懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

蒸気機関車 夜汽車 直方駅

2016年05月13日 | 蒸気機関車
夜の直方駅や機関区内の蒸気機関車を撮った一本のネガがあった。
夜の機関区は危険なので撮影はできないがモグリで機関区に入り三脚で撮影している。
光量がないのでバブルで数十秒から数分間露光する。
適当である。現像しないと結果がわからないのがつらいところ。
露出不足もあるので時間を変えて数枚撮る。

D51型のナメクジタイプが三機写っていた。D5110.20.42号機だ。
私はこのあとD5142の牽引する普通列車に乗り鳥栖に向かう。
鹿児島本線の夜行に乗り鹿児島に向かった。
いつも貧乏旅だった。
今の茅葺撮影の旅も貧乏旅である。
人間贅沢ではガッツが出ない。すぐに諦めてしまう。
茅葺民家の撮影も苦労と根性が前提条件の旅である。
旨い物を食べ温泉にゆっくりつかりではやる気が湧いてこない。
曽野綾子さんが書いていた。クモ膜下出血で出筆活動が出来ず落ち込んでいた。
ある時、講演会でスケジュールが忙しく夜遅くまで食事がとれなかった。
空腹が続いたらいいまでの死にたい願望が消え生きる願望が湧いてきたという。

根性と我慢の必要な旅には贅沢は不要だ。自分を追い込んだ方が感性も冴えわたると思う。

蒸気機関車の夜汽車はやたら寂しい。古ぼけた木枠の椅子と車両、薄暗いランプ、煙の臭い。
哀調のある発車のベルと汽笛、電子音にない音である。発車のドラフト音、ドレンやシリンダーやクランクの音、ガチャンガチャンと連結器の伝わる音
子供の頃から聞きなれた時代おくれの昭和の音でもある。

機関車は冷水峠をゆっくりゆっくりと登る。
九州の大畑も冷水も宗太郎も撮らずに私の蒸気機関車の旅は終えた。




懐かしい物 下津井電鉄

2016年05月12日 | 懐かしい物
下津井電鉄昭和47年に茶屋町と味野(児島)が廃止された。
廃止になるので一年位前から訪れているようだ。
しかし、そんなに熱心には撮っていない。
各駅を撮るとか 各ポイントで撮影するような事はしていない。
廃止になるからとりあえず行ってみたという写真だ。
デッキの付いた電車が面白い。ここは荷物置き場だったのだ。女性の車掌も乗っていたのだ。
国鉄にはデッキのついていた電気機関車が走っていた。EF15型だった。古臭くて懐かしい。
だれからも惜しまれる事なく去っていった。

私は生まれて2万5千日は生きている。
これに費やしたのは6時間撮影に行ったとして人生の10万の1の時間である。
この10万分の1がなかなか出来ない。

撮影に行ったといってもこの程度である。
毎日趣味に1時間40年間掛けた人は15.000時間にもなる。
人生は小さな時間の積み重ね。
人生は軽々の損という言葉があるが無為に過ごす事が大きな損になるとの戒めであろう。


茅葺民家 京都府旧京北町の民家

2016年05月11日 | 茅葺き民家
田植えのシーズンに茅葺民家の撮影に行く。
茅葺民家は四季折々の風景を残さないと日本の風景の良さが分からないととおもう。

春と秋が中心で寒い冬と暑い夏はの写真は無しが多い。
冬は曇り空や山間部は雪もあるので年寄りは安全第一でいかない。冬場は太陽の角度が低く裏側は陰になるので春分の日までお休み。夏場は暑いしコントラストが強すぎて軒が陰になる。

田植えの水田の風景はアジアモンスーン気候の風景でもある。
日本人には珍しくもないが欧米人には新鮮に写るそうだ。
テレビ東京系列でYOUは何しに日本へという番組がある。
外国人が日本の良さを教えてくれる。自分たちは当たり前の事と思っても外人には新鮮に写る。撮影のヒントにするため番組を見る事にしている。

京北町は現在は京都市に編入された。京都市内の観光客の多い喧噪から峠を越えれば京北町の長閑な田園風景に出会える。

日本茅葺紀行 NO,290 大阪府能勢町の民家 

2016年05月10日 | 日本茅葺紀行
大阪府に茅葺民家が残っていたとは想像もできなかった。
それでも茅葺民家の本を何冊も発行されているプロの写真家の佐野さんは昭和47年頃に神戸や能勢町を訪れている。
その頃から知っている人は茅葺民家が沢山あるのをしっていたのだ。
私はそのころは鉄道しか興味がなかった。
しかし、鉄道の写真で魅力のある蒸気機関車は風前の灯であった。
次のテーマを探すため民家や町並みの新聞記事をスクラップしていた。
その記事によると京都美山町には600軒の茅葺民家が残る。神戸の周辺には1000軒の茅葺民家が残っていると書いてあった。私は免許も車も持っていなくて撮影に行くことは不可能だった。
関心のある人は撮影にでかけたりしたのであろうがほとんどの人はそんな事にも関心を持たず日々くらしたのであろう。
高度成長期で大阪万博や未来志向に国民の関心は向かっていた。
しかし、高度成長の歪や公害が日本に蔓延して古きよきものが見直された。

私は子育てや自分の生活に精一杯で趣味の写真が出来るようになったのは中年になってからである。

中年になってから一般道で能勢町までは 通ったが遠かった。それでも何回か通った。大阪府に40軒以上残っていたのには驚きだった。
写真の民家はすでにトタンをかぶっている。



昭和の遺物たち 看板のある風景1 ちちもみ

2016年05月09日 | 昭和の遺物たち写真展
倉敷市の路地にチチモミと書いてあるカンバンがあった。
昔なら按摩ちちもみであるが昭和48年ではマッサージちちもみになつていた。
子供の頃の記憶がよみがえる看板だ。
乳母車に子供が乗っている。お母さんの乳の出が悪いのかマッサージを受けているのだろうか。
今ならば産後ケアーは産婦人科で看護師さんがやるのであろうか

昔は路地の中にも仕立て屋なんか職人さんが住んで仕事をしていた。
洋服は青山やはるやまのチェーン店にとってかわった。

今思えばこんな看板や路地の店の写真も時代の証言者になるのだ。
飲み屋街など場末の風景も面白かったとおもう。
看板シリーズや路地シリーズ、場末シリーズ、そのうちに消えるもの、古ぼけてもの
時代遅れの風景に懐かしさを覚える。自分を何か見ているようでもある。
しかし、足しげく通わないと撮れない。歩いて歩いて足で撮る。

麹屋さんの看板、軒下に糀の看板が見える。 岡山市妹尾




リメンバー茅の里 広島西部

2016年05月08日 | 茅葺き民家
ゴールデンウイークに広島西部に茅葺を撮りに行く。
リメンバー茅の里は以前撮影した茅葺民家を訪ねる撮影記です。
今も茅葺民家は残っているのか、どう周囲の風景が変わったのかを見届けるために訪れる。
新規に茅葺民香を見つけるのは難しい。数もどんどん減ってくる。しかし、カメラは年々性能画素数は良くなってくる。
新しいカメラになると撮り直しである。
数軒撮るために高速代ガソリンを使いアホな事を死ぬまでやり続けるだろう。

ゴールデンウイークとはいえ高速道路が渋滞で混むことはない。東広島の八本松トンネルは大きな事故でいまだに渋滞気味である。今回はここを通らず尾道松江道で三次まで行き中国道で吉和インターまで行く。尾道松江道は現在無料である。無料の間に出雲まで行ってみたい。

吉和にまだ茅葺民香が残っているのをネットでみた。10年以上前に撮ってから行っていない。
まだ残っていた。奥さんがいたので話を聞く。インターの降り口にマムシ注意の立札があった。マムシ、熊、イノシシの出没を聞く。
マムシは棲むところが限定的で青大将やシマヘビのように移動しない。マムシのテリトリーがあるようだ。熊猪はよく出るので犬を放し飼いにして番をさせている。

中国地方では広島島根の中国山地が熊の一番棲息している地域だ。天然記念物のオオサンショウウオの棲息地でもある。
オオサンショウウオは90%が中国地方に棲息しているそうだ。

吉和から戸河内に移動して三段峡の上の小板集落に行く。まだ三軒残ってくれていたのは有り難い。
最初に訪れた時は六軒あったと思うが三軒は解体したり建て替えられていた。

以前と比べて別荘が増えている茅葺民家の隣も何軒も別荘が建っている。
ゴールデンウイークだったので別荘には車が停まり材木を切り薪作りをしていた。

茅葺民家の脇には以前は熊出没注意があったが無くなっていた。





熊本を応援するためくまモン帽子の女性





岡山の茅葺民家 旧北房町の民家

2016年05月07日 | 茅葺き民家
旧北房町を茅葺民香を探してウロウロ
やっと一軒見つけた。
平成になって茅葺民家なんか探してももう遅い。そんな事とっくに分かっている。
だが、もし茅葺が残っているのに探しもせず撮らずに家がなくなったら悔しいたろう。
一生悔いが残るよ。
人生はやるだけはやってみないとわからない。
やる前から諦めるのはよくない。

平成になっても茅葺民家がどれほど残っているのか整理した人はだれもいない。
これだけ残っているよ、ここに行けばあるよとガイドブックや資料がないと行動できないので人生面白くない。
趣味は自分でガイドブックを作る事である。
他人の作ったものを持って撮影に行ってもコピーを作るだけである。

家内が言った。あるかないか分からない茅葺探しを情熱をもって何でできるのか
アホ臭いと思う機能が脳に欠落しているのではないかという。
そんなことはない毎回アホくさいと思いながらやってきた。
人生生きるのも苦しい事、辛い事ばかりその中に楽しい事があれば幸せを感じる。
趣味もアホらしいことの積み重ね。しかし、他人を見てたらアホらしい事をコツコツ飽きもせずやり通した者が勝ちやな。

杉の間伐材 一本100円だって 10年も15年も育ててたったの100円
大根は四か月で大きくなり100円で売れるのにと言っていた。

茅葺民家 新潟県旧大島村

2016年05月06日 | 茅葺き民家
大島村も上越市に編入された。上越市がやたら広くなった。
大島村はほとんど山の中、田はほとんどが斜面の棚田である。
今も茅葺が残る。棚田の撮影する人は早朝からカメラを構えているようだ。
棚田マニアとは時間帯が違うので会った事はない。しかし、撮影ポイントの雑草は踏み倒されて人の分け入った痕跡が残っているので分かる。
大島村へは早朝早くにでれば15時頃から撮影ができる。しかし、民家にとっては夕方の光線は悪い。かえって曇り空のほうがよい。

この時は高柳町から山中の細い道を尾根伝いに走る。途中に民家を捨てた集落もある。
豪雪地帯であり子供や孫は故郷を捨てたのであろう。
茅葺民家の前でもみ殻を焼いている女性がいたので撮影させてもらう。
こんな懐かしい民家と暮らしを探すのが私の旅である。
筋書もない出たとこ勝負の旅である。探すのも自分の目と勘しだい。
子供の頃の懐かしい昭和の光景を今も追い続ける。





日本茅葺紀行 NO,289 岩手県旧大野村の民家 

2016年05月05日 | 日本茅葺紀行
大野村に最初に行った時はまだ現役で働いていた。
旅行行程も少なく大野村には数時間滞在しただけだった。
次に行った時は五年が経過していた。
茅葺民家の状況は著しく悪化していた。
最初に行った時は秋の夕暮れで三脚もなくいい写真はすくない。
しかし、風景は素晴らしかった。
20年前の昭和の風景だった。
まだ人が暮らす家も残っている。
青森岩手は旧の南部藩の領域である。
同じ青森でも津軽とは明らかに形が違う草棟である。草棟は胸の雨仕舞に杉皮と土を置き草などを植えている 
茅葺仲間では草棟の茅葺は危機に瀕している。いち早く撮っておかないと今に無くなるとはなしている。

こちらの人はレンゲつつじを庭に植えている。赤花が見える。
山に沢山自生している。レンゲつつじは我々のところで生えている。
毒があるので動物に食べられない。
長野の霧ヶ峰など牧草地だがレンゲつつじは大株で残り初夏に一面赤く咲いている。




昭和の遺物たち 古い店 その2

2016年05月04日 | 昭和の遺物たち写真展
倉敷市下津井の古い民家の店屋
なまこ壁、漆喰に本瓦の重厚な民家である。
民家で本瓦の地区は大阪から広島の瀬戸内沿岸、四国香川、徳島に限られている。
岡山も南部が中心である。
雪国は雪掻きでずれるのと重さで本瓦は使われなかった。
日用品を扱う店屋だった。
お婆さんが店番にいてアイスキャンディを食べながら昔の話をしてくれた。
蔵にある昔の燭台などを見せてくれた。
引き出しから昔のはがき手紙を見せてくれた。
宛名が備前国下津井で来ていた。字は候文でまるで古文書であった。明治から大正にかけてのはがきがまだ江戸時代とかわらない。
そこで一歩踏み込み昔の道具や古文書を見せてもらい勉強すればもっと違った趣味の展開になっていたと思う。民俗学会などにに入会しておけばいろいろ勉強になったと思う。

店を撮影していたら氷の配達のおっちゃんが通りかかった。
冷蔵庫が家庭に普及したのはいつ頃か写真を撮ったころ昭和48年には家庭にあったと思う。
子供の頃は氷を使った冷蔵庫だった。
この氷は飲み屋か掻き氷に使うちめに配達していたのか
冷蔵庫は必要性が高くクーラーより早かった。3Cのカラーテレビ、クーラー、カーが言われ出したのはこの頃か 通勤電車にクーラーが山手線にはいったのが昭和47年

冷蔵庫のない時代はどこの町にも製氷所があった。冷媒にアンモニアを使っていた。
これがフロンになってから冷蔵庫もクーラーも飛躍的に伸びた。
フロンは炭素、水素、フッ素、臭素の化合物で日本だけの名称です。正式名称からフロンを造語している。
正式名称は化合物により違うがクロロフィルオロカーボンやハイドロクロロカーボンです。
小難しい名前ですかが原料のガスや化合物を並べただけです。クロロは塩素 フィルオロはフッ素化合物、カーボンは炭素