緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

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年末年始一気読みスペシャル特別編成『おんな城主井伊直虎』ブログ小説VOL.4

2017年12月30日 16時19分37秒 | 日記










































**井伊直虎って女性なのか!? NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」先取り人物事典**
 2017年大河ドラマの主人公は「井伊直虎」である。戦国ファンや同時代のゲーム好きには割とよく知られた名前だが、その一方で主役を演じるのが柴咲コウさんだと聞いて驚かれた方も少なく無いだろう。
 直虎って女性なのか!?
 答えは、イエス。彼女は幼名を「おとわ(幼名不明のため大河ドラマではおとわ、この小説では麗)」、出家して「次郎法師」と言い、最終的には地元・井伊谷(いいのや)の女地頭になって「井伊直虎」を称する。
 一体、直虎という「おんな城主」はどんな人物だったのか? 幼少期の「おとわ」時代から解説していこう。
(直虎が男性だったという説が一部報じられていますが、本稿ではこれまで検証されてきた女性説の資料をもとに解説していきます)
◆虎の目を持つ一族と呼ばれた井伊家の人々
 彼女は一体、ドコでいつ生まれたのか?
 井伊直虎に限らず、戦国時代の女性は、名前も年齢も分かっていないことが多い。
 徳川家康の正室・築山御前ですらそうなのだから、地方の小領主に過ぎなかった井伊家の女性など、ある意味、不明で当然だ。が、それでは物語が何も進まないから、ある程度は演出を伴って物語は進んでいく。
 ドラマ『おんな城主 直虎』で、直虎の幼少期は「おとわ」(柴咲コウさん)という。
 おとわの生年は、許婚者の亀之丞(かめのじょう・三浦春馬さん)が1535年生まれであるため、1535±5年と推測。亀之丞にとって彼女は、年下の可愛い女の子であったとも、年上の男勝りの女の子であったとも言われている。
 作家は、数ある説の中から、ストーリーに都合のいい説を選びがちだ。それがメディアを通じて広まり、いつしか「定説」となり、気がつけば「真説」として定着してしまう。さて、大河ではどう描かれたか。
 柴咲コウさんの気丈なイメージ、かつ三浦春馬さんの優しげな風貌からして、直虎が年上となる。
 いずれにせよ井伊一族には、不思議な伝承がある。
 虎の目を持つ一族――というのがソレ。
 「虎の目」とは、「野性的な目」と解されるが、私は「茶色の目」と解している(茶色の目の持ち主といえば、時代劇の俳優なら静岡県出身の里見浩太朗さん、アイドルなら大島優子さんや橋本環奈さん辺りだろうか)。
 相手に安心感を与えて信頼される目。人を惹きつける目。魅力的な目ということであろう。
 おとわの父親は、井伊22代宗主直盛(なおもり・杉本哲太さん)である。直盛の幼名は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「虎松」とある。「虎丸」とする説もあるが、いずれにせよ、虎の目を持つ人間であったのであろう。
 一方、おとわの母は、ドラマでは新野千賀(ちか・財前直見さん)となっている。新野氏は、今川氏の庶子家で、御前崎市新野の地頭(この当時の「地頭」は「領主」の意)であった。井伊家と新野氏・娘との結婚は、今川氏との結びつきを深めるための政略結婚だったとされている。
 こうした両親のもと、おとわが生まれた場所は井伊谷(いいのや・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊氏居館と伝えられている。
 が、残念ながら直盛夫妻が授かった子は「おとわ」のみで、井伊家の宗主であるにも関わらず息子に恵まれなかった。
 そこで井伊20代宗主直平(なおひら・おとわの曽祖父、前田吟さん)が、「男子が生まれなかった場合は、わしの息子の井伊直満(なおみつ・宇梶剛士さん)の子・亀之丞と、おとわを結婚させる。亀之丞に井伊家を継がせるのだ」と決めた。
 おとわが、まだ2~3歳の時だったという。
◆亀之丞は信州へと亡命 出家して「次郎法師」を名乗る
 「おとわ」と呼ばれていた時代、彼女は宗家の娘として、何不自由なく過ごしていた。
 が、間もなく悲劇が起きる。井伊直満(亀之丞の父)が今川義元に誅殺されてしまった上に、当時のならいで息子の亀之丞(当時9歳)にも殺害命令が出されたのだ。直虎の許婚者であり、井伊家宗主候補だった亀之丞は、かくして信州へと亡命し、消息不明となってしまう。
 若かりしおとわが絶望の底へ突き落とされたのは想像に難くない。
 当時の女性の結婚適齢期は13歳前後と言われている。その年頃になったおとわは、なぜか自分で自分の髪を切り、大叔父の南渓和尚(なんけい・龍潭寺二世住職・小林薫さん)の元へ出向いた。
「出家したい。尼の名前を付けて欲しい」
 それを聞いたおとわの両親(直盛・千賀)は驚いて、「尼の名だけは付けるな」と南渓和尚に迫ったという。両者の板挟みにあった和尚は、親の意を汲んだ「次郎」という俗名と、娘の意を汲んだ「法師」という僧名を合わせ、「次郎法師」と名付けた。
※このあたりのヤリトリは、江戸中期に祖山和尚(龍潭寺九世住職)によって書かれた『井伊家伝記』に、まるでその場にいたような描写で書かれている
 おとわが「出家したい」と考えた理由は
「(亀之丞はいつか帰ってくると信じて)愛を貫くため」
 すなわち、次々と舞い込む縁談を断るためとも
「(亀之丞が死んだと信じて)いいなずけの菩提を弔うため」
 とも言われている。
 ドラマ風にアレンジするならば、おとわは亀之丞だけを永遠(とわ)に愛したのであった。
◆桶狭間で直盛が死んだけど、直政が生まれた
 南渓和尚が付けた「次郎法師」の「次郎」という俗名は、井伊家当主が使う通称である。
 つまり、「次郎法師」とは女性(尼)の名ではなく、男(僧)の名であった。この「次郎法師」と名乗っていた時期を「男として生きる準備期間であった」と位置づけている方もおられる。
 亀之丞(9歳)が信州に亡命して10年後の弘治元年(1555)2月、ハタチになった亀之丞が井伊谷に帰ってきた。
 ここで「次郎法師」という名が活きる。尼であれば還俗できないが、僧であれば還俗して結婚できるのである。
――次郎法師は、還俗し、亀之丞と結婚して、幸せに暮らした。
 と書きたいのであるが、現実はさにあらず。彼女は、還俗をしなかった。むろん結婚もしていない。なぜか。
 理由として考えられるのは、彼女の結婚適齢期を超えていたからということもあろうが、亀之丞がすでに信州で子(高瀬姫・後の彦根藩家老の川手氏の妻など)をもうけていたことにショックを受けたのであろう。
「立場が上である嫡流の彼女は愛を貫いたのに、傍流の男に裏切られた」
 つまり宗家が舐められたとしてプライドを傷つけられ、還俗も結婚もしなかったのではなかろうか?と私は思う。
 結局、亀之丞は直盛の養子となり、元服して直親(なおちか)を名乗った。そして、奥山氏(井伊家の庶子家)の娘・しの(奥山家文書によると実名は「おひよ」・貫地谷しほりさん)と結婚したのである。
 直虎にとっては不運な運命としか言いようないが、井伊家にとっては、ひとまず跡取りが現れ、安泰。と、そんなところで歴史を揺るがす大事件が起きる。
 桶狭間の戦いである。
 永禄3年(1560)5月19日、直虎の父・直盛が「桶狭間の戦い」で殉死すると、母・千賀は出家して「祐椿尼」(ゆうちんに)と称し、直親が23代宗主となった。そして、翌永禄4年(1561)2月9日、新しく虎の目を持つ男の子が生まれた。
 名は直盛と同じ「虎松」。後の徳川四天王・井伊直政である。歴史を知る我々からすれば、なるほどこれで井伊家の家運は上昇したのであろうか、と考えがちかもしれないが、そうは簡単には進まない。
 翌永禄5年(1562)、今度は井伊直親(三浦春馬さん)が「徳川家康に内通している」として、今川忠臣の朝比奈泰朝に誅殺されてしまったのだ。
――そして井伊家には成人男性がいなくなった。
◆井伊谷では「静の直虎・動の直政」と対比される
 井伊家が消滅する。
 そう思われたが、1つの望みはあった。虎松である。次郎法師は、還俗して「井伊次郎直虎」と名を変え、虎松の後見人となった。
 「女城主・井伊直虎」の誕生である。
 その名に恥じない武将として、『彼女はさぞかし勇ましい男として生きたのだろう』と考えられがちだが、地元・井伊谷では「女地頭・次郎法師」と呼ばれ、物静かで優しい女性だったと伝わっている。
 「静の直虎・動の直政」と対比されるほどで、ドラマではどう描かれるか楽しみの一つだ。
 実際、彼女が「女城主」だった頃には、幸いなことに大きな戦いもなく、「女武将」としての勇ましい手腕は未知数だ。むしろ「女地頭」「女領主」としての内政能力のほうが高く評価され、土地訴訟の解決や新田開発に力を入れた。
 地味な話ではあるが、直虎最大の功績は、今川氏真が永禄9年(1566)に出した「井伊谷徳政令」を2年間凍結したことであるとされる。
 ただし、永禄11年(1568)11月9日に徳政令を施行すると、地頭職を解かれてしまい、さらに命まで狙われるようになった。そこで直虎は尼となって「祐圓尼」(ゆうえんに・「圓」は「円」の旧字体)と名乗り、実母の祐椿尼(ゆうちんに)と共に龍潭寺に入った。
 後の井伊直政である虎松は鳳来寺へ。また、時をおいて虎松の実母・しのは、徳川家臣・松下源太郎清景(きよかげ)と再婚した。
◆「日本最強の赤備え」山県隊が井伊谷に襲いかかる
 直虎の地頭解任後、家老であった小野政次(高橋一生さん)が地頭に任命された。
 が、その期間は短く、わずか1ヶ月。永禄11年(1568)12月に徳川家康(阿部サダヲさん)が三河国から侵攻してきたのだ。旧井伊領は徳川氏に寝返った「井伊谷三人衆」のものとなり、小野政次は家康によって処刑された。
 その後、家康の遠江侵攻を阻む戦いが、堀川城(気賀)や、堀江城(舘山寺)で行われ、井伊谷衆は、徳川方として戦った。
 祐圓尼は、これらの戦いには参加していない。合戦によって多くの死者が出て、各地で葬儀が重なったにも関わらず、僧侶自身も戦いで多くが亡くなってしまい、南渓和尚と祐圓尼が葬式のために回ったことが『南渓過去帳』から窺い知れる。
 そして元亀3年(1572)、武田軍が遠江国に侵攻すると、12月22日、徳川軍と三方ヶ原で衝突。武田軍が勝利をおさめ、旧井伊領はそのまま武田領となった。
 武田軍は、旧井伊領刑部で越年すると、翌年1月3日には「日本最強の赤備え」と恐れられた山県隊が井伊谷に襲いかかった。この時、龍潭寺は全焼。後日、武田信玄が死ぬと、旧井伊領は家康が奪い返し、再び井伊谷三人衆の領地となる。
 天正2年(1574)12月14日、井伊直親の13回忌法要に、後の井伊直政・虎松が鳳来寺から龍潭寺へやって来た。実母・しの、南渓和尚、祐圓尼(直虎)、祐椿尼(直虎の実母)の話し合いにより、虎松は鳳来寺へ帰さず、しのの再婚相手・松下清景の養子とした。
 「松下虎松」の誕生は、すなわち約600年続いた名門・井伊家が途絶えたかのように見えた。が、彼等の狙いはそうではなかった。
 松下虎松の将来について、しの、南渓和尚、祐圓尼、祐椿尼たちは、
――徳川家康に引き合わせ、仕官させよう。
 ということになったのだった。祐圓尼は、家康と対面させるために着物を縫い、遠くからでも目立つように四神旗を作ったという。
 そして天正3年(1575)2月15日、鷹狩に出た家康は、首尾よく虎松を見つけると……
――こやつ虎の目を持っておる。はて、どこかで見たような?
 と、浜松城へ連れて帰り、身元を聞いて納得した。徳川に寝返ろうとして討たれた直親の子であり、桶狭間の戦いでは共に先鋒を務めた直盛の孫(直親は直盛の養子)であると知り、
――取り立てずんば叶わじ(召し抱えないわけにはいかない)
 として、虎松を小姓にし、「井伊」の復姓を許して「井伊万千代」と名付けたのだ。所領は300石。後の井伊家大躍進から見ればまだまだ小さな石高であったが、ともかく井伊家は、家康のおかげで絶えずに済んだのである。祐圓尼は喜んだ。
◆時には男として生き、生涯未婚 早すぎる死を……
 万千代の仕官後、祐圓尼は、愛した人の子の出世を祈り続けた。
 彼女の祈りは届いたのであろう。天正10年(1582)6月2日の本能寺の変に続く「神君伊賀越え」では、万千代も功績をあげ、家康から「孔雀の陣羽織」を賜るなど順調に出世していった。それに安心したのか、同天正10年(1582)8月26日、祐圓尼は、龍潭寺の松岳院で南渓和尚に看取られながら、静かに息を引き取った。病魔に侵され早すぎる最期ではあったが、死に顔は穏やかであったという。
 井伊家を虎松(万千代→井伊直政)に引き継いだ女性は、時には男として生き、生涯未婚であった。享年は不明だが、母・祐椿尼の死から4年後であることから早逝であることは明らかであり、当時の平均寿命50歳には程遠かったと考えられている。
 位牌と墓は、彼女の戒名「妙雲院殿月舩祐圓大姉」にちなんで「妙雲寺」と改名された菩提寺の自耕庵にある。
平成19年(2007)、彦根城築城四百年記念祭に合わせて、龍潭寺の境内に「徳川四天王 井伊直政公出世之地」碑が建てられた。まるで、龍潭寺での祐圓尼の祈りのおかげで、直政が出世できたと言わんばかりのその佇まい。
 徳川家康は、約17年間、遠江国(浜松)で過ごし、その間、遠州(遠江国のこと)の多くの武将が家康の軍門に下ったが、「徳川二十八神将」に選ばれた遠州人は、井伊直政、只一人である。
 直政の出世はさほどに異例であり、神がかっていたとしか言いようが無く、彼自身の努力の賜物であることは間違いないが、「井伊」という名門の血、人を魅了する虎の目、そして、祐圓尼の祈りが、出世に無関係だったとは言い切れない。*
<著者/戦国未来>



駿河上田の田んぼではのちの大盗賊の竜雲丸(りゅううんまる)と弟の時宗丸(ときむねまる)がドジョウ取りをふんどし姿でやっていた。当時、五歳かそこらである。
「兄上~っ。」時宗丸はもうあきたとばかりに畦道にすわって文句を言う。
竜雲丸は「あと少し。ドジョウは母上の病気によいのじゃ」
とドジョウすくいの籠をかまえて粘り強い。畑の川辺ではおんなたちが歌をうたいながら洗濯をしている。竜雲丸・時宗丸の父親である五右衛門は、
「竜雲丸!時宗丸~!」と笑顔で声をかけて近づいた。「ドジョウすくいか?よしわしも!」
しばらく親子はドジョウをとった。「そっといけよ。おーっ!」
親子は泥だらけになった。
五右衛門は手ぬぐいで息子の顔を拭いた。「竜雲丸はいい面(つら)になりそうだ」
「侍の面か?」
「いい面が侍の面かどうかはわからんぞ。田を耕す百姓も商人もみんないい面をしておる。そういう意味ではみんないい面じゃ」
そうか、とばかりに幼い竜雲丸や弟の時宗丸は頷く。
そんな時、畦道を孔雀のような羽根の旗指物をした伝令の侍が馬で駆け抜けた。
「何かあったのやもしれんなあ。」
五右衛門は不安になった。
 駿河の国主・今川義元は関東の平定のために行軍していた。
たぐいまれな軍事の才で関東を束ねるという使命に燃えていた。軍の行進で、白馬にまたがる今川義元。旗印や今川家の家紋などがたなびく。
一時関東の山奥で布陣をはり、幔幕のなかで休憩した。織田信長に討たれることになる今川義元、である。
近藤景綱は酒樽から酒をすくって呑んで、
「武田信玄め!またしても関東に出てきおって!」と文句。
長尾晴家は「北条と手を結び、ぬけぬけと関東をあらしまわってるわ!」
後藤高広は「それにしても北条め!我らが正々堂々と堕とした下野(しもつけ)常陸(ひたち)の城をまた寝返らせるとは。」
佐藤宗信は「この山さえなければ、関東平定などたやすいものよ」と苦い顔をする。
今川義元は「山に邪心はない。邪心あるものは必ず滅びよう。われらは駿河管領としてこの関東を不動明王に恥じないすばらしき義の国とすることじゃ。義の心を掲げ、その役目をまっとうするのみ!」という。
そこに孔雀のような羽根の旗指物をした伝令の男がきた。平伏する。
「いかがした?」
伝令は焦って、
「御屋形さまの命を受けて動いていた小野道好(道高の子)さまと井伊直満さまが家臣の讒言により井伊谷城でお討ち死に!」という。
「何と??!!」
義元は驚いた。
今川家は井伊家とは犬猿の仲だった。
井伊谷城下は混乱の渦である。
小野道好は今川家家臣小野道高の実の子供であり、井伊家の監視役。井伊家にはのちの井伊家当主となる十歳の井伊直親と九歳の許嫁の井伊麗姫(のちの次郎法師・直虎)のみ。
幼い井伊直親には誰もついてはこない。
直親の父親・井伊直満も小野と同じく横死し、直虎の母親・祐椿尼だけが残されていた。
もう井伊谷城や城下は騒乱の渦である。五右衛門の家でも妻のお藤が幼い息子たちに、
「竜雲丸、時宗丸!家の中に入るのです。戦になるやも知れない。いいですね?出てはなりませんよ!」といい家に急いだ。
竜雲丸(のちの大盗賊)だけは「戦かあ。」と、にやりとする。
騒然の井伊谷城下である。
そこに馬にのって今川義元がやっていた。
「射るな!射るな!」五右衛門は足軽達が義元公に矢を射るのを止めた。
だが、少しの矢は放たれた。だが、さすがは太守さまだ。刀で矢をはじいた。
竜雲丸は山道の近くでそれを観て、「あれが今川義元さまか。」と関心した。
その義元は怪物のようだが雑兵数十人の軍団を刀で一刀両断にした。
そして蹴り上げると雑兵達はくずれ、たおれた。みねうちであり、死者はない。
雑兵たちは驚愕して腰を抜かすぐらいに騒乱する。
「道をあけよ!われは重臣・小野道好・井伊直満の弔いに参った!」という。
黒い鎧にマントすがたの今川義元はまさに太守さまである。公家のように眉を剃り、おしろいで顔は真っ白だ。「まろに道をあけよー!」
雑兵は道を開けざるを得ない。

「なんとおいたわしや。しかし、祐椿尼、心配なさるな。尼御前にはこの今川義元がついておりまする」小野道好と井伊直満の遺体をみた義元は祐椿尼を励ました。
娘の麗姫も許嫁の直親も哀しい顔で遺体をみていた。
今川義元(いまがわ・よしもと)は不動明王の化身と称し、駿河を束ねていた。
井伊直親と今川義元は山麓から領地をみた。
「わしのことを戦の天才、神仏、不動明王の化身というものもいる。尊敬するものもいる。だが、神ではない。わしとてひとりの生身の人間……。哀しいときや辛いときや泣きたいときもある。じゃが、民のために民のための国をつくる覚悟がある!いいか、井伊直親。民をいつくしむ民のための政が肝要じゃ!わしとともに不動明王に恥じぬいい国をともにつくろうではないか!」
義元は目を細めた。
無口で有名な井伊直親(のちの次郎法師・直虎の許嫁)は無言で頷く。まさに、圧巻である。
 井伊直親とその小姓の少年達は学び舎である駿河の龍譚寺(りょうたんじ)で学ぶこととなった。教えるのは僧侶長の南谿瑞聞(なんけいずいけん)和尚と坊主達である。
だが、井伊直親は無口で表情もなく、なんとも困った性格であった。
口が重く、人間関係をつくるのが苦手であった。
祐椿尼や弟の直信は遠くで見ていた。
やはり、井伊直親は誰ともうちとけずひとりっきりで暗い顔をしていた。
祐椿尼は「娘の許嫁の直親はあのように口が重く、他の小姓達もいちはやく直親の意思を汲もうと必死なのですが。これは困ったことです」
南谿和尚は無言「………。」
井伊直信は「姉上は直親の“北斗の七星”をおもとめなのですな?」ときく。
「北斗の七星……。」
祐椿尼は頷いた。
北の夜空に炯々と輝く北斗の北神の星…。それを守るように輝く北斗の七星……
祐椿尼は井伊直親にたてついたある少年を考えた。
間違いない。あれぞ井伊直親の北斗の七星であろう。
 さっそく祐椿尼は竜雲丸を小姓に、という話をすすめた。
当然、坂上城の勘定奉行にすぎない五右衛門は大喜びだった。
「いいか。竜雲丸!お前を井伊直盛さまのご養子で直虎さまの許嫁の直親さまの小姓に…というありがたい話がきた。これからはお主は直親さまの小姓じゃ。わしなんぞは上田の坂上城の勘定奉行がせいぜいだったが、お前は井伊家の家老にさえなれるやも知れん。いい話であろう?」
「竜雲丸を小姓に?五歳で小姓に、などきいたこともありません。」
母のお藤は戸惑った顔をした。
「辛抱じゃ。これは井伊様、祐椿尼さまからのありがたいお話なんじゃ」
だが、竜雲丸は反発した。
「そんなものにはならん。わしは父上と同じ坂上城の勘定奉行になるのじゃ。ならん」
「なんじゃと?!!」
「そんなものにはならん!」
……馬鹿者!父親の坂上五右衛門は息子の竜雲丸を納屋に閉じ込めた。
「そこでよっく考えてみよ!」
「父上-!母上-!うええぇん。」竜雲丸は泣く。「よい子になるからだしてくだされ。小姓なんかになりとうはない。うえええぇん。いい子になるから。家に居たいんじゃ。うえええぇん。うええぇん。」
夜中になっても閉じ込めて、竜雲丸は泣き続けた。
ふとんに横になっていた五右衛門はお藤に言った。「ならん」
「様子をみるだけにございます」
「ならん」
お藤はその夜、泣き続けた。そして、覚悟を決めた。
 その朝に竜雲丸を納屋からだしたお藤は言った。
「竜雲丸。……何故に紅葉はあんなに鮮やかなのかわかりますか?」
「…母上。」
「紅葉が赤く鮮やかなのは御屋形である大樹の身代わりとなってああやって赤や黄色に色づき身代わりで散っていくのです。来たるべき厳しい冬に備えて身代わりで散っていく…」
「…身代わり?」
「お前はもう母の子ではない。この遠江の井伊谷の子となりなさい。紅葉のような家臣となるのですよ。」
「いやじゃ!いやじゃ!うええぇん。」
「もう決めたことなのです!」
親子は泣きながら抱擁した。「もう決めた…こと…なのですよ」
「…母上……」「…竜雲丸。」
こうして親子は離れた。
 坂上竜雲丸(のちの大盗賊)は龍譚寺に出奔した。
上座に今川義元や祐椿尼や井伊直信や直親・直虎がいて、横座に小姓の少年たちがいる。
わずか五歳の竜雲丸はやってきて、
平伏して「坂上城勘定奉行坂上五右衛門の一子、竜雲丸でざいます。この度は直親さまの小姓となるべく誠心誠意………」言葉が続かない。苦い顔の竜雲丸…
南谿和尚は「言葉が続かないのは他のものの言葉を鵜呑みにして語ろうとするからじゃ。まだ出ぬか?そなたの本当の言葉が……?」
すると竜雲丸は無言から一転して不敵なまでの言葉を発した。
「わしは……わしは侍ではなく大盗賊になるのじゃ!」
今川義元は笑った。「わはははっ。面白い」竜雲丸に近づき頬をひねった。「気に入った!」
これが直親の北斗の七星であろう。
さすがは今川義元である。さすがは井伊直虎である。
竜雲丸の才覚を見抜いた。
だが、竜雲丸は幼すぎる。まだ五歳でしかない。
……母恋しの気持ちは抑えきれない。
紙の母親の肖像画を見て「…母上。」と泣いていると直親が声をかけた。
「…母御にあいたいのか?」
「あわせてくれるのか?帰ってもいいのか?」
「……。」
「これ!無礼であろう!帰れるわけがなかろう!」先輩の小姓の少年が竜雲丸を諫める。
またも直親は無口である。
その深夜、竜雲丸は龍譚寺から姿を消した。気づいたのは直親のみ。他の小姓少年達は眠っていた。竜雲丸はふとんにいなかった。
すぐに直親は和尚の部屋のふすま越しに「竜雲丸がおりません。…もしや里親の元に帰ったのかと。どうすればよろしいでしょうか?」と問う。
南谿和尚はふとんのまま、
「それを決めるのはわしではありませんな。亀之丞(直親)殿が竜雲丸をどうしたいか…でしょうな。」


****続く(刊行本または電子書籍に続く)続く*******
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