愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

松平記(9) 松平記

2022年01月14日 15時56分50秒 | 松平記

松平記p9

翻刻
平三左衛門(松平忠倫)ハ、弾正(織田信秀)と一味ゆへ、いまた岡崎へ別心にてつ
くも(わ?)り渡りと云所に取手を取、岡崎へ向て合戦有。さる程
に御一門衆も日来内膳殿と入魂の衆ハ面目をうしなひ
座鋪へ出ても末座に居、今度骨折仕て殿を引入申たる大
久保、阿部大蔵なんとハ出頭し、各々物いひ出来て、酒井左
衛門尉(忠次)ハ御縁者なれとも此頃殿に恨出来、大原左近右衛
門、今村伝次郎と御同道被成登城有。御訴訟有しハ石川安
藝守、酒井雅楽助に切腹被仰付可給、此両人に恨有と御申
候得共、廣忠用給ハす、是により両三人御逆心被成、三左衛
門殿一味被成候也

現代語
佐々木松平三左衛門忠倫は、織田信秀の味方なので、未だに岡崎に反抗し、つくもり渡りという所に砦を作り、岡崎(広忠)と合戦をした。さて、松平一門衆の中でも日頃松平内膳信定と仲よくしていた者は面目を無くし、座敷でも末席に座った。今度骨折って廣忠殿を岡崎に引き入れた大久保や阿部大蔵などは、おおいに物を言うようになった。酒井左衛門尉は親戚であるが、この頃恨みを持ち大原左近右衛門や今村伝次郎と一緒に登城している。家臣内で訴訟があり、先の三人は石川安芸守清兼、酒井雅楽助正親の切腹を廣忠に要求したが、廣忠は受け入れなかった。これにより、先の三人は広忠に逆心し、佐々木松平三左衛門忠倫の一味になった。

コメント
佐々木松平忠倫は、本文にあるように織田信秀と通じていたようです。「つくもり渡り」というのがよく分からないのですが、佐々木は矢作川のすぐそば(西岸)ですので、矢作川にかかる「渡り」ということだと思います。松平家臣団の中で、大久保。阿部らの発言権が増し、酒井左衛門尉、大原、今村らの意見が通りにくくなっている様子が描かれています。酒井左衛門尉と酒井雅楽助は同門でありますが、ここでは切腹を要求するなど、かなり対立が深まっていたようです。「松平記」は酒井左衛門尉ら三人が逆心したという展開になっています。松平家は大変な状況になっているようです。酒井左衛門尉は同一人物かどうか分かりませんが(父かも知れません)、後に徳川四天王の一人として家康を支える酒井左衛門尉忠次のことかも知れないのです。謀反を起こしていたのですか。

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