狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

寛容さに関するネタをいくつか

2018-07-17 10:46:59 | Weblog
先ほど視たネタ話。
自転車で幅寄せをしてくる小学生の集団が居た。 筆者は無視をしていたがある日小学生の女が彼らの被害に遭い田んぼに落ちたと。 それをみたその幅寄せ小学生たちは喜び、そして近くに居た筆者を次のターゲットだと言い合っていたと。 察した筆者は自分から幅寄せを敢行。 予想していなかったその糞ガキ集団は次々と転倒。 「危ないからするな」と諭す筆者に彼らは半べそ状態で謝罪しもうしないと誓ったので筆者は許したと。
私がここに見る寛容さは、放置する事、怒らない事ではなく、もうしないだろう事を見て許した点。 私に言わせれば糞ガキを叱らないのは優しくなんてない、無関心なだけなのだと。

新幹線だかの話。 子連れの母親が乗ったところでその子供が「乗りたくない」と騒ぎ続けたのだそうな。 近くに居た男が「うるさい」と言った所その子供は黙ったと。 これにつき、ツイッターだったか?その母親のフォロワーたちは「不寛容だ」と訴える母親の側に同情的共感的だったそうな。 だがこの話が取り上げられたネットの反応は逆だった。 「叱ってもらったのだろう?」と。 「ダダをこねていた子が躾けられたのなら感謝するべきでは」と。
私は躾という言葉は嫌いだが、この話の男は母親にも子供にも、別に酷い事をしたわけではない。 うるさくしている子供に「うるさい」と言っただけである。 そしてその子供は社会を知ったがその母親はその男のした事を恨み、自身に同情を集めようとした。

私は喫煙者が寛容さを要求するのはおかしいと思っている。 というのも、彼らはマウンティングとして喫煙を開始している。 これ「マウンティング」を「嫌がらせ」と置き換える。 すると彼らの要求する寛容さとは「自分たちはこれからも不特定多数の人間に対して嫌がらせを継続する。 これを許容する事こそ正しい」といったものとなる。 マウンティングを嫌がらせとするのは間違っているとは思わない。 両者の間にはそれをする当人の目的意識と人間関係の認識に若干の違いがあるだけで、結果は同じになる。
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