長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

MAマジックエンジェルほたる「魔術天使螢のファンタジックな冒険活劇」小説6

2013年09月30日 05時17分55秒 | 日記
知的探求心のおおせいな学生たちに哲学だとか文学だとか歴史なんかを教えて…世の中を変えてしまうほどの立派な教育者になりたいのよ。もちろん、そのためにはうんとうんとお勉強をして、誰にも負けない知識を養わなくてはダメでしょう?英語、フランス語、ドイツ語だけじゃなくて…もっといろいろな言語をマスターしなくちゃならないし…。とにかく、そういうことでお勉強をしてるって訳なのよ」
 有紀はスラスラと微笑して言った。二人組は目を点にして、やっと尋ねた。
「英語、フランス語、ドイツ語だけじゃなく…?!」
「もちろん、お勉強だけが人間のすべてではないわ。今の日本のように、いい大学にはいるためにはいい高校に、いい高校にはいるためにはいい中学に、中学にはいるためにはいい小学校に、いい小学校にはいるためにはいい幼稚園に…っていう学歴社会・偏差値社会は正気の沙汰とは思えない。そういう閉鎖的な社会からは決して天才は生まれないもの。だから、私はおふたりに日本の大学にいくことは勧めない。でも……お勉強は大事よ。教養を高めるって意味でね。だから…蛍ちゃんも由香ちゃんも、きちんとお勉強してみたらいかがかしら?」
 蛍も由香も彼女の素直な言葉に「あ、はぁ…まぁ…」と茫然と答えるしかなかった。

 もうだいぶ日も暮れかかって、青山町という平凡な町並みも黄昏た感じだった。
蛍と由香と有紀の三人は、青山町南原にある”栄光塾”という建物の前にポツンと立っていた。ちなみに”栄光塾”とは超一流の進学塾であり、エリートだけが入塾できるようなポジションにある。そして蛍や由香にとっては無縁の場所…である。
「へぇーっ、栄光塾じゃないの。あのエリートしか入れないっていうさぁ。ここの卒業生はだいたい東帝大とか京帝大とか応早大とかに合格しちゃったりしなかったり…するっていう」
「そうそう。そしてここのOL(OB!)とかは大蔵省や三井戸、四菱とかっていう会社や役所とかに就職してさぁ…偉い訳よ」
 蛍と由香は建物をぼうっと見上げながら呟いた。白い壁の同道としたビルだ。さすがそこいらの安っぽい塾とは雰囲気が違う。
「あの。…東帝大に入学したからとか、四菱に就職したからとか…そんなことで偉いなんて判断するのは間違いじゃないかしら」
 有紀ちゃんは横にいるふたりに真剣な顔付きで、優しい優しいお母さんのような顔つきでいった。蛍と由香は不思議そうな顔をして、
「えぇっ。でもさぁ…やっぱりそういうとこに就職したりしたらさぁ、お金とかいっぱいもらって権力もって尊敬されたりしてさぁ…偉いっしょ?」
 有紀は瞳をくもらせてから、「いいえ、偉くないわ。人間として尊敬されるひとは、困っているひとのために役にたったり、ボランティア活動をしたりっていう社会的活動をしているひとね。それと、ただお金をもってれば偉い…なんていうのは拝金思考ともいえるわ」
 と悲しい口調で蛍たちに教えた。そして、「あの。じゃあ、私…塾の教室にいくわね。……今日はありがとう。とっても楽しかったわ」
 有紀は優しい表情に戻って、二人に頭を下げると可憐な足取りのまま建物の中へと姿を消した。蛍たちは、その後をつけて中にはっていった。そして、教室の中を覗いた。
 ー教室の中。鬼のような顔をした塾の講師は、
「あの、すいません。遅れました…あの……」
 と頭をさげて謝罪の態度をとった黒野有紀をキッと睨んだかとおもうと、次の瞬間、無慈悲に、有紀の可愛らしい頬に平手打ちをくらわした。彼女ははげしくよろけた。
 そして、その講師は、冷たい視線のまま手で頬をおさえて驚愕している黒野有紀に、
「さっさと席につけ!」
 と命令した。
 有紀は恐ろしくなって全身を小刻みに震わせた。涙が目を刺激したがなんとか堪えてトボトボと席のほうにあるいていった。そして当然のことのように他の生徒達は何ごともなかったように机に向かっているだけだった。
「な、な、な、何よっ。あの野郎!私たちの大事な有紀ちゃんになんてことすんのよっ!」 ふたりは怒りと驚きで眉をツリあげて、
「そうよ、そうよ、そうよ!女の子にとってお顔は大事なもんじゃんよぉ。あんなに強くビンタして、青痣でもできたらどうしてくれるっていうの?!」
 蛍と由香は激しく誰にもきこえないように怒鳴った。
  時間はだいぶ過ぎ、もう夜になっていた。蛍と由香は”ヒマ人”らしく、塾の建物の外の物陰に隠れるようにして建物から出てくる生徒達をぼうっと眺めていた。何をしているのか?まさか、お勉強に目覚めて入塾するのか?はたまた「あの野郎」こと塾の講師を襲撃するのか……?
「あ!出てきたよ。有紀ちゃんが…」
 由香は声を上げた。そう、ふたりは単に、有紀がでてくるのを待っていたのだ。
 彼女はいつものようにトボトボとうつ向き下限で歩いていた。ーあ、マズイ!ふたりはハッとして、有紀の後ろ姿を追った。
 だが、このふたり。…正義の味方と呼ぶにはあまりにもオソマツな少女らは、薄暗い遠くの夜空に浮遊してギッと有紀の後ろ姿を睨んでいる魔物・アラカンの存在には気付きもしなかった。アラカンの口元に冷酷な笑みが浮かぶ。
「あれが今度のターゲット、黒野有紀という少女か…」
 冷たく低い声が暗闇に微かに響いた。……

  夜遅くなって、黒野有紀はちっぽけなアパートに帰ってきた。
 有紀のご自慢の母親「黒野静」は珍しく台所で夜食をつくっていた。静は有名な東帝大の助教授で、知性と美貌を兼ね備えた中年女性だ。細い体格、黒色の瞳、白い肌、きらきらした髪は、明らかに有紀に受け継がれたようだ。だけど、有紀ちゃんの方が痩せていて可愛らしく魅力的で、母親にくらべて手も足も驚くほどすらりと細い。
「有紀、おかえりなさい」
 台所の壁を通して、静の少し疲れた声が薄っ暗い玄関に微かに響いた。
「あら、お母さん。今日はお仕事は?」
 有紀は少し驚いた声を出して台所に歩いていった。そして、「珍しいこともあるわね。お母さんがこんなに早く帰ってきて…しかもお食事を作っているなんて」
 静は娘の可愛らしい魅力的な笑顔を眺めてから、「まぁ、そうね」とうなずいた。
「あ。もう、危なっかしいわねぇ。お母さん…ほとんどお料理なんてした事ないんだから…指でも切ったら大変よ。いつものように私がやるわ」
 有紀は幸せそうにニコニコと笑ってから、手際よく母親の手から包丁を取ると「お料理」しだした。静は少しだけ呆気にとられたように立ち尽くして、娘の包丁さばきに見とれてから、インテリらしい顔をした。
「ねぇ、有紀。お勉強の方はどうかしら?きちんと学年トップのポジションをキープしているんでしょうね?」
「……え、えぇ。まぁ……はい」
「私はねぇ、有紀。あなただけが頼りなのよ。お父さんが数年前に交通事故で死んじゃってから、いままでずうっと、あなたのことだけ考えて暮らしてきたといっても過言ではないわ。あなたが、誰にも負けない頭のいい人間になること、そして、大学教授になること、…それらは私の夢でもあり有紀の夢でもある。そうよね?」
 静はまぶしそうな目で冷たい口調でいった。
「……は、はい。まぁ…えぇ。お母さんの期待はぜったいに裏切らないわ」と、有紀はうなづいた。
「そう、それはよかったわ。私にはあなただけが頼りなのよ。ぜったいにお母さんのことを裏切ったりしないで、勉強に打ち込みなとさい!…人間にとって必要なもの、手にいれなくてはならないものは知識だけよ。無学なもの怠惰なものでは誰にも相手にされないのよ。わかるわね、有紀」
 有紀は「でも……あの。えぇ」とうなづいてから少し寂しそうな表情をした。…知識も大事だけど、互いが互いを愛し合う精神や、それを理解できる知恵も大事なのに。心の中でそう呟きながら有紀は続けて、うれしそうな笑顔で、
「あの。あのねっ、お母さん。私……お友達ができたの!とっても明るい楽しい女の子でね。名前は蛍ちゃんと由香ちゃんっていって…今日はなんとふたりにゲームセンターや喫茶店に初めて連れていってもらって…とても楽しい時を過ごしたの。やっぱりお友達って最高…」
「有紀!うかれるのはよしなさい。そんなどうでもいい友達ならいない方がマシ!もっと気合いをいれてお勉強だけに集中しなさい。そんな蛍だか由香だかという人間とそんな所にいくなんて…あなたはもう少し「頭の働く子」だと思っていたのに…まったく。とにかく、もうそんな子たちとは付き合ってはいけませんよ」静はけしからんと言った感じで娘に冷酷な視線を投げ掛けてから、そのままそまの場を立ち去った。残された有紀は、ただ悩むばかりだった。………まるで暗闇にぽんと投げ込まれた気持ちだった。
 有紀のお部屋は、お馬鹿の蛍の部屋のような少女趣味的なものではない。また、皮肉屋で絵画おたくの由香の部屋みたいにキャンバスだけが並んで置いてある訳でもない。ただ、哲学書や歴史書などが本棚に並んでいる。本と水色のベットとクローゼットと机があるだけの部屋。しんと光る部屋。静かな空間。すべてが有紀らしい。
 机の上にポータブル・CDラジカセがあり、チャイコフスキーやモーツアルトといったCDがあるが、それはクラッシック・マニアらしい。
  有紀にはまるで「赤毛のアン」のアン・シャーリーのような一面もある。本だなに置いてあるピエロの人形を手にもって話しかけるのだ。しかも、熱心に情熱的に、少し寂し気に、
「ねぇ。あのねっ……私に…初めてお友達が出来たのよ。今まで、小さい頃からお友達なんて一人も出来なかったのに…。すごいでしょ?奇跡的よね?」
「それで?そのお友達は何て名前?」ピエロの声で、寝ぼけ気味に有紀はいった。
「うん。お名前は蛍ちゃんと由香ちゃんよ」
「それで?いっぱいいっぱい遊んだ?」
「えぇ。もちろんよ。いっぱいね」
「そう。お母さんはなんて?」
「………よかったね、お友達が出来て…って」
「…もう寝たらいいんじゃない?明日はお母さんのお弁当をつくったり朝食をつくったり…いろいろある訳だからね」ピエロは優しくいった。
「ねぇ、神様なんていないって思ってたけど、神様は本当にいるのかなぁ。神様が蛍ちゃんたちをつれてきてくれたのかなぁ」
「そうかもね。神様ってばやるわね」
「そうね。かなりやるわね」
 ピエロの頬にキスをしてから、有紀は優しくきらきらと微笑んだ。


  次の日、学校の図書館はほとんど誰の姿もなかった。時刻は正午過ぎの昼休み。
 有紀ちゃんはいつものように、大きなテーブルの隅っこの方に陣取って分厚い哲学書を熱心に読み耽っていた。
「ねぇ、ねぇ、有紀ちゃん」
 有紀が大きな瞳をきらきら輝かせて哲学書を読みふけっていると。背後からそんな声がした。彼女は振り返って、背後の二人組に、
「あらっ、蛍ちゃん、由香ちゃん、ごきげんよう」
 とニコリと微笑した。蛍はニヤリと、
「ねぇ、有紀ちゃん、探していた電話番号みつかった?」
「……え?この本は電話帳では…」
「相手にしなくていいわよ、有紀ちゃん。馬鹿蛍のつまんないギャグだから…」
 由香は真顔でいった。
「(無視して)…あのさぁ、有紀ちゃん。お願いがあるんだけどさぁ…」
「『お金貸してちょうだい』とかいうお願いかしら?」蛍は由香の皮肉を無視して、「あ…あのねぇ。お勉強を教えてもらいたいのよ」
「え?!何っ?お弁当を…ちょっと苦しい……お勉強って誰に?あんたんとこのセーラに?」「(無視して)…ダメかなぁ?少しは20点とか30点とかさぁ、テストで取ってみたいのよぉ」
 蛍は有紀にそういって、元気いっぱいに笑った。そして、「もち(ろん)、由香ちゃんも一緒に!」
 とお願いをした。ので、由香は、「え?え?えっ?!ちょっと、私も?!」と驚いた声をあげてしまった。
「…くすっ」有紀はそんな五流コメディアンのような二人組をジッと眺めて、魅力的な笑顔ですぐにいった。「えぇ、もちろんいいわよ。お勉強をお教えいたしますわ」
  しばらくして、例のふたり組は「……あぁ。全然わからないわっ!」と弱音を吐くことになる。当然、有紀という頭の良い女の子に優しく教えてもらっても、この二人には理解できるわけないからだ。
「……あの。二人とも…あきらめないで頑張りましょう。千里の道も一歩から、よ」
 有紀ちゃんは優しい優しいお母さんのように笑顔を見せた。横に座っていた二人は、
「え?山咲千里(日本の女優)?!」と尋ねた。
「…………ローマは一日にして成らず……よ」
 有紀は少し言葉をつまらせてから、言い直して教えた。そして、はぁ、っと思わずタメ息を洩らした。……

  もう午後になっていて、有紀と由香と蛍の三人は仲良く下校時を並んで歩いていた。 時刻は何時なのかはっきりしない。どよどよと薄暗い雲が天空をつつむように漂ってきて、何かしら怪しげにも見える。怪しげ…というより、雨がふってきそうな天気であり雲行きである。そして、次の瞬間、当然のことのようにポツリポツリと雨粒が静かに落ちてきて、やがてざあざあと激しく降出してきた。しんとした冷たさだった。
「うわぁ。ちょっと、雨だなんて。お天気お姉さんの嘘つき!今日は雨降らないっていったじゃんよっ」当然、こんな品のない言葉を叫んだのは例の二人だ。
 最悪の筋書きが現実の運びとなってしまっていた。でもたいして「最悪」ではない。単に、
「…やだよ、傘っ忘れちゃったよ!!」……だからだ。二人組はテレビのお天気お姉さんにひどく腹を立てていた。お天気お姉さんは約束したのだ。「とにかく、走って帰ろ!」
 三人は鞄を傘がわりに頭上にかざして、茫然とした顔のまま駆け出した。角を曲り、通りを二つ走って、公園の近くまでやって来た。途中で一度だけ足を止めて、
「じゃあ、有紀ちゃん、また明日ね」
 と由香と蛍は有紀にいった。そうして、二人は角を曲がって言った。ふたりと有紀ちゃんは帰る方角がちょっと違うのだ。
  それからしばらくして、有紀は驚愕に包まれたまま黙りこんで立ち尽くしてしまった。そして、道路の隅っこにまるでゴミのように捨ててある「ダンボールの中にいれられている一匹の子犬」を見た。こんな風に、動物が哀れに捨てられているのをダイレクトにみたのは初めてだった。冷たい雨に打たれ、くんくんと鳴いて誰かを必要とするような瞳をしたシバ犬の茶色い子犬。きっと誰かに可愛がられ、必要とされ、やがて忘れられて、ゴミのように捨てられてしまった子犬。
「…ひどいわ。可哀相じゃないの。…なんてこと?こんな可愛いワンちゃんを無責任に…ワンちゃんの気持ちなんて考えもしないで…こんなふうに捨てるなんて」
 彼女はやっとのことで声を出した。そして、冷たい雨に全身をうたれながらね純粋な気持ちで子犬をジッと見つめた。
 くんくんと子犬が彼女を見返し、有紀は一瞬、このワンちゃんをこのままにして置く訳にはいかないわ、きっと私が助けなくてはならないのね、と信じたが、少しだけ不安にもなった。彼女の可愛らしい大きな大きな瞳が不安気に曇っていった。
「ーどうしよう?お母さん……動物が嫌いなのよね。…でも、だけど……」
 ざあざあと冷たい雨にうたれながら、黒野有紀は捨て犬を同情の瞳でながめながら呆然と立ち尽くすしかなかった。

  ”可愛らしくおとなしい文学美少女”こと黒野有紀という優しく少し内気な美少女はやっぱり子犬を見捨てるという残酷な行動は取れなかった。有紀ちゃんがそんなことする訳がない。彼女は動物をポイ捨てしたり虐待するやからとは違って、人間や動物の心の痛みや苦悩を知っているからだ。それが彼女の優しさだ。しんと光るような心だ。
 日本では、捨て犬は保健所に隔離され、一週間たっても飼い主が訪所しない場合はガスで安楽死させられる。そして、当然のことのように飼い主などはまず現れはしない。
「しっ。…ダメよ。おとなしくしててね」
 玄関に忍び入った有紀は、胸元に抱き抱えたズブ濡れの子犬に静かな口調で優しくいった。彼女のきれいな黒髪も制服も鞄もなにもかもが冷たい雨に濡れていた。
 …でも、有紀はなにも気にせずに子犬に視線を向けて優しく微笑むとオドオドとお母さんがいないか見渡した。いない。
「ワンちゃん…待っててね。すぐに温かいミルクをあげるからね」
 有紀はニコリとして呟き、子犬はくんくん鳴いた。たが、この有紀ちゃんはやたらとのろい。「運動なんてまるでダメ!らしいよ…」という噂も本当で、足が遅いのだ。だから、のろのろと台所に歩いていく間にお母さんに見付かってしまった。
「ゆ、有紀!なんです?その胸元に抱きかかえている汚らしい犬は!」
 静の冷たい声が響いた。有紀の心臓が重く沈んだ。「あ、あの…お母さん……」
 一瞬、沈黙が訪れ、有紀は息をとめた。もし、捨てきなさいなんて命令されたらどうしよう…。
「……あの、お母さん。このワンちゃんとっても可愛いでしょう?世話とかは全部私がやるから…飼ってもいい?」
 歩きながら練習したように、おどおどと有紀はいった。「ほら、ワンちゃんって頭もいいし、可愛いからみてて心も安らぐし…とってもいいパートナーになるでしょう?縄文時代から人間のもっとも親しい友人と呼ばれてきたくらいだから…。ね?飼ってもいいでしょう?」
 静は顔色ひとつ変えずに「ダメよ。すぐにその汚らしい犬を捨ててらっしゃい」と冷たく言った。
「でも…お母さん…可哀相でしょう?」
 両手をきつく握り合わせ、目を遠くのあらぬところに泳がせ、すがるような表情で有紀はいった。そして、泣きそうになりながら、
「ねぇ、お願いよ、お母さん。……捨てるなんて嫌なのよ。だから」
「ダメよ!これは命令よ、捨ててらっしゃい」
 静は限りない冷たさに満ちた顔でいった。有紀は何も反論できずに黙り込み、下を向いて涙を堪えて立ち尽くした。ひどく悲しい気持ちだった。こんなにも自分の母親が分からず屋だったなんて…。
 まるで大蔵省のエリート役人みたい…。

 有紀はしかたなく、子犬を元のダンボール箱の中へ戻した。そして、じっと立ち尽くして顔を曇らせて、泣きそうな視線を向けた。
 くんくんと子犬は可愛らしく泣いて有紀を呼んでいる。ーどうしたらいいの…?
 彼女は冷たい雨に打たれながら悲しみの中で黙り込むしかなかった。
「……ごほっ、ごほっ」
 しばらくして、有紀はセキ込み、額に右手をあてて凍り付いた。ひどい無力感や哀れみに襲われて堪え切れなくもなった。私は無力だわ…彼女は自分をせめた。
 そしてまた有紀は、じっと立ち尽くすだけだった…。

  例の”出来そこない”のふたり組(蛍と由香)は相変わらずだった。時刻は朝の小休みの頃。ふたりは青山町学園の廊下を明るく笑いながら並んで歩いて、
「いや、はや…まいったっしょ。抜き打ちテストなんてぜんぜん出来なかったよ」
「まあね。私も。数学じゃあねぇっ。美術ならさぁ、楽勝なんだけどさぁ」
「…美術の抜き打ちテストなんてあんの?」
「…あったらいいなぁ。なぁーんてさぁ」
「じゃあ私は……アニメのキャラクター・ネーム(登場人物の名前)当て、とかさぁ。アニメ・ソングのイントロ当てクイズとかさぁ」
「馬鹿じゃないの?」
 ひたすら低レベルなふたりである。
 しかしそうした脳天気なピーヒャラピーヒャララ…という二人組とは別に、黒野有紀は掲示版の順位表を凝視して愕然と立ち尽くしてしまった。表情を凍らせ、激しくセキ込んでしまった。両手を胸のすぐ前で握り合せて、表情もなくした目でうつろに『表』をみつめていた。氷のような表情…どこかへ飛んでいってしまいそうな目だった。
「あ、有紀ちゃん。何みてんの?学級新聞の四コマ漫画とか…」
「馬鹿じゃないの?あんたじゃあるまいし…」
 すぐに由香が蛍にそう言った。有紀ちゃんが「馬鹿じゃないの?!」などという言葉を使うことはありえないことだ。こういうのは皮肉屋で絵画オタクの赤井由香の台詞だ。
「……」有紀は何も答えずに、ごほごほとセキこんで黙り込んでいた。頬が赤く火照っているようだ。風邪をひいたのかも知れない。
「あの……どうしたの?有紀ちゃん…」
 しかし、有紀の視線は『表』に向けられたままで、その顔は打ちひしがれていた。ふたりは不安気な不思議気な顔で順位表に目を向けると、
「…あれっ?あれ?あれ?あれっ?」
 と声をだした。由香は、「印刷ミスじゃないの?有紀ちゃんが学年で32位だなんてさぁ。あの横沢葵とか森山なつみより下なんてさ。…ミス・テーク(プリント)…ね」と言った。「そう、ミス(間違い)っしょ!ミス!!……ミス?…ミスって結婚してない女性のことじゃあ?」
「(無視して)あの…有紀ちゃん、有紀ちゃん?元気だして。あんまり気にすることないってるいつものトップじゃなくて32位だけどさぁ…私たちよりはずうっとマシな訳よ。だいじょうぶ!有紀ちゃんってば頭いいんだから、すぐにトップに返り咲くわよ」
 蛍は「…あ?!由香ちゃんってば…さっき印刷ミスって宣言したじゃんよぉ」といった。「(無視して)…とにかく明日にゃ明日の風が吹くってことだから…元気だしてね」
「そうそう。”持てばカイロは温かい”ってもいって…」
「”待てば海路の日和あり”(我慢していればやがてよいことがおとずれる)よ!この馬鹿蛍っ!!」
 しかし、有紀には慰めの言葉はもはや聞こえなかった。またしても自分の心の部屋に閉じ籠ってしまってから、氷と痛烈な寒さに満ちた場所へ逃げ込んでしまったのだ。小刻みに震え、風邪で咳き込みつつ『表』を凝視している。
「おい、黒野!ずいぶんと成績が落ちたもんだなぁ。いつもトップのお前が32位とは」
 いつの間にか、社会科の”メガネ猿”こと有田先生が三人に近付いてきて声をかけた。「…なにかあったのか?転んで頭でも強く打ったか?悪い物でも食ったか?」
 有田先生のいやみにも、有紀はなにも答えなかった。
「あの…有紀ちゃん」由香と蛍は彼女の肩にそっと手をかけて、やさしく包むように微笑んだ。
 有紀は二人の手の微かな温かさと、手触りと、優しさに包まれたことを感じて、ほんのわずかだが体の力を抜いた。震えが止まった。しかし、凝視を続ける目は『表』から離れようとしない。
 まるで催眠状態にでももかかったかのようだ。そして、次の瞬間、つぶやきが始まった。呟き、呟く、呟いていく、呟いたら…呟く。呟き呟き。
「なにいってんの?有紀ちゃん」ふたりはそっと耳を彼女の口元に近付けた。「…?」
「…そんなこと…信じられない…わ。こんなに成績が…。こんなんじゃ…立派な教育者なんて……。こんな……んじゃ…あ…」有紀ちゃんはつぶやくように同じ文句を唱えていた。「こんなんじゃあ…こんなんじゃあ…こんなんじゃあ…」何度も呟く。
 二人は驚くと同時に、無ねから全身へ痛いほどの哀れみが広がるのを感じて黙りこんだ。彼女を両手で抱き抱えて、慰めてやりたいとも感じたが、あえてしなかった。だけど、何とかしなくちゃならない。そうしなければ、彼女はまた元にもどってしまう。ーそうだ! 二人は流行りのポップスをうたいはじめた。

 ♪ウィー・ア・ポジティブ・ガール
 どんな時も あきらめないで 素直なまま恋して
 ウィー・ア・ポジティブ・ガール
 強がりいっても 何してても 許してほしいのよ
 ウィー・ア・ポジティブ・ガール
 一瞬の ときめきを忘れないで 歩いて
 ウィー・ア・ポジティブ・ガール
 臆病な 自分たちをすべてこわして 微笑(わら)うから!

  有紀の呟きが消えて、凝視もおさまった。

 立ち尽くさないで…  悩まないで……

  二人は歌いおえた。もちろんサビ(ブリッジ)の部分だけだったけど、それでも魅力的なメロディだった。有紀ちゃん、有紀ちゃん、愛してるよ。私たちは親友でしょ。だから、分かりあえるよね。大丈夫よね。
「有田先生。黒野が32位になった理由(わけ)を知ってますか?」
 またまた神保先生がやってきて、同僚の有田先生にニヤリと声をかけた。
「いえ。……理由なんてあるんですか?」
「えぇ。」神保は白く鋭い歯を見せて、「こいつらですよ。この青沢蛍と赤井由香にしつっこくまとわりつかれて勉強が手につかなかったんでしょう。まぁ、朱に交われば赤くなる(交際する人からずいぶんと悪い影響をうける)ってことわざがあるけれどね。まさに、それですなぁ。こんな馬鹿コンビと仲良くなったばっかりに……不幸なことです」
 神保の冷たい言葉に蛍はムッとして、
「先生!そんないいかたないっしょ?!」
 といった。由香は狼狽しながらも、
「そうですっ、先生!馬鹿コンビだなんてっ。蛍は全滅だとしても…私は美術は年間オール百点でしょっ?!だから…」
 しかし神保は何の表情もみせずに、ただ、
「黙っていろ、この馬鹿ども」と吐き捨てるようにいった。「お前たちが頭が悪いのは勝手だが……他人まで巻き込むんじゃない!」
「な、何?!この”機械”!学校中の嫌われもの!」
「なにっ、この馬鹿ども!”仏の顔も三度まで”だ!!」
 蛍と由香は神保の怒りに触れて、「…なによっ、何が仏よ。ずっと鬼の顔じゃんよ」と全身を恐怖で小刻みに震わせた。ーちょっと反論するのは無謀だった…ころされちゃうよ。 次の瞬間、ゲンコツが飛んだ!!
 けど、「待ってください、先生!」という有紀の言葉で、ゲンコツは螢と由香の頭すれすれで止まった。いや、止めた。
「私の成績がおちたのと螢ちゃんたちとは…何の関係もありません!ぜったいにありません!!」有紀はしぼり出すように必死に泣いたような声を出した。そして、目をぎらぎらさせて、言った。「成績が落ちたのは風邪をこじらせて頭がぼうっとしていたからです。…それに…螢ちゃんたちは、先生がいうような劣等生じゃありません!ぜったいに!!だからすぐに、先生」
 そして続けた。「すぐに謝って下さい!」
 神保は口をぽかんとあけ、狐につままれたような顔で彼女をみた。「な、なにっ!黒野っ、貴様」憤慨して叫んだ。「成績がトップだからって甘やかしてやればツケ上りやがって。私に命令するのか?私はお前なんかより知的レベルが上なんだぞ!ふざけるな!!」
「…それは違います。」有紀は切り返した。「知的レベルとは単に学問を知っているってことだけじゃないんです」
「で、学問じゃなくなんだっていうんだ?」
「人生をうまく泳ぐ知恵、博愛の思考、多くの知識を有しているだけでなくて何がよくて何が悪いか迅速確実に判断して他人の痛みをも知る能力…これらを身につけているひとが知的レベルの高いひとです」
 知恵?博愛?何をいってるんだガキが!正気か?狂ってる?まったくガキときたら夢みたいなことばかり考えやがって!神保は有紀をギッと睨みつけた。
「私は先生みたいな偏見でしか学生をみないひと、判断しないひとは好きではありません。先生は学生たちを悪くいうけど……むしろ先生のほうがいろいろと悪いところがあるんじゃないでしょうか」
 神保は癇癪を起こすまいと必死にこらえた。このガキにやられているのがわかるだけに、癪にさわった。彼は子供に論破されるのは慣れてない。
「螢ちゃんたちがどんなに素晴らしいか、先生にはわからないんですか?」有紀は暗い表情のまま、熱心な口調で続けた。「ちゃんとみてあげれば、すばらしい才能があるってわかるはずです。そして、いつか輝かしい人になれるってわかるはずです」
 彼女の声が同情に和らいだ。「…とってもすばらしい大人に…女性に…人間に」
 神保は手のひらを突き出し、有紀をさえぎって、怒鳴った。
「黙れ。このガキが…お前なんかに何がわかるっていうんだ?!ナマイキいってんじゃないっ!」
 彼女は頭から冷水を浴びせかけられた様に肩をすくめて立ち尽くし、黙り込んだ。そして、くやしくて情けなくって瞳から大粒の涙をぽろぽろ流して、
「先生はフィリステンね!」と断言した。
「どういう意味だ?」神保は息をのみ、目をまん丸にした。
「もぉ、いいです!」
 彼女は冷たくいうと、そのまま顔をそむけたまま、悲しい足取りでその場を駆け去った。「あ。待ってよ!有紀ちゃん」
 螢と由香は弾かれたように駆け出して、有紀の後ろ姿を追った。……

  有紀はフラフラと自宅の自分の部屋へと、青ざめた表情のまま涙もふかないで帰ってきた。こんな風にこんな時刻に家に戻ってきたことなど一度もなかった。
 ひどく疲れて悲しくて胸が張り裂けそうな気持ちだった。なんでもないことに嫌悪感を覚えそうな気分だった。
 ”可愛らしくっておとなしい文学美少女”黒野有紀は涙をポロポロと流しながら、震える指先でベットの下に置いてあったミカン箱を引き出した。ミカン箱には柔らかい毛布がしいてあり、そこにちょこんと「捨てたはずの子犬」が存在していた。
 彼女は可愛らしい子犬をじれったく思えるほどにゆっくりゆっくりと胸元まで抱き上げて、堪えきれなくなってギュッと抱き締めて号泣した。               
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