みどりの野原

野原の便り

10月27日 京田辺周辺 棚倉孫神社 甘南備寺 酒屋神社 息長山 観音寺(大御堂)・・

2020年10月27日 | Weblog

今日めぐる京田辺周辺は「平城京から見て平城山の後ろ」にあたる山背(やましろ)と呼ばれる地域。
古事記や日本書紀にも登場する。

山背南部は山背息長氏(やましろおきながうじ)の本拠地でもあり、息長帯比売(神功皇后)の生誕地?
息長氏・和爾氏の勢力をバックに琵琶湖 宇治川 木津川の水運に恵まれていた。

留守中に夫 仁徳天皇が八田皇女を宮中に入れたことを許せず、一生暮らしたという磐之姫の筒城宮もこのあたり。
帰化人の多い地で、磐之姫は父、葛城襲津彦の影響が強い帰化人集団が住む土地で、保護を受けていたらしい。
継体天皇の宮も存在していたという。

棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)
 
モチノキやケヤキの大木 木々に囲まれた棚倉孫神社境内   
「棚倉」というのは 湿気を避けるため棚を設けた穀物倉庫のことで、養蚕にも用いられていた。
『筒城(綴喜)は古来から渡来人による養蚕が盛んで、貴重な蚕が棲む倉を崇め神格化して祀ったのが興りとも言われる』

本殿は桃山時代・拝殿は江戸時代中期の建築、社務所は元神宮寺であった旧松寿院。絵馬殿や瑞饋神輿など見どころが多い。
瑞饋神輿(ずいきみこし)好きで、以前に何回も見に来たことがある。
秋の収穫を祝って、約30種ほどの穀物や野菜や乾物で飾られた瑞饋神輿は美しい。
明治中頃から始まったそうだが、昭和4年から中断。昭和53年に瑞饋神輿保存会により祭りが再興された。
以後隔年に大神輿を製作。(子供神輿は毎年製作)田辺区域を巡回されるという。

 
去年製作された大きい瑞饋神輿 屋根のズイキ(サトイモの葉柄)は萎び、色あせた感じはいなめないが、
神輿の壁や飾りや欄干他、細かいところまで張り付けた穀物や豆類などまだまだきれい。

 
今年製作された色鮮やかな子供用 瑞饋神輿。屋根の上の鳳凰も素晴らしい出来栄え。
この緻密なきれいさは言葉では表現できない。何回見ても感動する。

甘南備寺
かつては甘南備山の中腹にあった歴史の古いお寺。
行基の創建ともいわれ、最盛期には七堂伽藍が揃っていたという。後荒廃。
江戸時代に現在地に移転。現在は黄檗宗になっている。

 
      現在の山門        本尊は薬師如来坐像(薬師瑠璃光如来)木造 
頭部と顔は平安時代当初のものとされる。 脇侍の日光・月光菩薩立像は鎌倉~室町時代のものとか。

お昼は田辺公園で。

酒屋神社
灯籠の並ぶ参道を入る。
 
酒屋神社 現在の本殿は明治の再建 酒造を司った氏族の祖神を祀る。
                     右)樹齢200年のツガの木
社伝によると、神功皇后(気長足姫)が三韓遠征の際、この神社の山に酒壺を3個安置して出立。
帰国後、その霊験に感謝して社伝を創建したとも。 

古事記には応神天皇の時代に百済から酒造りの一族がやってきて、きれいな水がでるこの地に住み着いて酒造りを始めた。との記述があるらしい。
酒屋神社のある「興戸(こうど)」の地名は酒人(さこうど)から変じたものだという。

今日は寄らなかったが、近くには酒造りの神を祀っている「佐牙神社(さがじんじゃ)」があるそうだ。

継体天皇の宮がこのあたりにあったという。
楠葉で即位された継体天皇は都を筒城に移したとの日本書紀の記述がある。「宮のそばに、筒城の大寺があった」
宮跡として近辺に7か所の候補地があるものの、遺構は出ていない。

息長山 観音寺

 
      息長山 観音寺 別名は 普賢寺 大御堂 大御堂観音寺とも。 
天武天皇の勅願により、僧 義淵により創建された観心山 親山寺が始まりといわれる。
その後良弁が中興。後、実忠が入寺し、五重塔を建てたという。
法相宗・三論宗・華厳宗の3宗を兼ね「筒城の大寺」と呼ばれる大寺院になった。
その後火災などで時代とともに衰退。
その後再興された建物も焼失し、「大御堂」一宇を残すのみとなった。
本尊は十一面観音(国宝)

棚倉孫神社 甘南備寺 酒屋神社とともに 観音寺にも来たことがある。
その時に、たしかイソノキを見た覚えがあるなあと、探してみたが、わからず。
見逃したかなあ?

 
普賢寺川沿いにアメリカネナシカズラ  右)「日本最初外国蚕飼育旧蹟」の碑

解散となり、近鉄三山木駅から帰る。 

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