常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

廃線ツァー

2020年01月26日 | 日記
山の会でかって隣国へ通じていた古道や峠道、今は使われていない道を探しながら歩くことがある。そんななかで、もう使われないトンネルを見ることがあった。土木県令と言われた三島通庸が掘った栗子隧道や関山トンネルを見て、歴史ロマンを感じた。いま、鉄道の廃線を見る廃線ツァーがブームになっているらしい。昨日の子ども博士ちゃんというテレビの番組で、北海道の廃線が放映された。北海道には特に廃線したところが多いらしく、博士ちゃんも北海道の小学生であった。自宅には、かっての駅にあった様々な品がきれいに整理されて保存されている。数多くの廃線を見て歩き、写真を撮り、かっての切符や時刻表、旗、ランタンなどを収集するのが好きな一風変わった趣味で、こと古い線路のことならなんでも知っている小学生であった。このブログでも、家の子が廃線を見に北海道へ行ったという記事があった。

この日、テレビで紹介された廃線は、深名線であった。私の生まれた深川と幌加内や朱鞠内を経由して名寄に通じる鉄道だ。駅の名に、そこから汽車で通学する同級生がいてことのほか懐かしかった。幌加内からは、高校の同学年が10名もいたような気がする。冬には大雪のニュースに出る朱鞠内はこの近くで、人造の朱鞠内湖があり、ここでキャンプをした記憶もある。自分たちで初めてカレーを作ったが、調味料を忘れて失敗したことも忘れられない記憶である。更科源蔵は雨竜川の奥に住む山男の伝説を紹介している。山男はカンジキを履いて雪の中を歩くが、大きな川を跨いでいる跡や二つの山の両方の斜面に跡をつけるほど大男であったという。タバコが好きで、これを見せると身体を小さく折りまげておしいただき、お礼に鹿や熊の肉を背負いきれないほど届けたという。(「北海道の旅」)

雪の中で、博士ちゃんは廃線のホームを掘り出して感動していた。地形を見ると確かに線路の跡は、雪の中でも真直ぐに拓かれていて、ああ、ここに線路があったんだと納得できる。自分は函館本線のひと駅で深川の駅に着く。ここで深名線と合流する。幌加内や多度志から乗ってくる人たちと一緒になって登校した。汽車通は時間が早く、学校には始業の1時間も前に着いた。特に冬はまだストーブも付かないので、じっとしているわけにはいかない。体育館で、バスケットボールを持って走って練習をして身体を暖めるのが、過ごし方であった。そのために幌加内からくる生徒たちとは、市内から来る生徒よりも長い時間一緒にいたことになる。時はながれて70年、かつての通学線路は廃線となり、その跡はそこを見学するツアーで賑わっている。 
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