常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

冬ごもり

2020年01月30日 | 日記
一夜明けて、青空が広がった。大平山に朝日が当たってぐんと近くに見える。雨上がりとはいえ、暖冬でもやはり戸外に出る機会は少なくなる。朝食を終えて、かかり付けの医院に薬をもらいに行く。正月を越して、血液の数値が心配であったが、A1Cは正常で、前回よりも改善されている。

冬籠り猫が聾になりしよな 内田 百閒

漱石の弟子であった百閒は大の猫好きであった。自らも、老いの身で冬は家に籠りがちだ。飼い猫はいつなもら、呼び掛けると、鳴き声で返してくるのだが、火鉢のそばで返事をするでもない。やはり、猫も年をとって、暖をとるのに夢中で、主人の呼びかけを無視しているのだ。

わが家でも猫を飼っていた。勤めから帰ってきて、炬燵に入ると待っていたように胡坐の上に乗ってくる。背中を撫でると、ごろごろと喉を鳴らし、気持ちよさそうに寝入ってしまう。人の体温は猫にとって快適なものであるらしい。

内田百閒に『贋作吾輩は猫である』というのがある。師の向こうを張ったもので、猫好きでなければ書けない小説だ。主人公は口ひげを生やした大入道で、五沙弥という元教師だ。吾輩は苦沙弥先生のところで飼っていた吾輩が、死んだのだが、生きかえって、大入道の家に入っていくところから話は始まる。

話の筋はともかくとして、主人の友人ら猫を観察している手紙が来る。実に詳細に猫の生態の観察が書かれている。

「一体に野良ネコは別にして、家ネコは甚だゼイタク者である。魚類がくついていないと飯を喰わない。飯は無論銀シャリである。その他はウドンやソバが好きで、パンもバタつきならそのついたところだけ喰う。私は時時叔母の家で小皿に盛られた彼の食事を、そして彼がきわめて落ちついて召しあがっているのを見ると腹が立って来る」

ネコをゼイタクにさせているのは、飼い主である。猫かわいがりという言葉があるくらいで、昔から飼いネコを可愛がるのは、漱石や百閒の時代でも変わりはない。
コメント
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