今年は柿が豊作だ。詩吟の先生や知人からたくさん頂き、干し柿にしたり、焼酎で渋を抜いて生食したり、食べきれずに娘や孫に送ってやることもできた。田舎の人たちに聞いた話だが、農家では昔は柿の木を植えて、どこの家でも貴重な食品であったようだ。飽食の時代になって、だんだん柿を食べなくなり、木に生らしたまま冬を過ごす家も珍しくない。そんな柿の木を見て、「もったいない」と口にするのは、みな同年代の人ばかりだ。
柿を大事していた時代の随筆がある。唐木順三の「柿に思う」だ。
とってきて 机の上において
しげしげと ながめる
手にとり たなごろにうづめ
なでふきまたながめる
この充実した色おもみ
ゆるぎのないかたち
自若として そこに坐り
黙って語る無限の道(ことば)
四季をこの一瞬にあつめて
冷たく光っているこの色
生命はここに充ちて
そのしみまでかぐはしい
この柿を語りうるならば
私の言葉はそこで終っていい
何という柿への思い入れだろうか。唐木はこの文に続けて、「まことに一顆明珠、ああこれが柿だ。柿の実だ。日本の秋だ。生命の充実だ。」と書いている。柿を愛で、そして一顆、一顆惜しむようにして食べた光景が文のなかに広がっている。食生活が豊かになって、ひとつの果物への思い入れが失われたような気がする。私は柿の皮も剥かず、皮ごと齧るのが好きだ。皮の食感が口のなかに残り、そして甘味が広がっていくのが心地よい。
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