長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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米沢燃ゆ 上杉鷹山公「為せば成る」米沢藩中興の祖・名君2016年度大河ドラマ原作小説3

2013年12月16日 04時43分50秒 | 日記
         改革



  治憲は江戸の米沢藩屋敷の庭を散策するのを日課としていた。
 庭はあまり広くないのだが、朝の散歩はとてもここちよい気分にさせてくれた。少なからず目の前の不幸を忘れさせてくれるかのようだった。
 朝も早いためか、きらきらとした朝日が庭に差し込み、庭が輝いても見えた。それはしんとした静けさの中にあった。
 治憲は散歩の足を止め、朝日を浴びてきらきらとハレーションをおこす小さな池を指差した。一緒にいた若き側近、佐藤文四郎も池を見た。しかし、そこにはいつもと変りのない池があるだけだった。治憲は確かに、不思議な印象を与える人物だった。年は文四郎と同じように見えた。すらっと細い体に、がっちりとした首、面長の鼻筋の通った青年で、クールな力強さを感じさせた。着物もぴったりしているが、瞳だけは違った。彼のまなざしは妙に深く、光っていた。瞳だけが老成している、といえばいいのか。佐藤文四郎もハンサムだが、髭面で汚かった。
 佐藤文四郎は、「御屋形様、いかがなさいましたか?」、と尋ねた。
 それに対して、治憲は言った。
「文四郎………この池の中の魚をどう思う?」
「魚……でございますか?」
「うむ」
「さぁ………」佐藤文四郎の顔がクエスチョン・マークになった。そして、公の答えをまっていた。
 治憲は言った。
「この池はあらゆる藩。そしてこの中の魚はあらゆる家臣たちだ。泳ぐ魚をみてみるがよい。鯉は自由自在に泳ぐ。つかみどころのない鮒。池の中にありながら泳ぎを忘れないハヤ。しかし………国元の米沢の家臣たちは金魚だ」
「金魚?」
「そう。金魚だ。みずから泳ぐことをしない。…………今、私の改革の手助けをしてくれるのは……誰だろう?」
 ふたりはしばし沈黙した。
 それから、治憲はハッとしたような顔をしてから佐藤文四郎に、
「本国の重役たちから好かれてない人物たち。改革の志を持った者たちをあつめよ」
 と命じた。
 文四郎は呆気にとられた顔をしたまま「私もそのひとりですが…」と呟くように言った。 すると治憲はほわっとした微笑みを口元に浮かべて、魅力的な横顔のまま、
「だからこそ頼むのだ」と答えた。
「はっ!」
 佐藤文四郎はすぐに動きだした。

 こうして、竹俣当綱(37才・千石・前江戸家老・現在閉職)、莅戸善政(33才・百八石・馬廻組)、藁科松伯(31才・米沢・待医・細井平洲門下)、木村高広(37才・二十五石・御右筆)らが呼ばれた。莅戸や木村はとてもいい顔で、華奢な体つきだ。木村は少しうらなり顔で、莅戸善政は背も低く、おちょぼ口で、しかし堂々たる男であった。
 奥座敷ではすでに上杉治憲と江戸家老の色部照長が待っていた。
 色部照長は初老の男で、がっしりとした体躯のわりには気の小さな男であったという。この色部の前の江戸家老が竹俣当綱だったのだが、国元の重役たちのクーデターによって竹俣は失脚させられたのだった。失脚のことを思うえば思うほど、焦り、怒りで体が震えた。
 集まった竹俣ら四人集と佐藤文四郎は座敷に足を踏み入れ、正座して、頭をさげた。
「御屋形様、連れてまいりました」佐藤文四郎が言った。
「うむ。ごくろう」
 竹俣ら四人集は「御屋形様、ごきげんうるわしう」と言った。
「うむ。おぬしらに話しがある。さっそくだが………ここにいる色部が毎月金を借りにいっている商屋に金を借りにいった。が、断られた。もはや、誰も米沢藩に金を貸してはくれぬ。それについて色部から意見がある。よく聞くように」
「はっ」
 色部照長はためらってからゴホンゴホンと咳ばらいをして、心臓が二回打ってから話しだした。
「御屋形様からのお話しの通り……もはや誰も米沢藩に金を貸してはくれません。藩の台所は火の車でして………正直なところ……そのお…」
「色部、申せ」
「はっ」色部照長は少しためらってから「……もはや米沢藩の命運尽きたかと。もはや…幕府に藩を返上して…一からやり直すのが得策かと。もちろん家臣。藩士はじめ、皆、浪人になりますが……このまま死ぬのを待つよりはマシかと…思います」と呟くような苦しい声でいった。心臓がかちかちの意思になるような感覚に、色部は驚いた。
 治憲は「うむ。」と頷いてから「なるほど、そういう考えもあろう」と言った。そして、続けて、ハッキリとした口調で、
「しかし、私はこう考える。私は日向高鍋から養子にはいったばかりだ。それがすぐに藩をつぶしてしまったのでは謙信公以来の藩主に申し訳がたたぬ。同じ潰すなら、やれるだけやってみようと思う。米沢藩を立て直し、自立できるようにする。しかし、私のいっている改革は藩に金を集めることではない。領民の幸福のための改革だ。そこで、おぬしらに命ずる。………改革案をつくれ!」
 と言った。
 色部照長はまた少しためらってからゴホンゴホンと咳ばらいをして、
「………しかし…」といいはじめた。
「色部、申せ」
「はっ」色部照長はまた少しためらってから「……御屋形様のお考え、まことにご立派。しかし…このような重要なことは…まず国元の重役たちに相談してからのほうがよろしいかと……」
 それにたいして治憲は「いや。」と首を軽く振ってから「それではことが進まぬ。米沢藩はいまや大病にかかっている。すぐにでも大掛かりな手術が必要なのだ。おぬしらの怒りを改革案にぶつけよ! 米沢を生きかえらせるのだ!」
 と言った。それすざまじい気迫のある声だった。
 こうして治憲(のちの鷹山)の改革はスタートしていくので、ある。

  米沢・前藩主・上杉重定は放蕩の限りを尽くしていた。
 ……能に酒に若い女……重定は藩財政の窮乏そっちのけで贅沢三昧の生活を続けていた。”無能”重定は自分の藩がどれだけ財政難か、という簡単なことさえ理解してなかった。  これにたいして竹俣が、治憲に申告した。
「御屋形様!」
「なんだ?」治憲がきくと、竹俣が、「重定公は放蕩の限りを尽くしております」
 と、怪訝な顔でいった。
「……うむ」
 治憲はなにもいわなかった。
 竹俣は「御屋形様から大殿様に節約を進言なされては?……藩の財政は窮乏しておりますれば…」
 竹俣の言葉を治憲がさえぎり、治憲は寂しそうな顔で微笑み、
「大殿さまに自由に遊ばせてあげてくれ」というばかりであった。
「……しかし…」
 竹俣当綱は何かいおうとしたが、やめた。これも御屋形様の優しい配慮なのだな、と考えたからだった。
  重定は、さきの藩主宗憲、宗房に子がなかったので、幸運にも、跡釜になっただけの男である。凡庸にして無能…。その無能さが森利真の独裁を許し、また森の前の清野内膳
                           
秀祐に、前主から続く二十六年にもわたって独裁政治を許した。
 しかし、重定の前から米沢藩は窮乏しており、米沢藩窮乏をすべて重定のせいにするのはかわいそうである。
 しかし、あきらかに重定は”無能”…であった。
 だからこそ、その反発から、のちの名君・上杉鷹山が誕生することになったのだ。


         大倹令




 改革案作成のため、竹俣当綱、莅戸善政、藁科松伯、木村高広ら4人の男達に官邸の奥の部屋が与えられた。
 そこで4人は5ケ月を費やした。
 改革案は多岐に渡り、非常に優れていたが為に、作成には手間ひまがかかった。そのために5ケ月を費やさなければならなかった。が、結果としていいものができた。
 その改革案がまとまったころには、竹俣当綱、莅戸善政らの顔の髭は伸び、ちょんまげの髪はバラバラになり、服はぼろぼろになり、それは見苦しかった。しかし、それでも男たちは気にすることなく、改革案に満足するのだった。
「よし、出来た……これだ!」
 竹俣当綱はニヤリと笑って、筆をおいた。
 ちょうどそんな時、
「失礼つかまつる」
 と、佐藤文四郎が訪ねてきた。
「おお、文四郎。なんじゃ?」
「御屋形様からの差し入れにございます」       
 佐藤文四郎はそういうと、籠にはいった美味しそうな葡萄を差し出した。
「おお、葡萄か。これはうまそうじゃ」
「御屋形様も気がきくな」莅戸が言った。
 そして竹俣ら4人は葡萄をほうばった。で、
「文四郎………そちも食え」と竹俣当綱は言った。
「いいえ、なりません。この葡萄は御屋形様から皆さんへの差し入れにございます」
「堅いこというな、食え!旨いぞ」
「いいえ、なりません!」
 佐藤文四郎は頑固として首を振った。それにたいして莅戸が、
「文四郎……おぬしも頑固だな」と笑った。
「そうそう」それからしばらくして竹俣当綱が思い出したように、
「米沢藩の改革は藩士、家臣だけ……という訳にはいかん。御屋形様にも率先してやってもらわなくてはならん。文四郎、それについて御屋形様から何かきいておるか?」と尋ねた。「はっ、御屋形様も率先して改革に協力する所存かと」
「そうかそうか」竹俣は文四郎の答えに満足気に頷いた。
「………改革案はできましたでしょうか?」
「うむ…」莅戸が首をひねってから「それなんだがな、文四郎。ちょっと困ったことがあってな」と言った。
「なんでございましょう?」
「奥女中を減らそうと思うのだが……」
「何人…でございますか?」
「9人」莅戸や竹俣当綱がハッキリとサバサバした口調で文四郎に言った。
「9人?……奥女中が六千人いる中から9人だけ減らす…と」
「いや、違う!5991人に暇を与えるのだ。つまり……結果として残る奥女中が9人…ということじゃな」
「なんですと?! 六千人いる中からたった9人だに? しかし…紀伊さまはお体もすぐれず…」「そこじゃ!」唖然とする文四郎をよそに、竹俣は続けた。「やはり残すのは10人のほうがよいか?それとも8人か?………文四郎、おぬしはどう思う」
「………わかりません!」
 文四郎はどう答えていいかわからず、そう言うしかなかった。
 しばし沈黙ののち、
 莅戸や竹俣当綱らが、
「そういえばこう悩んでいるとあの時を思い出すのぉ」としみじみと言った。
「……森か?」
「そう森平右衛門利真じゃ」
 ふたりはニヤリと言った。



         元凶、森平右衛門利真




  莅戸や竹俣当綱は思い出していた。
 数年前……。まだ治憲が幼い頃の米沢藩……。そこには、元凶、森平右衛門利真がいた。竹俣当綱はその当時、江戸家老で、千坂から手紙を受け取っていた。
千坂とは、千坂対馬高敦のことである。
「うむ。」といって、竹俣はもう一度手紙をひろげて、目を走らせた。
 手紙は、その当時の郡代所頭取と御小姓頭を兼ね、藩政を一手に切り回している米沢藩最大の権力者・森平右衛門利真の近況を伝えていた。
「ふむ」
 竹俣当綱はそう唸った。そして、
「つまり、森を排除せよ………ということじゃな?」
 と独り言をいった。
 確かに、そのような内容だった。
 また手紙には、
”………森を排除せよ……但し、責任はすべて竹俣当綱にあり…”
 とかなんとかで結んであった。つまり、
「責任は俺がすべてとれ……か」
 竹俣はボソリと言った。
 …森を排除せよ……但し、責任はすべて竹俣当綱にあり…我々は知らぬ存ぜぬ…?なんともまぁ手前勝手な。竹俣当綱は人一倍濃い髭をなでて、「勝手なものだ」と独り言った。 なんというオポーチュニズム(ご都合主義)だ。
 竹俣当綱のいかつい髭顔が、渋面になった。
「だが………森をのぞくのには反対ではない」
 いや、むしろ除くべき人物である。
 当綱が伸び始めた髭を片手でなでていると(朝剃ったのが濃いために生えてきた)、ギシギシと床のきしみ音がした。米沢藩は困窮のために、国元の城屋敷どころか桜田門の江戸屋敷の床や屋根のいたみさえも直せなかった。金がない、金、金、金、金欠……なのだ。 近付いてきたのは藁科松伯だった。
「ご家老はおいでですか?」
 藁科松伯の声がきこえた。だから、
「おりますぞ。どうぞ中へ」
 と竹俣当綱は答えた。それと同時に、自分から率先して襖を開け、中へ入れた。
 それは師のためであり、藁科の非力な力ではかたむいた襖は開けずらいのを考慮してのことだった。この当時から藁科松伯は病気がちだった。肺と心臓が悪く、虚弱体質のために手にも足にもどうにも力がはいらないのだ。
「どうもご家老」
 藁科松伯がにこりと微笑んで言った。
 彼は医師ではあるが儒学にも卓越した才能と知識をもつ人物で、上杉直丸(のちの鷹山)の教育係りだった。若輩ながら国元の米沢で家塾を開き、竹俣当綱や莅戸九郎兵衛善政、木村丈八高広などの傑出した人物を世に送りだした人物でもある。
 竹俣当綱は一礼して労をねぎらい、
「ごくろうさまです、ところで直丸殿のご教育のほうはいかがですかな?」
 と尋ねた。
「それがです、ご家老」
 藁科松伯が言った。
「もともと実直で勤勉な性格のお方ゆえ、勉強がはかどります。よほどの才能を持っていらっしゃるのでしょう」
「……うむ。そうですか」
「はい」
 彼は頷いた。
 直丸は昨年の宝暦十年に正式に米沢藩主上杉重定の養子に決まり、麻布の高鍋藩から外桜田の米沢上屋敷に移ってきた少年で、年は当時十二歳だった。彼は、その才能から、江戸の米沢藩士たちから「臥竜(がりょう・野に隠れて世に知られぬ大人物)」と期待されてもいた。
「……直丸殿はまさに臥竜です」
 松伯がにこりと言った。
 藁科松伯は禿頭で、姿勢も正しく、きりっとした学者肌の二枚目だった。病気のために何度か咳こむことはあったが、立派に背筋をのばし、とても好印象だった。態度や性格は謙虚そのもので、こういうひとを本当のエリートと呼ぶのだろう、と感じさせた。
 だが、病弱なのは紛れもない事実で、竹俣などは
 ……師がこのままあの世に旅立たれるのでは……?と不安になること度々だった。
 藁科松伯は明晰の人だった。
 家塾で経書を講義するかたわら、竹俣などに米沢藩の財政や政治、経済再生の案などを話したりもしていた。だから、もし今芽生えつつある改革の前にしてこの師を失うことになれば大変残念である……だが、
 先生は医者だ。ご自分のことは誰よりもわかってらっしゃる。心配無用……だ…?

「直丸さまは、ただ賢いだけではありませんぞ、ご家老」
 藁科松伯は活発な声で言った。
「ほうほう」
 竹俣当綱は請け負った。「それは…さもありなん」当綱は勘のいい男だ。松伯がまだ言いたいことがあるのはわかっていた。だから、
「今日は他になにかありもうしたか?」
 と尋ねた。
「はい」藁科松伯は言った。「今日、世子さまがお泣きになられました」
 竹俣当綱は大きな目を丸くした。……世子が泣いた? 十二歳にもなって人前で泣いたというのか……。なんと軟弱な……。泣いた?………なぜ?
「ご勉強の後で、いつものように米沢の話をしました」
 藁科松伯は言った。彼は、直丸に藩主としての心得として、米沢藩の歴史、気候、財政、産物、政、人情といったものをじっくりと教えていた。江戸生まれの、しかも三万石の小藩の直丸にとっては、この教育は大事に思えた。さいわいにして、直丸は国元の話に興味を示した。講義の合間に、少年とは思えない鋭い質問をすることに、藁科松伯はビックリさせられっぱなしだった。…けしてなおざりに聞き流してるのではないことは十分にわかる。だから、松伯はこっちの講義にも力を入れた。
「本日は、わが藩の人別銭について話しました」
「困窮しているとはいえ……あれは稀にみる悪税じゃ」
「お泣きになられたのは、その人別銭の話しが佳境にかかったところででした」
 藁科松伯は頷いた。そして続けた。「講義の間、世子さまは頭をもたげ、伏し目がちになっておりました。これはお行儀が悪いことだと注意しようとしました所、なんと直丸さまはその姿勢で泣いておられたのです」
「ほう、……泣いた?」
「はい。それで、何故お泣きになられているのかききました。その間、直丸殿の両方の瞳から熱い涙がぽたぽたと頬を伝わり、畳に落ちます。……どうなされましたか?と」
「それで?」
「はい、そして直丸殿は懐紙で涙をふき、不覚を詫びた後、それでは国元の米沢の家中、領民があまりにもあわれであると」
「憐れ?」竹俣当綱はびっくりした。
 十二歳の子供が意見を言った。……意見? いや、違うな。きっと、自分がそのような情ない困窮藩の藩主になるのが嫌で泣いたのかも知れぬ。きっとそうだ。
 竹俣当綱はにやりとひとり苦笑した。
 ちなみに、人別銭とは人頭税のことで、世にも稀な悪税だった。問題なのは領民ひとりひとりそれこそ赤ん坊から老人・男女問わずに税をとる。しかも、米沢だけでなく江戸の米沢藩人からも税をとるところだ。この人別銭(人頭税)を考えて実施しているのが森平右衛門利真だった。貧すれば鈍する…で、困窮・米沢藩はこのような汚い税収に頼らなければならぬほど「憐れ」だった。税史の通った後は草も生えない…といわれるほど。
「なるほど……「憐れ」か」
 竹俣当綱はもう一度、ひとり苦笑した。
 そんな時、
「ご家老」と、藁科松伯は言った。
「われわれはたぐい稀な名君にめぐりあったのかも知れません」
「だが、まだ十二歳であろう?」
「年齢は関係ありません」
「では、先生も、直丸殿は臥竜だと?」
「はい」
 藁科松伯は満足気に深く頷いた。「直丸殿はまさに臥竜です」
「そうですか」竹俣当綱は話題をかえた。「…千坂対馬高敦から手紙が届きました」
「森氏のことですな?」
「はい。対馬は森の屋敷に伏嗅(スパイ)を入れるのに成功したそうです。それによると、森平右衛門利真は贅沢ざんまいな生活を送り、大きな池には贅沢な錦鯉を大量に飼い、なんと藩の金をも私的に流用していたといいます。これは許しがたい」
「まさに元凶ですな」
「まったく」
「色部さまにはそのことは…?」
「伝えて申す」
 竹俣当綱は言った。元凶、森平右衛門利真打倒のために集まっているのは千坂対馬高敦、芋川縫殿正令、色部修理照長と、竹俣美作当綱の四人である。藁科松伯は四人の結束を大事にするように日頃から申告していた。
「森は許しがたい男でごさる」
 当綱は強く言った。その瞬間、当綱は心臓に杭を打たれた感覚に、肩を震わせた。
「まったくその通りでございます。世子のためにも、早めにのぞくべきです」
「悪貨は良貨を駆逐する……と申すから、森をのさばらせておくとよからぬ事になり申す」「朱に交われば……」松伯はそう言いかけて、ごほんごほんと咳をした。
「とにかく、森は許しがたい男でごさる。早めに除かなくては」
「まったく」
 当綱は強く頷いた。松伯は「われわれには名君もいますしね」とにこりとした。
 ……名君か。たとえ世子が名君のたまごとしても、わが米沢藩は大病にかかっている。ひとりの名君が出現したとしても……藩の再生はむりじゃ。
 夕暮れのオレンジがセピア色にかわり、障子を赤く染めていた。わが米沢藩は大病にかかっている。ひとりの名君が出現したとしても……藩の再生はむりじゃ。
 森は片付ける……しかし……それでも、藩はつぶれるだろう。
 竹俣当綱はひとりそう考えてしまった。


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