戦争責任
『戦争責任』と言って、男性に責任を押しつけたがる人達がいるのだ。
で、自分達は、被害者だから、善なのだ、という人達が。
「自己責任を引き受けた時に、幸福になれる」と思うのだけれども。
世の中、公平だよな。責任を引き受けない限り、豊かになれないのだから。
“マウンティング”馬乗り、という言葉を使う人達がいる。
つまり、自分が上の人間になりたい、と。
本当は、『人が嫌がる、下へ、下へ、流れていく、水が最も偉大』なのかも知れないのに。
人の上へ行きたがって、行けないから、人に責任を押しつけて、『私達は、被害者なのだから、善だ』『彼らには、加害者としての責任がある』という人達が。
「弱者なら、正義なの?」と思うけれども。
「自己責任を引き受けない限り、幸福になれない」と。「他者に責任があると言っている限り、幸福にはなれない」と。
自分に責任があるという事は、良い事なのだけれども。『他者に責任がある』と言う事は、間違った事であると思う。みんな、自分の人生に責任はあるのだから。
何で、“責任”を他者に押しつけようとするのだろうか。そして、自分の“責任”を認めない。それは、自分の人生の責任を他者に押しつけているという事だが。それはつまり、『自分の人生をコントロールする力は、自分には、ない』と言っているのと同じ事だが。
それは、私にとっての、スピリチュアリズムに反する意見だが。
みんな、自分の人生をコントロールする力が、自分自身にあるのに。
自分を幸福にする責任が、他者にあると言っていても、幸福にはなれない。
変に政治的な意見をいう人達がいるよね。
『戦争責任論』にしてもそうだけれども。
日本に住んでいるだけで、日本の戦争に関する責任があるのではないかと思うのだけれども。だけど。他者に“責任”があって。私達は、中国や韓国人と同じような被害者だという。「良く分からない意見だな」と思うけれども。
で、「被害者だと言えば、善なのか?」と。
そもそも、まず、そこが問題だと思うが。
で、自分は被害者で、責任者がいて、その人達が、全部悪くて、私達は、被害者だから、善だというのだけれども。「それは、おかしい」と思うのだけれども。
だから。彼らは、『責任者』にはなれない。
世の中、公平だよね、と思う。
被害者である事を望んでいたら、そしたら、責任を取らないで済むから、だから、彼らは、『責任者』にはなれない、と。
でも、『被害者』というのは、認識の問題だ。
でも、そしたら、『責任』を取らないで、文句だけ言う権利があるから。
彼らにとっては、それは、簡単な行いなのだろう、と思う。
本当は、自己責任を引き受けた時に、幸福になれるのに。
パワーを誰かに任せるという事だ。自己責任を認めないということは。
(続き)
私自身としては、この文章は正しい。
自己責任を否定するという事は、自分自身として、幸福になる権利を放棄するという事だから。
『だて食う虫も好き好き』ということわざがあるが。
公務員になるのを、幸せと思えなくて、新幹線の中で、販売する仕事をした方が、幸福になれると信じて、そういう行為をした人がいる。
だけど。
「客観的、幸福」なんて、ない。
自分にとっての、幸福な道はあるが。
自分にとっての、幸福な道を選べば良い。だけど。それは、自己責任を否定していては、得られないであろう、と。
自己責任を否定し、他者に責任があるという人達は、自分独自の幸福があるという事を信じていない人達なのだと思う。で、誰かに、『自分の幸福を与えて』と言っている。だけど、「客観的幸福なんてありえないのに」。誰かに、与えてもらいたがっているうちは、ダメだと思う。
「人の顔色をうかがっていても、嫌われる人達がいる」。
多分、『人の顔色をうかがう』からだと思う。
自分の信じる事を、言えば良いのに。そして、自分の信じる事を、信じれば良いのに。
『同調圧力』とか言っている人達は、数は多いけれども。世の中に与える影響はあんまり大きくない。
多数決決定に文句を言う人達は、数は、少なくても、世の中に与える影響は大きい。
何で、自分の事を、信じないのでしょう。
別に、多数決決定に文句を言っても、信じる人は、信じるのだから。
(続き)
『客観的幸福』が、あるはずだ、という考えの人達がいる。
『客観的幸福』なんて、ありえないのに。
誰かに、結果を、幸福を保障してもらいたがっている人達が大勢いる。
結果の保証も、幸福の保証もあり得ないのに。
人それぞれ、道があるのだから。その人の道を歩けば良い。人それぞれの道とは、人それぞれの幸福の事だが。
それによって、自分が幸福になれると信じられるのであれば、泥水に中にだって、入っていける。
不幸も含めての、幸福でしょう。幸福だけを、実現する事は出来ないと思う。
『お嬢様』の定義は、『死ぬまで、幸せな人』と書いていた人がいたが。
そんな人は、いないと思う。
生きていたら、何らかの問題にぶつかる。それを、楽しんで、受け入れられるかどうかの問題だと思う。
「客観的幸福なんて、ありえないのになあ」と思う。
結局、そこの受け入れが出来るかどうかの問題だと思う。
自分の幸福は、自分で、つかむしかないのに。
甘い、スピリチャル議論ではないだろうが。
結局の所、何なのでしょうね。
営業職で、トップの成績だったのに、『何か、違う』という気がしていて。で、後で、全国を、バイクでツーリングする事に、幸福を感じるようになった、という話が、バシャールに関係する本で、載っていた、読者投稿だが、と。
女性って、すぐに言うよね。男性に、『私の幸福を保障して』と。
そんな、保証が、可能なのだろうか、と思う。
男性が仕事を辞めてきたら、『何で、会社を辞めてきたの?』という女性、妻は多い。
だけど。
男女平等と言う時、男女平等に働かないといけない。だけど。
(続き)
いやいやいやいや、『同調圧力』とか言っている人達と、『多数決決定に文句を言う人達』とが、議論したら、『同調圧力』とか言っている人達が、負けるじゃないですか。
まあ。うん。
(続き)
“外側”が、自分自身と無関係に存在している、という考えの人達はいる。
本当は、自分自身が、反映していないという事は、ありえないのに。
スピリチャルに解説出来る事はある。
海外で、良い所はどこか、という話で。『そりゃ、ごはんがおいしくて、人が優しくて、物価が安い所だろう』と。それに対して、『人が、優しいというのは、その人の人格による』と。『その人が良い人ならば、みんな親切だし、その人が悪い人ならば、みんな、意地悪だろう』と。
(続き)
何か、論破したいぐらい怒っているけれども。(私が)。だけど。つまり、『謝罪させたい』と言う事だと思う。頭下げてもらいたい、と。韓国人みたい。
被害者だと言いたい。だけど。食事の予約、数十人ぐらい、で、キャンセルする権利は得たい。つまり、自分が、自分達が、偉そうな人間であるというふりはしたい。
本当は、人に頭を下げられる人間が、偉大な人間なのに。
韓国結局、上手く行っていないよね。
自分が偉そうなふりをして、自分の偉大さを、自分の権力を見せつけようとする人達は、結局、嫌われる。で、『自分達は、不幸だ』というのだけれども。その原因は、自分達の行いにある。
で、韓国は、左翼政権を支持し、北朝鮮と仲良くしたいらしいが。
結局、多様性を認めない、と。
みんな、ロボットみたいに、振る舞えば、良いと思っている。
相手の感情を考えないのだろうか、と思う。食事や、宿泊を、直前に、キャンセルするような行為をすれば、相手がどう思う、感じるのか、考えないのだろうか、と思う。
で、そういう事を無視して、『偉そうにしたい』と。
で、謝罪を求めるのも一緒だよね。『相手に、頭を下げてもらいたい』と。
相手が夫なら、夫の悪口を言っても、お金がもらえると思っている人達がいる。
でも、会社なら、社長の悪口を言っていたら、お金はもらえない。
朝鮮半島出身者なら、日本の悪口を言っても、良いと思っている人達がいる。
だけど、それでは、日本国内から、お金は得られないだろう。
何で、『自分に国に帰れ』と言ってはいけないのだろうか、と思う。
この国に住んでいる以上、この国に住む住民としての、権利は、得ているのに。
自分が住んでいる国の、悪口言うのは良くないよね。
結局、倫理観の問題なのに。それが、分かっていない人達がいる。
で、自分達の不幸を嘆くが、それは、嘆く方に問題がある。
(続き)
幸せになりたいなら、『幸せになりたい』で良いのに。『幸せになりたい』を否定するから、いけないのではないか、と。
イスラム教の思想というのは、地上で苦労して、天国で幸せになろうという事みたいだけれども。
それが、良くないのではないかと。地上で、幸せになっても良いよね、という話だと思う。
そして、多くの人達が、幸福を否定する。
『金持ちは、悪だ』という。本当は、金持ちに、善があるのに。
思想が、逆さまだから、幸せになれないのではないか、と。
幸福にあこがれているのに、幸福は悪だというから、幸せを実現出来ないのではないか、と。
結局、『パワーは悪だ』と言うよね。で、自分達自身の持っている、パワーについて、否定する。
ダライ・ラマは正しいの? 私は、そう思えないけれども。
役立たずの、美しい言葉を並べておく事が、正しい事なのか。
で、『中国は敵だ』と言っておけば、善なのか、と。
「被害者だと言っておけば、善なのか」というのは、もう、何度も書いたけれども。
結局、パワーを否定する考えは、ダメだと思う。
神に全責任を押しつけ、私達は、神に比べれば、無力な存在だから、何の責任もない、という。
それが、正しい考えには、思えないけれども。
「私達に、神としての、力を持っているよ」と私は思う。
それは、「神としての責任を私達が、持っているよ」ということだが。
何で、自分達の、パワーを否定するのだろう。それが、分からない。
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『戦争責任』と言って、男性に責任を押しつけたがる人達がいるのだ。
で、自分達は、被害者だから、善なのだ、という人達が。
「自己責任を引き受けた時に、幸福になれる」と思うのだけれども。
世の中、公平だよな。責任を引き受けない限り、豊かになれないのだから。
“マウンティング”馬乗り、という言葉を使う人達がいる。
つまり、自分が上の人間になりたい、と。
本当は、『人が嫌がる、下へ、下へ、流れていく、水が最も偉大』なのかも知れないのに。
人の上へ行きたがって、行けないから、人に責任を押しつけて、『私達は、被害者なのだから、善だ』『彼らには、加害者としての責任がある』という人達が。
「弱者なら、正義なの?」と思うけれども。
「自己責任を引き受けない限り、幸福になれない」と。「他者に責任があると言っている限り、幸福にはなれない」と。
自分に責任があるという事は、良い事なのだけれども。『他者に責任がある』と言う事は、間違った事であると思う。みんな、自分の人生に責任はあるのだから。
何で、“責任”を他者に押しつけようとするのだろうか。そして、自分の“責任”を認めない。それは、自分の人生の責任を他者に押しつけているという事だが。それはつまり、『自分の人生をコントロールする力は、自分には、ない』と言っているのと同じ事だが。
それは、私にとっての、スピリチュアリズムに反する意見だが。
みんな、自分の人生をコントロールする力が、自分自身にあるのに。
自分を幸福にする責任が、他者にあると言っていても、幸福にはなれない。
変に政治的な意見をいう人達がいるよね。
『戦争責任論』にしてもそうだけれども。
日本に住んでいるだけで、日本の戦争に関する責任があるのではないかと思うのだけれども。だけど。他者に“責任”があって。私達は、中国や韓国人と同じような被害者だという。「良く分からない意見だな」と思うけれども。
で、「被害者だと言えば、善なのか?」と。
そもそも、まず、そこが問題だと思うが。
で、自分は被害者で、責任者がいて、その人達が、全部悪くて、私達は、被害者だから、善だというのだけれども。「それは、おかしい」と思うのだけれども。
だから。彼らは、『責任者』にはなれない。
世の中、公平だよね、と思う。
被害者である事を望んでいたら、そしたら、責任を取らないで済むから、だから、彼らは、『責任者』にはなれない、と。
でも、『被害者』というのは、認識の問題だ。
でも、そしたら、『責任』を取らないで、文句だけ言う権利があるから。
彼らにとっては、それは、簡単な行いなのだろう、と思う。
本当は、自己責任を引き受けた時に、幸福になれるのに。
パワーを誰かに任せるという事だ。自己責任を認めないということは。
(続き)
私自身としては、この文章は正しい。
自己責任を否定するという事は、自分自身として、幸福になる権利を放棄するという事だから。
『だて食う虫も好き好き』ということわざがあるが。
公務員になるのを、幸せと思えなくて、新幹線の中で、販売する仕事をした方が、幸福になれると信じて、そういう行為をした人がいる。
だけど。
「客観的、幸福」なんて、ない。
自分にとっての、幸福な道はあるが。
自分にとっての、幸福な道を選べば良い。だけど。それは、自己責任を否定していては、得られないであろう、と。
自己責任を否定し、他者に責任があるという人達は、自分独自の幸福があるという事を信じていない人達なのだと思う。で、誰かに、『自分の幸福を与えて』と言っている。だけど、「客観的幸福なんてありえないのに」。誰かに、与えてもらいたがっているうちは、ダメだと思う。
「人の顔色をうかがっていても、嫌われる人達がいる」。
多分、『人の顔色をうかがう』からだと思う。
自分の信じる事を、言えば良いのに。そして、自分の信じる事を、信じれば良いのに。
『同調圧力』とか言っている人達は、数は多いけれども。世の中に与える影響はあんまり大きくない。
多数決決定に文句を言う人達は、数は、少なくても、世の中に与える影響は大きい。
何で、自分の事を、信じないのでしょう。
別に、多数決決定に文句を言っても、信じる人は、信じるのだから。
(続き)
『客観的幸福』が、あるはずだ、という考えの人達がいる。
『客観的幸福』なんて、ありえないのに。
誰かに、結果を、幸福を保障してもらいたがっている人達が大勢いる。
結果の保証も、幸福の保証もあり得ないのに。
人それぞれ、道があるのだから。その人の道を歩けば良い。人それぞれの道とは、人それぞれの幸福の事だが。
それによって、自分が幸福になれると信じられるのであれば、泥水に中にだって、入っていける。
不幸も含めての、幸福でしょう。幸福だけを、実現する事は出来ないと思う。
『お嬢様』の定義は、『死ぬまで、幸せな人』と書いていた人がいたが。
そんな人は、いないと思う。
生きていたら、何らかの問題にぶつかる。それを、楽しんで、受け入れられるかどうかの問題だと思う。
「客観的幸福なんて、ありえないのになあ」と思う。
結局、そこの受け入れが出来るかどうかの問題だと思う。
自分の幸福は、自分で、つかむしかないのに。
甘い、スピリチャル議論ではないだろうが。
結局の所、何なのでしょうね。
営業職で、トップの成績だったのに、『何か、違う』という気がしていて。で、後で、全国を、バイクでツーリングする事に、幸福を感じるようになった、という話が、バシャールに関係する本で、載っていた、読者投稿だが、と。
女性って、すぐに言うよね。男性に、『私の幸福を保障して』と。
そんな、保証が、可能なのだろうか、と思う。
男性が仕事を辞めてきたら、『何で、会社を辞めてきたの?』という女性、妻は多い。
だけど。
男女平等と言う時、男女平等に働かないといけない。だけど。
(続き)
いやいやいやいや、『同調圧力』とか言っている人達と、『多数決決定に文句を言う人達』とが、議論したら、『同調圧力』とか言っている人達が、負けるじゃないですか。
まあ。うん。
(続き)
“外側”が、自分自身と無関係に存在している、という考えの人達はいる。
本当は、自分自身が、反映していないという事は、ありえないのに。
スピリチャルに解説出来る事はある。
海外で、良い所はどこか、という話で。『そりゃ、ごはんがおいしくて、人が優しくて、物価が安い所だろう』と。それに対して、『人が、優しいというのは、その人の人格による』と。『その人が良い人ならば、みんな親切だし、その人が悪い人ならば、みんな、意地悪だろう』と。
(続き)
何か、論破したいぐらい怒っているけれども。(私が)。だけど。つまり、『謝罪させたい』と言う事だと思う。頭下げてもらいたい、と。韓国人みたい。
被害者だと言いたい。だけど。食事の予約、数十人ぐらい、で、キャンセルする権利は得たい。つまり、自分が、自分達が、偉そうな人間であるというふりはしたい。
本当は、人に頭を下げられる人間が、偉大な人間なのに。
韓国結局、上手く行っていないよね。
自分が偉そうなふりをして、自分の偉大さを、自分の権力を見せつけようとする人達は、結局、嫌われる。で、『自分達は、不幸だ』というのだけれども。その原因は、自分達の行いにある。
で、韓国は、左翼政権を支持し、北朝鮮と仲良くしたいらしいが。
結局、多様性を認めない、と。
みんな、ロボットみたいに、振る舞えば、良いと思っている。
相手の感情を考えないのだろうか、と思う。食事や、宿泊を、直前に、キャンセルするような行為をすれば、相手がどう思う、感じるのか、考えないのだろうか、と思う。
で、そういう事を無視して、『偉そうにしたい』と。
で、謝罪を求めるのも一緒だよね。『相手に、頭を下げてもらいたい』と。
相手が夫なら、夫の悪口を言っても、お金がもらえると思っている人達がいる。
でも、会社なら、社長の悪口を言っていたら、お金はもらえない。
朝鮮半島出身者なら、日本の悪口を言っても、良いと思っている人達がいる。
だけど、それでは、日本国内から、お金は得られないだろう。
何で、『自分に国に帰れ』と言ってはいけないのだろうか、と思う。
この国に住んでいる以上、この国に住む住民としての、権利は、得ているのに。
自分が住んでいる国の、悪口言うのは良くないよね。
結局、倫理観の問題なのに。それが、分かっていない人達がいる。
で、自分達の不幸を嘆くが、それは、嘆く方に問題がある。
(続き)
幸せになりたいなら、『幸せになりたい』で良いのに。『幸せになりたい』を否定するから、いけないのではないか、と。
イスラム教の思想というのは、地上で苦労して、天国で幸せになろうという事みたいだけれども。
それが、良くないのではないかと。地上で、幸せになっても良いよね、という話だと思う。
そして、多くの人達が、幸福を否定する。
『金持ちは、悪だ』という。本当は、金持ちに、善があるのに。
思想が、逆さまだから、幸せになれないのではないか、と。
幸福にあこがれているのに、幸福は悪だというから、幸せを実現出来ないのではないか、と。
結局、『パワーは悪だ』と言うよね。で、自分達自身の持っている、パワーについて、否定する。
ダライ・ラマは正しいの? 私は、そう思えないけれども。
役立たずの、美しい言葉を並べておく事が、正しい事なのか。
で、『中国は敵だ』と言っておけば、善なのか、と。
「被害者だと言っておけば、善なのか」というのは、もう、何度も書いたけれども。
結局、パワーを否定する考えは、ダメだと思う。
神に全責任を押しつけ、私達は、神に比べれば、無力な存在だから、何の責任もない、という。
それが、正しい考えには、思えないけれども。
「私達に、神としての、力を持っているよ」と私は思う。
それは、「神としての責任を私達が、持っているよ」ということだが。
何で、自分達の、パワーを否定するのだろう。それが、分からない。
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