狸喰うモノ牛愛でるモノ

アラフは扇動者、教育を知らない

身内社会について

2010-05-26 17:37:11 | Weblog
うなづけぬ
心のうちに
うなづいた
そうする訳に
気遣いを見る

世のキリスト教徒はアダム氏を罵り続けている。
曰く、背きやがってと。 知恵の実なんか食いやがってと。
これってどうなのかなと思うわけです。
だってアダム氏を幸せにしたかったわけでしょう?
それなのに彼は死んでなお罵られ続けている。

さて身内社会について。
今回の旅行で鹿児島、奄美大島、徳之島と回ったわけだ。
どんどん田舎になっていく。
歩く中で思った。
これって個室なんじゃないかと。

少し前に戦争の、争いごとの無い状況の一つとして
全員が個室にいるという状況を考えてみた。
なるほど田舎とは身内の個室である。
そこにそれなりの平和がある。
都会は逆に、他人の大部屋ということになる。

身内社会。
それはそれで、平和の形の一つなのだろう。
だが問題がある。
身内社会では悪人を処理しきれない。
村八分にするか社会制裁を加え続け事件に追いやるか、
または都会に追放するしかない。
さらにはそこでの悪とは生産性や加害性を基準としたものではなく
身内社会の中心にまします権力構造が任意に悪と判断したものだ。

身内を絶対とするならば個々の身内社会で「身内的ではない」とされるものが
悪と認識される。
ジャーゴンが方言化する程度を悪習と認識する人は少ないだろうが
みかんよりりんごが好きだと言われたらりんごが好きだと復唱しなければならない、
そういった行動が行き着くのは黒いものでも白と言わなければならない社会だ。
因習は身内に積っていく。

さてどうするかなのだが、どうもしない。
田舎は消える。
同意しなければならないという強制、いわゆる同調圧は、ほどなく悪となる。
それだけのこと。

問題を出す。
多数派に同意する傾向のある人を右派とすると
同意しない傾向のある人はなんだろうか?
コメント
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