狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

食肉を考えてみる

2017-10-09 21:35:35 | Weblog
一般的なカイコの一生を、カイコの側から見るとどんな感じになるだろうか。
1 動ける
 (孵化前から一令幼虫時代のどこか)
2 食べる
 (幼虫時代)
3 むず痒い
 (脱皮)
4 葉っぱだ
 (幼虫時代)
5 いっぱい食べる
 (幼虫時代)
6 なんかむずむずする
 (蛹化)
7 寝る
 (蛹)

といったところだろうか。 そしてこのどこかに、「手だ」「人間だ」「自分たちは愛されている」が入るか入らないか、といった次第。
さて、こうした事を書くと「昆虫は愛など感じない」「人を物体としか認識しない」などと思われる方も多いと見る。 それを言ったら人の言う「愛」もはたして真実なのやら、といった話になるわけで。
話を戻そう、大半のカイコは蛹で最後である。 仮にもし生糸を取られたカイコにその後「最後どうだった?」と聞く事が出来たとしたら、なんと答えるだろうか。 私は「いや、気が付いたらこうなってた」か「寝てたらめちゃくちゃ熱くなった」だと思う。

釣り、魚釣りや漁は悪だろうか。 殺生、生物が傷つく形の娯楽を悪だとするならばこれらは悪だわな。 ただしこの「殺生悪」理論を突き詰めると生物すべてが悪であるとなりまた逆に、殺生は悪からの解放なのだ、となる。 何が悪なのか、というと個人では、自身の良心に反する事であり社会では、社会の健康な状態を損ねる事であり人間関係では、他社の状態悪化を願いそれを行動に移す事である、となる。 こうした「悪の基準」を成立順に書くと、個々人の健康、個人集合体としての社会の健康、前者のいずれかを害そうとする行動、である。 これを漁業に当てはめるに二種類の考え方がある。 一つは魚個体を人間個人のようなものだと類推するもの、もう一つは漁業社会の健康、といったもの。 殺生云々の倫理は前者だが、そこから出る結論は生物は皆悪、といったもので、突き詰めると大した意味は無い。 頭を掻けばシラミが死に、寝返りを打てばダニが死ぬ。 植物の生にもそうした面が多々あり、ヴィーガンは偽善でしかない。
食べるための殺生は悪ではない、といった基準もある。 人間社会の基準としてはこちらの方がより健康的と思われる。 妥協点でしかないようにも見えるが、現実の社会と矛盾が少ない。
「好きだから殺さない、殺させない」といった、倫理観のようなものもある。 私はこれを子供のたわごととする。 全てを好き、というのでなければ嫌いなものは死なせて良いとする価値観と同等であり、こうしたものを社会の基準としたならばそこは遠からず破綻するだろうよって、「たわごと」と断じる。 「誰かしら好きになるだろうその人が」と思うかもしれないがそうなってしまった社会にあって私は、ミミズの守護者でありヘビの守護者であり、ハエ、カ、ゴキブリの守護者であるとなるだろう、好きでそうするわけではないがそうするより他無く、そして私が真っ先に破綻するだろう。 どうにもならん。
釣り、魚釣りは悪かどうか。 魚を殺す事を悪とするならば食料採集を目的とした釣りは悪である、となり、生き物を害する、生き物で遊ぶ事を悪とするならばすべての魚釣りは悪である、となる。 一方、「食の殺生は悪ではない」とする倫理ならば食のための釣りは悪ではなく、同様に、自然界のあり様の多くが悪ではないとなるが、スポーツフィッシングは悪である、となる、というのも、そうした行為で魚を死なせる危険はゼロにはならない。

魚にとっての幸せとはどのようなものだろうか、といった話は自然と、霊の話につながっていく。 というのも、意思を確認できないモノに対してそれを仮定したものが霊の概念なのだから。 まあ魚の場合は、対話は無理だとしても脊椎動物なのだからなんらかの意思、自意識くらいあるだろうというのが一般論であり、ペットオーナーの観察報告や動物学者の研究例も多々と。 魚の健康は獣医の専門分野として成立しうるし、不幸な魚は不健康になるだろう。 こうした話の一方で、不健康な魚が不幸とは限らない。
健康不健康を目安としよう、魚に幸不幸があるとするならばその判断基準は
・健康で居続ける条件が整っているにも関わらず不健康な状態へと移行する魚は不幸を感じているのだ
・不健康な状態へと移行しないならばその魚は、当面は自身を不幸だとはしていない

こんな感じ。
こうした基準に、「自然界でのありふれた魚の最期」といったものを比較対象とすると、釣られた魚がそれよりも不幸でなければ善悪の観点からその釣り行為は許容範囲である、とする結論を出す事が可能になる。 これを一言で言い表すなら、魚に対する敬意、といったものになる。 同一ではないが、釣る側の人の精神の在り様としては近いものがある。

釣りは悪かどうか、をまとめてみる。
1. 釣り人に、魚の生に対する尊重がある
2. 釣り人の行為がある程度、生態系に配慮したものとなっている
3. 釣りが他の人の社会活動を過度に圧迫する形になっていない

表現を変えると「魚に対する敬意」、「自然を荒らさない」、「社会秩序が保たれていて尊重されている」となる。 これらが守られている場合の魚釣りは、悪ではない、とする社会の方が、そうではない社会よりも、より健康だろうと推測する。

近年気になっている事がある。 私が「駄目な側」とする社会の側の人たちの多くが、どういうわけだか食べ物を無駄にする行為を好んでするようなのだ。 日本の例で最近話題になったものだと一部の女が、寿司屋に行って寿司ネタ、上に載っている刺身などだな、だけ食べて、シャリ、下の酢飯だな、を残す事を周囲にアピールしているらしいのだ。 彼らに食に対する敬意があるかというと当然、ノーだわな。 彼らがそうした行為を好んでする理由、広めようと喧伝するワケはどこにあるのだろうかと。 なんとなく、倫理的な社会に対する復讐心、それとなにかこう、踏み外す人を増やそうとする道連れ心理のようなもので動いているんじゃないかなと見る。

さて食肉全般に話を拡大する。
少し前に、「カイコ蛾が不幸に見えない」と書いた。 ある種の幸せの、一つの形なのではないかと。 今回の冒頭の考察もその発展形。 愚にもつかないと取る人も居るだろうそれはそれ。 乳牛や肉牛は幸せか、なら多くの人が考えた事があるだろうテーマであり、動物愛護云々を考える上での基本でもある。 ひょっとしたら動物の幸不幸と無関係に動物愛護活動をしている人も少なくないかもしれず、それはそれで分析テーマになるかもしれないがとりあえず、「この人はそういう人かもな」といった実例が思いつかない都合扱わない。
肉食は善か悪か、といったといった問いかけには、食の殺生は悪ではないとする方が自然界との矛盾が少ない、とするのが答えとなり、畜肉産業は悪か、といった問いかけには、その社会の畜産関係者の家畜に対する敬意、生態系及びその社会を圧迫していない事、といった基準、それと個々には家畜自体の健康状態から察するその個体の幸不幸、といった判断で悪質ではない、となるならば悪ではない、とする方がその社会がより健康的だろう、となる。
ただこうすると、「ブロイラー肥育には経緯が感じられない」といった私見となる。 これについては、その社会の健康状態を追って観察する、私見を文章にして反応を見る、といった対応になると思う。
ただ、「ブロイラーは不味い」といった感覚も無いんだな。 スーパーの肉自体からは「美味しいよ」といった、アピールを感じると。
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