懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

昭和の遺物たち 農具 その1

2016年02月19日 | 昭和の遺物たち写真展
今回から三回にわたり農具をお送りします。
茅葺民家を訪ね歩いている時に出会った農具を紹介します。
今回は藁で編んだ農作物などを入れ運ぶ「もっこ」をお送りします。

まだ現役で使われているのが嬉しかった。
プラスチックが開発される前は自然の素材を利用して袋や紐を作っていた。
藁や麻、棕櫚、菅すげ、茅、竹などを利用していた。
それも買うのではなく自分で作っていた。

農作物を担いで運んでいたのでそこを撮影ささせてもらう。倉庫の軒先にあったモッコも撮影させてもらう。

茅葺民家を撮るという行動がなければ他人の家に立ち入れないし会話もできない。
自分の人生においても見知らぬ家に突然お邪魔して民家や農具を見せてもらうのは刺激的だった。
観光地や温泉巡りで味わえない達成感があった。
良くも悪くも自分の行動と目と会話で成果が決まる。




蒸気機関車 伯備線車窓

2016年02月18日 | 蒸気機関車
伯備線の蒸気機関車の中から撮った写真があった。
デッキから撮ったのか車窓から撮ったのか分らない。
鉄橋を渡る風景や茅葺民家の風景を撮っている。

民俗学者の宮本常一氏の本を図書館で借りて何回も読んだ。
汽車の車窓から撮った写真が多い。
民家や集落、地割や地形も撮っている。
我々は蒸気機関車を1/250のシャッタースピードで撮影して静止させているので汽車の中からも外の風景をとれば静止して撮れる。
昔は窓が開けられたので冬場以外なら撮影できた。

鉄道の橋梁や高架の基礎は道路に比べて細い。
新幹線もあんな細い柱で支えるのかとおもう。阪神大震災で新幹線も大きな被害を受け補強した。あの時は始発前で幸い転覆事故はなかったが日中ならば悲惨な状況になっていた。
鉄道はレールの上を走るので荷重の掛かるのがレールの周辺だけを考えればよい。
道路は車が路面上を好きなように走る。しかも交通量が多いので頑丈に造っているのか。

鉄橋を渡ってる写真、転落しないかと怖い。強風で余部鉄橋から転落した事故、レール走行の怖さである。貨物列車だったので乗務員より下の民家の住民が被害者が多かった。
あの時から強風時走行は運行停止の基準がてできた。


岡山の茅葺民家 岡山市の茅葺民家

2016年02月17日 | 茅葺き民家
岡山市の西部、総社市に隣接するところにこの茅葺民家は有った。
近くに国道429号線が走っていた。通るときに何度か撮影をさせてもらった。
茅も痛んでなくて当分は茅のままだろうと思っていたらトタンを掛けていた。

「いつまでもあると思うな金と茅」である。
思い立ったら面倒がらずすぐ撮る。撮る時はいろいろな角度から前から後ろから丁寧に撮る。
茅が痩せてみすぼらしくなってトタンを掛けるのではなく屋根がしっかりしている時にトタンを掛けるほうがいいのであろう。

トタン掛けは茅葺の写真を撮っている者には残念だが住人には都合がある。
カメラマンは茅葺を維持するのにお世辞は言ってくれるが費用はだしてくれない。

「茅の維持、口はだしても金ださず」である。

〇○ファンは勝手なものだ。
人気がでたり無くなると寄ってくるがブームがさると寄り付きもしない。

茅葺もある時にしっかり撮っておく。すくに5年10年経過する。

茅葺き民家  佐賀県の民家

2016年02月16日 | 茅葺き民家
撮影場所 佐賀県武雄市、北方町

20年前には佐賀県には沢山茅葺民家があった。
出会う茅葺民家をひたすら撮った。場所の明確な記録もない。
あのあたり程度のものだった。
沢山あった茅葺もいずれはなくなるだろうの思いはあった。
次はいつ来るか分からない、その時に残っているかどうか撮るならば「今でしょう」と思った。
小難しい事は考えずただ撮った、とりあえず撮っておくことである。
利用活用方法はあとで考えればよい。
フィルムはモノクロ一日10本カラー5本を目安にもっていった。
蒸気機関車の頃は一日5本くらいでケチケチ使った。一週間の撮影で35本くらいしか持っていかなかった。
デジタルカメラだと1000円のカードで600枚も撮れる。しかも再利用できる。
三日の撮影にフィルム代と現像代に三万円から四万円かかっていたのがカード二枚ですむ。
有り難い時代になった。

そんな茅葺民家も目に見えて減ってきた。
電車や有名な建造物ならば無くなるとなると人が押し掛けるが茅葺民家は個人の持ち物なのでいつの間にか消えていく。

写真の目的の一つに記録写真がある。時代を見届けるため目的物を撮っておくのものである。
若い頃に撮っておけば晩年になって時代の変遷を感じ取れる。
私は今も撮り続けている。定年後は活動する時間はたっぷりあるが時代の変遷を確認するまで命が残っていない。
孫や子、他人など後世に残し興味のある人への贈り物なればいいが。


日本茅葺紀行 NO,272 秋田県旧鳥海町の民家

2016年02月15日 | 日本茅葺紀行
鳥海町や矢島町、羽後町は茅葺民家が残るので何度も足を運んだ。
茅葺民家が無ければ訪れない土地である。
鳥海山は火山のため温泉はあるようだ。
鳥海山の国民宿舎に泊まった時に温泉に入った事がある。匂い泉質とも温泉に違いない。
鳥海町は温泉マニアか登山客でないと西日本の人は立ち寄らない。

温泉巡りも兼ねた茅葺き民家の探訪ならば楽しいことであろう。
私は温泉には入れないので家内は出来るだけ立ち寄ることにしている。
こんな楽しみくらいないと茅葺探しだけでは楽しくない。

この茅葺民家は国道脇にある。撮影する人も沢山いることだろう。
曲り屋で余計な障害物もなくいい家だ。
この日は山から切り出した木材を積んであった。何に使うのか薪か木材加工か
曲り屋を東北で最初見たときは必至に撮ったが何度も撮っている間に感動が薄れてきた、
当たり前のように思うのが怖い。
感動が薄れてマンネリ化するのが継続するため一番いけない事だ。

昭和の遺物たち 農作業 干す 3

2016年02月14日 | 昭和の遺物たち写真展
撮影場所 岩手県久慈市

秋の収穫時期だった集落を訪れた。
稲や雑穀を干していた。作業を撮影できるのもこんな時期
雑穀を干すのを見てやはり東北だと思う。冷害で米をを作るのは厳しいが雑穀は寒さにつよい。
東北の集落にあった栗の木で作られた干場
こんなのは昭和の遺物だと思った。
昔のように物を干さないし邪魔になると知らぬ間に撤去されそうだ。

時代を生きてきた渋いものを探すのが茅葺探索の楽しみである。




岡山の茅葺民家 旧勝北町の民家

2016年02月13日 | 茅葺き民家
県北には少し雪が降っていた。
勝北町から加茂町を走る。

写真の民家は加茂町に近い。
この地域は加茂町の小学校が近いのでそちらへ行くそうだ。
この上流にダムを建設していた。
ダムができると集落の一部は移転をせざるを得なくて集落が衰退する。
ダムの上にあった集落はダムで寸断されますます縮小していく。
現在はただでさえ収縮していく集落は存続が厳しい。

茅葺の撮影をしながら集落の写真をとっていれば移り変わりがわかるが自分が生まれ育った土地でもないのにフィルムを使ってまで記録しない。

この集落に何軒か茅葺きがあったがそれも消えた。
消えたまでは確認したがそれ以降はどうなっているか1わからない。

だんだん衰退していく山間地の集落、なんの対策も打てずに消滅するのか

茅葺き民家 京都 旧京北町茅葺民家

2016年02月12日 | 茅葺き民家
京北町は現在でも茅葺民家が残る。
京北町のカラー写真がほとんど残っていない。
昨年久しぶりに美山町に行く前に立ち寄ってみた。

しかし、過去の記憶がなくなり茅葺のあったところが思い出せない。
古い地図はもう捨ててしまった。20年も経過すると地図も高速道路もできき様変わりする。

撮影した茅葺民家はナンバーリングして台帳しないといけなかった。
一緒に写真を貼り解説も加える。
すぐにしないと後でやると忘れる。これは反省事項だ。

京北町に茅葺があるのは美山町から京都市内に移動するときに残っているのがわかった。
端正な民家と山里の風景は落ち着くものだ。
ほとんど杉の山であるが住民の人に杉花粉の被害者は多いのか、それとも抵抗ができて健全な人が多いのか聞いてみたいものだ。


日本茅葺紀行 NO,271 広島県旧大和町

2016年02月11日 | 日本茅葺紀行
大和町には結構茅葺があったが今は激減して撮影効率が悪い。
それでも茅葺民家は定期的にカメラを持ち撮影に行かないと感性も錆びるしカメラも動きが悪くなる。それと家に籠りぱなしになっているのでたまには外の風景を見て刺激を受ける意味もある。
茅葺民家も十分撮ったと思うが満足のいく写真が撮れていない。
一杯写真を残しても何十年も管理してくれるとなると疑問である。
現在の写真は電子情報でしかも膨大な数の写真でいつ消えるがわからない。
10年ごとにハードディスクやDVDへの書き込み更新をしてくれるかどうか子供や孫に申し送るのは酷である。
その人一代で終わる資料である。
生きている間は気晴らしにカメラを持ち観光旅行もかねて撮影しようとおもう。