こんな事を言って良いのだろうか、という話なのだけれども。
橘玲さんのブログの記事の題で、『「胸触っていい?」「手縛っていい?」のあの人はサイコパス?』って。
事務次官の女性記者に対する発言らしいけれども。
→「嫌です」
で、終わりではないか、と。
多分、この女性記者は、そういう事「嫌です」と言っても、何の問題も起きない事を、知らなかっただけだと思うのだよね。
私からしたら、「こんな事を言う人によく、1年も付き合ったなあ」という感じだけれども。
だけど、別に、「嫌です」と言っても、何の問題も起きなかったと思うのだけれども。
多分、それが、この女性記者には分からなかったという事だと思う。
何で、他にも文句言っている事はいっぱいあるのに。「いわゆる、女性的見解」に対して、文句を言う事に対して、心理的抵抗感を強く感じるのだろうか、と思う。
他の事にも、いっぱい文句書いているけれども。それに対しては、別に、心理的抵抗を感じないのに。
『信頼の問題』だと思うのだよね。
文句言っても、何も起きないという、信頼の問題。
だけど。人は、全ての事に対して、因果関係を読める訳ではないから。
自分にとって、想像つかない事は、恐れる、と。
何か、因果関係が読めるかどうかの問題はあると思う。
『殺人の指示をした』罪で、無期懲役になった女性がいて。
その人が書くには、『裁判所で、一生懸命、「私は指示していません」と訴えたが、認めてもらえなかった』と。
で、仮釈放で、出てきて、料亭の仕事に採用されたが、保護人の人に、反対されて、刑務所で資格を取った、美容師の仕事についた、と。まあ、そういう内容の本なのだけれども。
だけど。
ほとんど全ての人は、『あなたの意向通り、殺しておいたぞ』と(男性に)言われる事はないから。他人から見たら、そういう事が起こる理由はあるのだと思う。だけど、その女性には、何で、そういう事が起こるのか分からなくて、被害者意識になる、と。他人から見たら、そんな人が、料亭で働く事は、危険なのだろうが、と。
何でも、かんでも、因果関係がその人にとって、分かる訳ではないのだろうが。
だけど。
本当に因果関係が読めたら、被害者であると認識していたとしても、許せる、と。
なぜ、それが起こるのかが理由が分からないから、被害者意識になる、と。
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橘玲さんのブログの記事の題で、『「胸触っていい?」「手縛っていい?」のあの人はサイコパス?』って。
事務次官の女性記者に対する発言らしいけれども。
→「嫌です」
で、終わりではないか、と。
多分、この女性記者は、そういう事「嫌です」と言っても、何の問題も起きない事を、知らなかっただけだと思うのだよね。
私からしたら、「こんな事を言う人によく、1年も付き合ったなあ」という感じだけれども。
だけど、別に、「嫌です」と言っても、何の問題も起きなかったと思うのだけれども。
多分、それが、この女性記者には分からなかったという事だと思う。
何で、他にも文句言っている事はいっぱいあるのに。「いわゆる、女性的見解」に対して、文句を言う事に対して、心理的抵抗感を強く感じるのだろうか、と思う。
他の事にも、いっぱい文句書いているけれども。それに対しては、別に、心理的抵抗を感じないのに。
『信頼の問題』だと思うのだよね。
文句言っても、何も起きないという、信頼の問題。
だけど。人は、全ての事に対して、因果関係を読める訳ではないから。
自分にとって、想像つかない事は、恐れる、と。
何か、因果関係が読めるかどうかの問題はあると思う。
『殺人の指示をした』罪で、無期懲役になった女性がいて。
その人が書くには、『裁判所で、一生懸命、「私は指示していません」と訴えたが、認めてもらえなかった』と。
で、仮釈放で、出てきて、料亭の仕事に採用されたが、保護人の人に、反対されて、刑務所で資格を取った、美容師の仕事についた、と。まあ、そういう内容の本なのだけれども。
だけど。
ほとんど全ての人は、『あなたの意向通り、殺しておいたぞ』と(男性に)言われる事はないから。他人から見たら、そういう事が起こる理由はあるのだと思う。だけど、その女性には、何で、そういう事が起こるのか分からなくて、被害者意識になる、と。他人から見たら、そんな人が、料亭で働く事は、危険なのだろうが、と。
何でも、かんでも、因果関係がその人にとって、分かる訳ではないのだろうが。
だけど。
本当に因果関係が読めたら、被害者であると認識していたとしても、許せる、と。
なぜ、それが起こるのかが理由が分からないから、被害者意識になる、と。
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