長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説4

2013年12月18日 06時43分30秒 | 日記
         米沢藩の借金と困窮



  米沢藩の財政や台所事情は悪化の一途を辿った。
 綱憲の跡をついだ吉憲の代には、参勤の費用が捻出できず、ついに人別銭を徴収するにいたったという。
「人別銭……とな?」
 上杉吉憲は、城内で家臣に問うた。
「人別銭とは領民すべてから税をとることでございます」
 家臣がいうと、殿は笑って、
「たわけ!そのようなことはわかっておる」
「はっ」
「……人別銭を徴収せねば、参勤の費用も捻出できぬのか?ときいておる」
「はっ。……なにぶん米沢藩は困窮しており…そのぉ…」
「はっきり申せ!」
 上杉吉憲が声を荒げると、家臣は平伏して、「御屋形様のおっしゃる通り、人別銭を徴収せねば、参勤の費用も捻出できぬ……ということでござる」
「領民は納得するかのう?」
「…しますまい。しかし、仕方がござりませぬ。藩の窮地ですから…」
「さようか?」殿は溜め息をついて、「仕方…ない…であるか」といった。

  人別銭とは、人頭税のことである。
 だいぶ前に英国のサッチャーが導入しようとして、国民に反発され、デモが激化しサッチャー首相(当時)が退陣に追い込まれたエピソードは記憶に新しい。
 そして、困窮米沢藩はそんな人別銭(人頭税)を敷かねばならぬほど混乱していた。
 だが、財政困窮はさらに続いた。
 つぎの藩主宗憲の代、享保十八年には、江戸城のおほりの浚渫という国役を命じられ、家中の棒禄半分を借り上げて急場をしのぐという事態も起きたという。
 綱憲以来、家中の借り上げははんば習慣化していたそうだが、棒禄半分をもの借り上げははじめてであった。
  つぎの藩主宗房は、兄・宗憲の急死の跡をついだ藩主だが、このような藩財政の緩和に心を砕いた形跡があるという。襲封五年目の元文三年には、領内郷村の困窮がひどくて年貢がとどこうっているのを知ると、古年貢の七ケ年延納と当年分年貢の完納を命じた。で、米沢藩の年貢は半米半銀が建て前であるが、その年の年貢は米蔵にあふれて急遽用意した仮屋に積むほどに集まり、また銀も蔵の床が抜けるほど集まったという。
 この触れを、膠着する年貢未進の状況を打開する藩の一工作とみるむきもあるという。事実、旧債に喘いでいた農民がこの触れに善政の匂いを嗅ぎつけたのは確かなようである。「…やればできるではないか。こんなに年貢が集まった」
 藩主宗房は、にやりとしたことであろう。
 実際、この年(元文四年)は漆の実や青ソなど豊熟で、宗房の代で米沢藩の窮乏も一服という感じになった。
 しかし、藩主宗房も二十九歳の若さで死去して、さらにその弟で吉憲の四男にあたる重定が新藩主になると、ふたたび米沢はきびしい窮乏に直面することになる。
 延享三年に、兄宗房の跡を継いだ重定は、翌年五月に初入部したが、八月に至って家中藩士に文武ならびに歌謡乱舞に心がくべきだという論告を出したという。
 重定は、「これからは家中藩士みなが歌謡乱舞に心がくべきだ」
 といったという。
 それにたいして家臣が「御屋形様……歌謡にございますか…?」
 と問うと、重定は、
「さよう。みなで能や狂言をやれば楽しいであろう?」と飄々といった。
「ですが……財政が…」
「なんじゃ?」
「…しかし……能とは…」
「武家というものはのう。……能芸をたしなんでこそ武家なのだ」
 重定はそういって笑った。
 家臣一同は唖然とし、沈黙するしかなかった。
 しかし、次第にそうしたひとびとも「御屋形様のいうことだから…」と、家臣はみな歌謡の稽古に熱中し、学問弓馬の道を顧みる者はいなくなったともいわれる。
 この新藩主を『綱憲の再来』と思った者もいたに違いない。
 とにかく、重定は綱憲のように”暴君”であり、”馬鹿”であった。
 ……藩の財政が困窮しているのに”能遊び”とは何事のことだろうか?
 延享、寛延のつぎに宝暦という時代、重定の治世下であったが、その薄氷を踏むようなやりくりをしている米沢藩財政に、致命傷ともいうべき打撃が到来した。
 脆弱な米沢藩財政に加えられた最初の一撃は、重定が藩主となってから七年目の宝暦三年末に幕府から下命された上野東叡山の中堂の修理、仁王門再建工事の助役であったという。その費用は九万八千両もかかると概算されたので、藩はただちに費用の調達にとりかかったが、領内からは家中、商家、郷方を合わせて六千二百六十両、越後商人の渡辺儀右衛門千七百両、与板の三輪九郎右衛門四千五百両というところが借入金の主で、これらの借金集めても一万二千五百両に満たなかったともいわれているそうだ。
 米沢藩では、あとの不足分を上方からの借入金と、領内に宝暦四年三月から毎月徴収の人別銭を課すという非常手段に訴えてなんとかした。
 辛うじて危機を乗り切ったが、このときの作業手伝いは、借財の急増と人別銭による家中、領民へのダメージと傷や禍根を残すこととなった。
 米沢藩では、こうした経緯はありながら、宝暦四年十月幕府に「手伝い完了」の報告ができたというが、翌年五年は奥羽一帯を覆う大凶作となり、米沢藩もこの宝五の大飢饉を免れることはできなかった。
 大雨て河川が氾濫し、田畑の損失は二千七百四十九町歩に達し、三万七千七百八十石余の収穫が消滅した。
 この状況をみて、米価が高騰する。八月に入ると、米は一俵一貫七百三十文になり、藩が一俵の値段を一貫五百文に指定すると、村からの米穀の出回りがぴたりととまった。藩では市中に横目を放って米を探させたところ、町中の米は百九十七俵しかなかったというのは、東町の長兵衛が六、七百俵の米を隠していたからだという。
 こうした状況と飢饉に憤った南町の下級藩士に率いられた関村、藩山村などの農民五、六百人が、九月十日馬口労町酒屋遠藤勘兵衛家、南町の酒屋久四郎家、紺屋町の喜右衛門家を遅い、その三日後の十三日には城下に住む微禄の藩士五、六百人が、米座のある商人の土蔵を破ったという。
 ……百姓だけでなく、武家も”一揆”に走った訳だ。
 暴徒たちはすぐに鎮圧されたが、その次の年も次の年も飢饉は続き、ついに餓死者まででたという。
 凶作で、高二十三万石のうち十九万石もの損失をだした弘前藩、あるいは飢饉に悪疫が重なって死者五万人を出した盛岡藩ほどではないにしろ、米沢藩でも、ひどいことになったのである。三万とも五万ともいわれる禄高を損失したという。
 こうした状況の中で、家中、領民はどうのような暮らしをしのいでいたろうか?


  馬廻組、五十騎組、与板組は総称で三手組と呼ばれ、米沢家中の中核であったという。 馬廻組は藩祖謙信の馬前のそなえを勤めた勇猛な旗本百騎を淵源とし、五十騎組は出生地上田以来の景勝の旗本で、とくに景勝が征服に手をやいた大敵であった新発田重家を攻めて決戦を挑んだとき、直参の五十騎の武功が著しかったのでその名を冠された組、与板組は、上杉の柱石直江兼続の与板城以来の直参で、兼続の戦役の功名をささえてきた者たちであるという。
 三手組ともに、しだいに人数が多くなり、家臣の二割を占めるまでになった。が、それは、それぞれ戦時下の戦仕事よりも、日常の重要な職務をゆだねられたからである。
 馬廻組が勤める役職は、大目付、御中之間年寄、御留守居、群奉行、宗門奉行、町奉行、御中之間番頭、藩主に近侍する御中之間詰二十四人などであった。このうち御中之間年寄六名は奉行の下で重要政務に参与する要職で六人年寄などと称したという。
 五十騎組は、板谷などに関所の職や、江戸での仕事、奉行などの仕事であり、与板は足軽や大筒、鉄砲などの職であったという。
 しかし、足軽たちは早くから棒禄による生計をあきらめていて、商農工に道を探していたという。それぐらい藩財政は困窮していた訳だ。
 ……あまり難しくてどうでもいいようなことは省略して、これからは鷹山公の改革などに言及する。しかし、どうしても詳しい事情が知りたい方は古い文献を参考のほど。
 とにかく、こうした困窮した米沢藩の状況のなか登場した政治家が、森平右衛門利真であった。森は、長く藩政に専権をふるった筆頭奉行清野秀祐が職をしりぞいた翌年の宝暦七年に奉行職についた。そして、独裁的な権力をふるったのである。
 ”無能”の藩主は森の正体を見抜けず信頼し、自分は領民が飢えて苦しんでいるのにもかかわらず「能」や「茶」ばかりに熱中していたという。
 名君・上杉治憲(のちの鷹山)、改革の数十年前の出来事である。


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