者を通して、語られる神の愛のラブレターだからです。

ここが、今日の教会の信徒達説教者たちが見落としているところではないかと私は主に於いて考えます。

説教に必要な事は、聖書の御言葉の訓戒についてバランスよく、主と祈りながら、お話ししていく事も大事なのです。しかもその教会についての問題に対して、信徒を見守り、その問題を把握し、教会には、それぞれ、の性質に於いて、向き不向きがあるのでその事も勘案して話さなければなりませんが、訓戒だけではならないが、とても難しいところです。

ただだからこそ、私は週によって毎回説教をするようになったならば、いろいろとカリキュラムを作ります。

  1. 訓戒2.証3.宣教これらをうまく説教をする人は話す必要があると私は考えます。

 

さて、少し話は変わり、ヨブ記の話をさせていただきます。

ヨブは、神様が認める程正しい信仰の持ち主でした。

私もこのヨブの話を読み、本の少しの過ちを犯さない神に於いて、素晴らしい方であったのだと私は考えます。

ヨブ31を読んでみて頂きたい。

これが、彼がしてきた行いなのだ。

もし、私がうそと共にあゆみ、この足が欺きに急いだのならば、正しいはかりで私を図るとよい、もし、私の歩みがそれ、私の心が自分の目に従って歩み、私の手に汚れがついていたならば、私が種をまき他の人が食べるがよい。

裁きにおいて、罪に於いて、貧しい人達に於いて、彼は、いつも慈愛の精神を持ち、そして、家族に対して人々に対して彼が病になる前から、今に於いて、背きの罪を覆い隠したことなど私は神よないのだ。

といっているのです。

しかし、気負付けなければならない事は、ここで、ヨブは、神よりも自分自身を義としてしまっていました。

この世では、例えば地震や戦争で命を落とす事もあれば、横田めぐみさんのご家族のように、理不尽な目に会う場合があります。

この世は、この世の中には、残念ながら、悪と善がありその戦いが常にあるからです。

もし、ヨブ記を例えばユングの本なども読みましたが、学者として神と人間を同位に置き、公正に読んだならば、神は悪で、ヨブは正しいとヨブが犯した過ちをしてしまうでしょう。

しかし、聖書は信仰により読む書物です。

神が器である人間を造ったというのに、聖書を読み神と人間を同じ土俵の上で見る事自体がとても危険な行為であり、愚かな事です。

聖書を読む時には、だから霊的成長のある人が解き明かすようにする必要性があります。

霊性によれば、ヨブには、自分を義とし、神よりも自身の優位に立とうとした、そして自身の正しさが時として、神の裁きよりも、自身の義により、神の裁き神の愛をないがしろにする事があるということです。

ヨブ40:7~ さあ、あなたは、勇士のように、腰に帯をしめよ。

私はあなたに尋ねる、私に示せ。

あなたは、私の裁きを無効にするつもりか。自分を義とする為に、私を罪に定めるのか。

正しさとは時として、過ちにもなりえる事がある。

なぜそうなるのか、それは、憐みの心を私達は持たなければならない。

その為には、私達は救われたが、神を恐れ、マタイ5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

常に謙虚である必要がある。

今日は、説教とは何か、そして私達が聖書を読む時に、どのような視点で読むべきなのかについて主に於いて語らせて頂きました。

主・イエスを信じるならば、誰でも救われるという事を今日も、職場社会、生活の場で伝えて行きましょう。

あなた自身を主は信頼しておられます。

神には、手も足もありません。

しかし、あなたがいるのです。

この御言葉を聞いたあなた方に今日も主は、期待しています。

 

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