苦行ばかりが行じゃない
「出家の目的」
お釈迦さまは、何ひとつ不自由のなかった城を捨てて、すなわち出家されて、何年もの間、苦行を積まれたといわれています。
これは当時のインドの坊さん、つまり修行者は皆そのようにしていたからです。断食をしたり、滝にうたれたり、呼吸を一杯に吸って耐えたり、また、呼吸をかすかにして、ほとんど息を止めたりするなどの、およそ超人的な苦行をつづけていた。お釈迦さまこのような修行をされたのです、すっかりやせおとろえてしまった、といわれております。
そして「どうも、私の求める答えは、苦行から得られるものではなさそうだ」と氣が付かれ、菩提樹の下にすわり、瞑想に入ったのです。
そのまま座り続けて、一週間目の明け方、空に輝く明星を見られた時、ハッと悟られ、それまでの疑問が一氣に氷解したのだ、と伝えられております。
この時、お釈迦さまは、どんなことを悟られたのでしょうか?
その前に、お釈迦さまは、いったい何を疑問とされていたのか、それを知る必要があります。
その疑問とは「人間の苦しみは、どうして生ずるのか?」そしてまた「その苦しみを、どうやったら解決できるのか?」ということでした。
たとえば、人は欲しないのに、老い、そして死にます。また、病気になって苦しみます。こういう人々の姿を見るうちに、お釈迦さまは、なんとかこの苦しみを救う手段はないものか?という菩提心を起こさせたのです。
そして、この問題を解決するため、出家され、苦行の世界に入られました。
しかし、その苦行も解決にはならず、ついに瞑想という行によってその答えを得たのです。
「何を悟ったのか?」
お釈迦さまの得られた心理は深淵なもので、私たち凡人には、なかなかうかがい知ることはできなのだ、という人がいます。
それももっともですが、ここは一つ大胆に、そして単純に、お釈迦さまの得た、その悟りを分析してみたいと思います。
お釈迦さまの発見されたこと、それは「二元対立によって、存在は表現されている」ということではないでしょうか?
「二元」それは「陽」と「陰」つまり、プラスとマイナスのことです。すなわち、宇宙のすべてはの存在は、この二つが対立して現れる故に、はじめて存在し得るのです。
「病気」があるから「健康」があるのです。「死」があるから「生」があるのです。
これを逆にいってみましょう。「病気がなければ健康はなく」「死がなければ生もないのです」
次のようなたとえ話で説明すれば、わかりやすくなるかもしれません。
生まれた時から闇の中に住んでいて、一度も光を見たことがない人は、実は「光を知らないだけでなく、闇も知らない」のだ、と・・・・すなわち、
光なきところに闇はなく、闇なきよころにも光なく、二者の分別と対立があってこそ、そこに光と闇がある、ということです。
苦しみがあるから、楽しみがあり、悲しみがある故喜びがあるのです。
「二元対立の原理」
老いていく故に、この一瞬一瞬のときがなんと貴いことか。死は必ずくる故に、生のなんと尊いことか。
すべては変わりうつろいゆく故に、今、生きてあり、見、聞き、味わっている大自然と人生の恵みのなんと素晴らしいことか!
お釈迦さまの悟りとは、ある意味では、悲観主義であった思想が楽観主義へ変わったものとも考えられましょう。
いや、さらにもう一歩突っ込んで考えるならば、悲観と楽観の二元対立をはるか高い所から均等に見下ろし、そのいずれにとらわれ支配されることなく、必要に応じて自分に気分さえ自由自在にコントロールできるようになった、ともいえるのではないでしょうか?
さらに考えるならば、苦というも、楽というも、悲しみというも喜びというも、それらの対立する二つの感情を生み出すものが、私たちの外部にある客観的事実というもの自体ではなく、実に私たちの内部にある主観的虚構性の中に構築される観念であることを悟られたのではないでしょうか?
そして、この主観的虚構性をうまく支配し、苦を楽に変え、この方法で人々の悩みを解消する智恵をもって「般若の智恵」と呼んだと思うのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世の中は 氣の毒な 人だらけだ あまり深く 考えない 方がいい
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
年を重ねることは、苦を感じさせず、苦も楽とするなり・・
今生きているから やな事 苦しい事 楽しい事 も感じられる
死んでは 感じられない 今感じ 楽しむ事なり・・
ブッダ最後の旅
「出家の目的」
お釈迦さまは、何ひとつ不自由のなかった城を捨てて、すなわち出家されて、何年もの間、苦行を積まれたといわれています。
これは当時のインドの坊さん、つまり修行者は皆そのようにしていたからです。断食をしたり、滝にうたれたり、呼吸を一杯に吸って耐えたり、また、呼吸をかすかにして、ほとんど息を止めたりするなどの、およそ超人的な苦行をつづけていた。お釈迦さまこのような修行をされたのです、すっかりやせおとろえてしまった、といわれております。
そして「どうも、私の求める答えは、苦行から得られるものではなさそうだ」と氣が付かれ、菩提樹の下にすわり、瞑想に入ったのです。
そのまま座り続けて、一週間目の明け方、空に輝く明星を見られた時、ハッと悟られ、それまでの疑問が一氣に氷解したのだ、と伝えられております。
この時、お釈迦さまは、どんなことを悟られたのでしょうか?
その前に、お釈迦さまは、いったい何を疑問とされていたのか、それを知る必要があります。
その疑問とは「人間の苦しみは、どうして生ずるのか?」そしてまた「その苦しみを、どうやったら解決できるのか?」ということでした。
たとえば、人は欲しないのに、老い、そして死にます。また、病気になって苦しみます。こういう人々の姿を見るうちに、お釈迦さまは、なんとかこの苦しみを救う手段はないものか?という菩提心を起こさせたのです。
そして、この問題を解決するため、出家され、苦行の世界に入られました。
しかし、その苦行も解決にはならず、ついに瞑想という行によってその答えを得たのです。
「何を悟ったのか?」
お釈迦さまの得られた心理は深淵なもので、私たち凡人には、なかなかうかがい知ることはできなのだ、という人がいます。
それももっともですが、ここは一つ大胆に、そして単純に、お釈迦さまの得た、その悟りを分析してみたいと思います。
お釈迦さまの発見されたこと、それは「二元対立によって、存在は表現されている」ということではないでしょうか?
「二元」それは「陽」と「陰」つまり、プラスとマイナスのことです。すなわち、宇宙のすべてはの存在は、この二つが対立して現れる故に、はじめて存在し得るのです。
「病気」があるから「健康」があるのです。「死」があるから「生」があるのです。
これを逆にいってみましょう。「病気がなければ健康はなく」「死がなければ生もないのです」
次のようなたとえ話で説明すれば、わかりやすくなるかもしれません。
生まれた時から闇の中に住んでいて、一度も光を見たことがない人は、実は「光を知らないだけでなく、闇も知らない」のだ、と・・・・すなわち、
光なきところに闇はなく、闇なきよころにも光なく、二者の分別と対立があってこそ、そこに光と闇がある、ということです。
苦しみがあるから、楽しみがあり、悲しみがある故喜びがあるのです。
「二元対立の原理」
老いていく故に、この一瞬一瞬のときがなんと貴いことか。死は必ずくる故に、生のなんと尊いことか。
すべては変わりうつろいゆく故に、今、生きてあり、見、聞き、味わっている大自然と人生の恵みのなんと素晴らしいことか!
お釈迦さまの悟りとは、ある意味では、悲観主義であった思想が楽観主義へ変わったものとも考えられましょう。
いや、さらにもう一歩突っ込んで考えるならば、悲観と楽観の二元対立をはるか高い所から均等に見下ろし、そのいずれにとらわれ支配されることなく、必要に応じて自分に気分さえ自由自在にコントロールできるようになった、ともいえるのではないでしょうか?
さらに考えるならば、苦というも、楽というも、悲しみというも喜びというも、それらの対立する二つの感情を生み出すものが、私たちの外部にある客観的事実というもの自体ではなく、実に私たちの内部にある主観的虚構性の中に構築される観念であることを悟られたのではないでしょうか?
そして、この主観的虚構性をうまく支配し、苦を楽に変え、この方法で人々の悩みを解消する智恵をもって「般若の智恵」と呼んだと思うのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世の中は 氣の毒な 人だらけだ あまり深く 考えない 方がいい
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
年を重ねることは、苦を感じさせず、苦も楽とするなり・・
今生きているから やな事 苦しい事 楽しい事 も感じられる
死んでは 感じられない 今感じ 楽しむ事なり・・
ブッダ最後の旅