犬(いぬ)や猫(ねこ)は、たまに見かけることはあった。でも、この辺りにクマのような大型の野生(やせい)動物がいるなんて、驚(おどろ)きだった。どこからやって来たのだろう。
典子(のりこ)は、襲(おそ)われないために守(まも)りを固(かた)める必要(ひつよう)に迫(せま)られた。女一人の力でやれることは知れているが、それでも頑張(がんば)って家や畑の周りに柵(さく)をめぐらした。簡単(かんたん)に壊(こわ)されてしまうかもしれないが、それでも気休(きやす)めぐらいにはなるだろう。
彼女の苦労(くろう)とは裏腹(うらはら)に、あれ以来(いらい)、生き物の気配(けはい)はなくなってしまった。どこか別の場所に移動(いどう)したのか、それとも近くにひそんでいるのか。気を緩(ゆる)めることはできない。
典子は食料(しょくりょう)を調達(ちょうたつ)するために町へ出かけた。その途中(とちゅう)に、あの坂道(さかみち)がある。彼女は右カーブの手前で自転車(じてんしゃ)を止めた。ここから全てが始まったのだ。今まで、通るたびに元の世界へ戻(もど)れるのではないかと、はかない期待(きたい)を持っていた。だが、それがかなうことはなかった。今日もきっと…。彼女はため息をついて、自転車をこぎ出した。
カーブに入ったとき、彼女は目を疑(うたが)った。ガードレールにぶつかるようにして車が止まっていたのだ。彼女は急いで駆(か)け寄り中を見た。人だ。男性がハンドルに頭をつけて、動く様子(ようす)はなかった。典子はそっとドアを開けて、男の身体(からだ)を揺(ゆ)すってみた。身体は温(あたた)かいので死んではいないようだ。彼女は、何だかほっとした。この人から、何かが分かるかもしれない。もしかしたら、元の世界に戻れるかも…。彼女は男に声をかけ続けた。
<つぶやき>希望(きぼう)の光が見えてきたのかも。この男はどこから来て、何者なのでしょう。
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あれから三カ月が過(す)ぎようとしていた。家族(かぞく)の行方(ゆくえ)も分からず、典子(のりこ)は寂(さび)しさに耐(た)えながら暮(く)らしていた。町のあちこちへ行ってみたが、人の姿(すがた)を見つけることはできなかった。
電気や水道も使えない不便(ふべん)な生活(せいかつ)。それにもやっと慣(な)れてきた。日の出とともに起(お)き、暗くなれば眠(ねむ)りにつく。水は川から汲(く)んでくる。生活排水(はいすい)が出ないせいか、すごく澄(す)んだきれいな水になっている。食べ物は、スーパーからもらってくる。お肉(にく)や魚(さかな)、野菜(やさい)なんかはダメでも、缶詰(かんづめ)とか乾物(かんぶつ)、お菓子(かし)は食べ放題(ほうだい)だ。彼女一人なので、しばらくは大丈夫(だいじょうぶ)だろう。でも、健康(けんこう)のためにと、野菜を育てることにした。近くの畑(はたけ)を借(か)りて野菜の種(たね)を蒔(ま)いた。園芸(えんげい)初心者(しょしんしゃ)の彼女だが、そこは本屋で手引(てび)き書(しょ)を手に入れた。道具(どうぐ)はホームセンターへ行けばなんでも置いてある。
生きていくメドもつき、これからのことを考える余裕(よゆう)もできた。事件(じけん)が起きたのは、そんな時だ。夜中(よなか)に、家の周(まわ)りで何かが動き回る気配(けはい)を感じた。ガタガタと物音(ものおと)がしたのだ。
典子は眠れないまま朝を迎(むか)えた。恐(おそ)る恐る外へ出ると、家の周りにはこれといって異常(いじょう)はなかった。だが、畑へ行ってみて彼女は驚(おどろ)いた。収穫(しゅうかく)間近(まぢか)の野菜が荒(あら)らされ、無残(むざん)な状態(じょうたい)になっていたのだ。彼女は駆(か)け寄り調(しら)べてみたが、食べられそうな野菜はほとんどなかった。ふと周りを見ると、人の手ほどの足跡(あしあと)がいくつも残(のこ)されていた。
<つぶやき>あなたはこんな状況(じょうきょう)でも、生きていけますか? 生きる自信(じしん)はありますか?
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典子(のりこ)は自転車に乗って坂道(さかみち)を下(くだ)っていた。今日は彼とデートの日。都会(とかい)と違(ちが)って遊ぶ場所は少ないが、それなりに楽しむことはできる。彼女の胸(むね)はわくわくしていた。頬(ほお)をなでる風が心地(ここち)よく、道は右にカーブする。その時だ。突然(とつぜん)目の前が真っ白になった。
どれくらいたったろう。典子が目を覚(さ)ますと、道路(どうろ)の上に倒(たお)れていた。何が起(お)こったのか全く分からない。彼女はゆっくり起き上がる。倒れた時に擦(す)りむいたのだろう、膝(ひざ)から血(ち)がにじんでいた。彼女は痛(いた)みをこらえて自転車に乗り、また走り出した。
何かが違うと感じたのは、走り出して間もなくだった。いつも通る道なのに、いつもと違う。車が一台も通らないし、誰(だれ)とも出会わないのだ。こんなこと今まで一度もなかった。
彼との待ち合わせの場所に着く。彼の姿(すがた)はそこにはなかった。驚(おどろ)いたことに、駅前(えきまえ)の通りなのに人影(ひとかげ)は全くない。この町の人はどこへ行ってしまったのか。彼女は不安(ふあん)になった。腕時計(うでどけい)を見る。でも、壊(こわ)れてしまったのか、秒針(びょうしん)が止まったままだ。
典子は近くの店に駆(か)け込んだ。店の中には、やっぱり誰もいない。彼女は携帯(けいたい)で家に電話をしてみた。が、発信音すらしなかった。店の電話を使ってみても同じだった。彼女は、店にあった小さなテレビのスイッチを入れた。しかし、何も映らない。彼女は、片っ端(ぱし)から電気(でんき)のスイッチを入れてみる。彼女は愕然(がくぜん)とした。電気がきていないのだ。
典子はハッとして店を飛び出すと、自転車に乗って自宅(じたく)へ急いだ。
<つぶやき>突然、別の世界へ迷(まよ)い込んでしまう。あなたの身にも起こるかもしれません。
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夏美(なつみ)が深刻(しんこく)そうな顔でやって来た。私は、何だか嫌(いや)な予感(よかん)がした。
夏美は微(かす)かな声で言った。「あたし、できちゃった」
「えっ、なに?」私は、彼女が何の話をしているのか理解(りかい)できず、聞き耳を立てた。
「だから、赤ちゃんができちゃったの。かず君に何て言えばいい?」
「あっ、そうなんだ。よかったじゃない。おめでとう。夏美がママになるなんて…」
夏美は困(こま)ったような顔をして繰(く)り返した。「かず君にどう言えばいいかな?」
「なに? 悩(なや)むことなんかないじゃない。結婚(けっこん)してるんだし、ママになるんだよ」
「だって、かず君、子供(こども)なんか欲(ほ)しくないかもしれないし。どう切り出したらいいのか」
「夏美の旦那(だんな)って子供好(ず)きじゃない。絶対(ぜったい)喜(よろこ)んでくれるよ。そんなに考えすぎなくても。<できちゃった。てへっ>って笑(わら)っちゃえばいいのよ」
「そんなのダメよ。何だか、軽(かる)すぎるわ。あたし、そんな軽薄(けいはく)じゃないし」
「じゃあ…。<喜んで下さい。あなたの子供を授(さず)かりました>」
「何か、それも違(ちが)う気がする。とっても他人行儀(たにんぎょうぎ)だわ。もっと、他にないの?」
「何で私にそんなこと。私、結婚もしてないんだよ。分かるわけないでしょ」
「じゃあ、一緒(いっしょ)に来て。好恵(よしえ)がいてくれたら、かず君にちゃんと話せるかもしれない」
<つぶやき>こんな友だちでも、面倒(めんどう)をみてあげて下さい。彼女、テンパってるんです。
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「ねえ、私たちそろそろ…」恵里菜(えりな)は頬(ほお)を赤らめながら言った。
隣(となり)で一緒(いっしょ)に飲んでいた友之(ともゆき)は、「あっ、そうだね。そろそろ帰ろうか」
「いや、そういうことじゃなくて…」恵里菜はじれったそうにしながら、「私、今日は、帰りたくないなぁ。何か、そんな、気分(きぶん)っていうか…」
恵里菜は、今日こそ彼の気持ちを確(たし)かめようと思っていた。彼と付き合い始めて一年が過(す)ぎようとしている。なのに、彼ったら何もしようとしないの。キスだってまだだし、手を握(にぎ)ろうともしてくれない。私のこと、どう思ってるの?
恵里菜は思い切って、「あの…、あのね。私たち…、付き合ってるんだよね」
友之は一瞬(いっしゅん)考えてから、「まあ、ある意味(いみ)、そうなるのかなぁ。君と飲んでると楽しいし。ついついこっちも誘(さそ)っちゃうんだよねぇ。あっ、あんまり誘っちゃ悪(わる)かったかな?」
「いえ、それはいいのよ。別に、私も飲むの好きだし。でもね…」
「そうか」友之は何かを合点(がてん)したように、「そうだよな。悪かった。これからはなるべく…」
「なに? なに言ってるの?」恵里菜はますます彼の気持ちが分からなくなった。
「君(きみ)も、言ってくれればいいのに。そうだよなぁ。彼氏(かれし)とデートしたいよね」
「彼氏って…。えっ…? どういうこと? 私は、あなたと付き合ってるんだよね」
友之は恵里菜を見つめたまま動けなくなった。彼女の気持ちが、やっと通じた瞬間(しゅんかん)だ。
<つぶやき>自分の思いを伝えるのは難(むずか)しい。相手(あいて)が同じ思いとは限(かぎ)らないしね。でも…。
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