18もあった松平家
反家康武将3番手は、桜井の松平、松平監物家次です。松平といえば、家康もこのときは松平です。どうして同じ松平であるのに、敵味方になっているのか不思議です。この時代には既に松平が三河にたくさんあって、1886年発行の「改正三河後風土記」では「十八松平」と呼ばれています。いずれも、一つの松平家から分家したものです。
十八松平の系図
宗家争いをした桜井松平家
図からわかるように、家康の時代までにたくさんの松平が分家しています。桜井松平家は、家康の曽祖父の兄弟から分家しています。松平家次の曽祖父信定は、清康がいわゆる「守山崩れ」で家臣に殺されたのを機に宗家を自分に奪取しようと試みましたが、失敗しました。宗家に対する対抗心は、孫の家次まで引き継がれましたが、家次が一向一揆で家康に負けると、家康に忠節を誓い、以後家臣として働くことになりました。
多くの松平は家康側に
この図で家康側として「松平記」に記されているのは、竹谷、形原、五井、長沢、深溝、藤井、福釜で、大草松平直勝は一揆側についたとなっていますが、どうやら間違いのようで、大草松平は松平昌久で一揆側につき、松平直勝は佐々木城の城主で、家康側についています。他の松平氏については一揆が領地で起こっていないのか、記述がありませんでした。
桜井城は公園に
現在桜井城は公園になっています。入り口のすぐ左側に塚があり、そこに「桜井城址」という石碑が建てられていました。
桜井城石碑
また、入り口には木の門がありました。これはどこかで見たぞと思ったら、東条城とそっくりでした。
桜井城 門
東条城 門
桜井松平氏歴代当主の墓
次に、この公園の左側を見ると桜井松平氏の歴代当主の墓がありました。
墓の全体の様子
墓の囲いの中の様子(右から、信定、清定、家次、忠正、忠吉、家広の墓)
反家康武将3番手は、桜井の松平、松平監物家次です。松平といえば、家康もこのときは松平です。どうして同じ松平であるのに、敵味方になっているのか不思議です。この時代には既に松平が三河にたくさんあって、1886年発行の「改正三河後風土記」では「十八松平」と呼ばれています。いずれも、一つの松平家から分家したものです。
十八松平の系図
宗家争いをした桜井松平家
図からわかるように、家康の時代までにたくさんの松平が分家しています。桜井松平家は、家康の曽祖父の兄弟から分家しています。松平家次の曽祖父信定は、清康がいわゆる「守山崩れ」で家臣に殺されたのを機に宗家を自分に奪取しようと試みましたが、失敗しました。宗家に対する対抗心は、孫の家次まで引き継がれましたが、家次が一向一揆で家康に負けると、家康に忠節を誓い、以後家臣として働くことになりました。
多くの松平は家康側に
この図で家康側として「松平記」に記されているのは、竹谷、形原、五井、長沢、深溝、藤井、福釜で、大草松平直勝は一揆側についたとなっていますが、どうやら間違いのようで、大草松平は松平昌久で一揆側につき、松平直勝は佐々木城の城主で、家康側についています。他の松平氏については一揆が領地で起こっていないのか、記述がありませんでした。
桜井城は公園に
現在桜井城は公園になっています。入り口のすぐ左側に塚があり、そこに「桜井城址」という石碑が建てられていました。
桜井城石碑
また、入り口には木の門がありました。これはどこかで見たぞと思ったら、東条城とそっくりでした。
桜井城 門
東条城 門
桜井松平氏歴代当主の墓
次に、この公園の左側を見ると桜井松平氏の歴代当主の墓がありました。
墓の全体の様子
墓の囲いの中の様子(右から、信定、清定、家次、忠正、忠吉、家広の墓)