緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

年末年始一気読みスペシャル特別編成『おんな城主井伊直虎』ブログ小説VOL.3

2017年12月30日 16時16分08秒 | 日記
































徳政令を出す迄に地元の成金商人・大河ドラマでは瀬戸方久を家臣として、領地を与え、村への徳政令(商人に百姓の借金を棒引きにする命令)を年貢によってなしにするという直虎のアイディアだった。しかし、農民らは伊井谷を乗り越えて、直接、今川氏真に徳政令を要求した。直虎は村の集団に瀬戸方久を人質にとられ、「徳政令を出さねば方久の命はない」と恫喝。しかし、直虎は農村の稲を僧侶たちとともに植え始める。「そんなことをしてもおらだらはほだされないぞ!」しかし、直虎は「確かにお主らの村は瀬戸方久の所領とした。しかし、井伊家の借金のためではないぞ。方久が村の領主となれば年貢が入る。これでそなたたちの借金は年貢で払われる」「徳政令のほうがいいだで!」「目先のことばかり考えるではない!確かに徳政令をだせばお主らの村の借金はなくなる。だが、今後、また借金ができたら?凶作にまたなったらどうする?確かに方久は強欲じゃ。なれど自らの所領となれば銭を得たくてお主らのいいように銭をうむ妙案も考え、お主らを大事に扱おうぞ。今の井伊家には銭も人材もいない。今は方久のような裸一貫から豪商になりあがったような人材が大事なのじゃ!勿論百姓のお主らもじゃ!われを信じてくれぬか!!?」「………初めから……そういってくれれば。」「んだんだ。」「田植えじゃ。田植えじゃ。」
二度も太守である今川家の命に背いたことで直虎は呼び出しをくらう。「おなごじゃからとおおめにみてはくれないですかのう?」南溪和尚は「無理だろうのう。向こうの実質的な太守もおなご(寿桂尼)じゃからのう。おなごじゃからと馬鹿にすることもないかわりにおなごじゃからとおおめにもみてもくれないじゃろう」
こうして直虎は駿河の今川屋敷に召喚される。道中、今川からの刺客たちが直虎の命を狙うが、傑山・昊天ら僧兵に命を守られる。直虎は「お主はどうやって領土を豊かにする?」という寿桂尼の問いに「民を潤しまする。大名や武家は、百姓の年貢あっての家禄でござりますれば、国が潤えば民百姓も豊かに暮らせまする」「……なるほど。さすがは出家上がりに直虎なる男名を名乗り井伊谷を治めるおんな城主じゃ。このおんな大名寿桂尼、感心した。井伊谷の領主は直虎…そちじゃ!」こうして、井伊直虎は牛歩戦術で時間をかせぎ2年半後、徳政令を出す。瀬戸方久は領地で綿毛の栽培のアイディアまで出したという。今川家が滅んだのはその半年後の永禄十三年(1569)である。徳川家康と武田家が密約を結び、井伊谷三人衆(鈴木重時しげとき・近藤康用やすもち・菅沼忠久すがぬま・ただひさ)の手引きで徳川が遠江から武田が駿河から侵攻して今川家を滅亡させたのだ。
この後、盗賊、竜雲丸たちと直虎は出会い、ひと悶着があり、井伊家・井伊谷を守る。
さて、武田信玄につくか?それとも徳川家康(松平元康)につくべきか?
そこで井伊直虎は亡き元・いいなづけの井伊直親の“徳川びいき”を思い出す。
「ここは徳川さまに義理の息子を仕官させるしかない。井伊家の未来はこの小童に託されている。見ていてくだされ、直親さま。」
まず、井伊直虎は、三河(愛知県 新城市)の鳳来寺(ほうらいじ)で学問好きの家康に好かれようと、幼い虎松(のちの井伊直政)に学問をしこんだ。また未亡人となっていた直親の元・妻しのを徳川家の重臣の松下源太郎と再婚させた。
政略結婚である。直虎は義理の息子を家康に仕官させようと就職活動に知恵をねった。
井伊直虎は自ら鮮やかな小袖を縫って十五歳の直政に着せて、鷹狩りの徳川家康と対面させて仕官させた。天正3(1575)年2月15日のことである。
「家康さま。ある尼と若い者があいたいと申して参上していまする」
普通は大大名の徳川家康にあえる筈はない。だが、直虎は家康の鷹狩りの日を調べて参上したのだった。徳川の幔幕の中の徳川家康は「誰じゃ?まあ、こんな遠くの山中だ。逢おう」家康は尼姿の直虎と立派な裃烏帽子直垂すがたの直政にあった。
「実は虎松(のちの井伊直政)は松下源太郎さまの実子ではなく、本当の父親は井伊家の井伊直親というわれの元・許嫁であり、直親も徳川さまに仕官したいと希望していました」
「…ほう。」
「しかし、暗殺され井伊家は没落いたしました。われらは徳川さまに頼るしかない!」
直政も「家康さま!禄は少なくてもかまいません!何でもやりますのでどうか家臣にしてくだされ!お願い申します!」
家康は井伊直政をただならぬ者と感じた。(「徳川実記」より)
「わかった!これよりこの徳川家康の、わしのそばにおれ!そなたの名は今日より虎松でなく井伊万千代(のちの直政)と名乗るがよいぞ!」
「ありがたき幸せ!」
喜び合う直虎と直政。……これで井伊家も安泰じゃあ。その後、井伊直政は“井伊の赤鬼”と恐れられていく。草履番から足軽、色小姓、武将そして軍師へと大出世をするのだ!のちに彦根藩三十五万石、五人もの幕府大老を出すにいたる。徳川幕府の屋台骨であり、徳川四天王(酒井忠次・榊原康政・井伊直政・本多忠勝)のひとりである。
徳川家康は直政の力量をわかり、家臣に取り立てた。
そこからが鯉もかくあらんという大出世を井伊直政はする。
家康の暗殺を未遂におわらせ、明智光秀「敵は本能寺にあり!」……本能寺の変(天正10(1582)年6月2日)で織田信長が死ぬと、近くにいた徳川家康をすくう。
いわゆる伊賀(三重県)超えで、徳川家康を三河の城まで守った。
そこで、井伊家は近江の彦根に領地をあらたに与えられ、直政は武功により“孔雀尾具足陣羽織(くじゃくおぐそくじんばおり)”を与えられた。
井伊直虎が死ぬのはこの伊賀超えの三ヶ月後、享年四十七歳、であった。
井伊家の繁栄を確証したかのような死、であった。
義理の息子・井伊直政は二十年後の関ヶ原で、敵陣突破を謀った薩摩の島津を撃追して、戦勝の恩賞で彦根三十三万石の大大名になる。
井伊直虎の墓は元いいなづけの井伊直親のとなり、であった。そこで彼女は永遠の眠りに、ついている。

***
初夜の日、幾島に「しのさま、くれぐれも亀之丞様に好いていただけるように」
「わかっておる」
しの(亀之丞の隠遁地での愛人・のちの妻)は白い寝巻の着物で向かった。
しかし、亀之丞は「わしは疲れた。もうやすめ」などという。
「若様、ふつつか者なれど正室としてこのおしの、せいいっぱい務めて…」
「うるさいのう。目が覚めてしまったではないか。」
「すいません。」
「眠れぬ。何かおもしろい話をせよ。」
「イスパニアについて!」
「それのどこが面白い?昔話をせよ。」
「ははっ!…え~、昔々、すもうの好きな鼠の親子がおりました……」
「ほう。おもしろそうだ。それで?………?」
亀之丞は驚いた。「しの!寝ているのか。え~っ!」
人払いをした舘の寝室でふたりだけで話した。
「何故、若さまはうつけのふりなど?」
「わしはうつけではない」
「ですから何故そのようなふりを?」
「もういい。昨晩の鼠の話をせよ。すもうがすきだという。昔話じゃ。」
「あくまでうつけを演じ続けるおつもりですか?」
「………」亀之丞は考えた。
 するとしのは井伊亀之丞の胸に飛び込んだ。抱擁……
「うつけ殿なら謀略の的にはならん。わしは井伊家というより井伊の家族が守りたい」
「なればなおのことうつけのふりなど…」
「そなたになにがわかる?戦国大名は孤独じゃ。わしは大名になどなりたくはなかった。ずっとあやつとどこぞかの田舎で畑仕事でもしながら暮らしたい。だが、無理じゃ。わしは身体が弱くてのう。生い先は短い。だが、だからこそ井伊家の家族を守りたい」
井伊亀之丞は語り始めた。

  話を少し戻す。





**井伊直虎って女性なのか!? NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」先取り人物事典**
 2017年大河ドラマの主人公は「井伊直虎」である。戦国ファンや同時代のゲーム好きには割とよく知られた名前だが、その一方で主役を演じるのが柴咲コウさんだと聞いて驚かれた方も少なく無いだろう。
 直虎って女性なのか!?
 答えは、イエス。彼女は幼名を「おとわ(幼名不明のため大河ドラマではおとわ、この小説では麗)」、出家して「次郎法師」と言い、最終的には地元・井伊谷(いいのや)の女地頭になって「井伊直虎」を称する。
 一体、直虎という「おんな城主」はどんな人物だったのか? 幼少期の「おとわ」時代から解説していこう。
(直虎が男性だったという説が一部報じられていますが、本稿ではこれまで検証されてきた女性説の資料をもとに解説していきます)
◆虎の目を持つ一族と呼ばれた井伊家の人々
 彼女は一体、ドコでいつ生まれたのか?
 井伊直虎に限らず、戦国時代の女性は、名前も年齢も分かっていないことが多い。
 徳川家康の正室・築山御前ですらそうなのだから、地方の小領主に過ぎなかった井伊家の女性など、ある意味、不明で当然だ。が、それでは物語が何も進まないから、ある程度は演出を伴って物語は進んでいく。
 ドラマ『おんな城主 直虎』で、直虎の幼少期は「おとわ」(柴咲コウさん)という。
 おとわの生年は、許婚者の亀之丞(かめのじょう・三浦春馬さん)が1535年生まれであるため、1535±5年と推測。亀之丞にとって彼女は、年下の可愛い女の子であったとも、年上の男勝りの女の子であったとも言われている。
 作家は、数ある説の中から、ストーリーに都合のいい説を選びがちだ。それがメディアを通じて広まり、いつしか「定説」となり、気がつけば「真説」として定着してしまう。さて、大河ではどう描かれたか。
 柴咲コウさんの気丈なイメージ、かつ三浦春馬さんの優しげな風貌からして、直虎が年上となる。
 いずれにせよ井伊一族には、不思議な伝承がある。
 虎の目を持つ一族――というのがソレ。
 「虎の目」とは、「野性的な目」と解されるが、私は「茶色の目」と解している(茶色の目の持ち主といえば、時代劇の俳優なら静岡県出身の里見浩太朗さん、アイドルなら大島優子さんや橋本環奈さん辺りだろうか)。
 相手に安心感を与えて信頼される目。人を惹きつける目。魅力的な目ということであろう。
 おとわの父親は、井伊22代宗主直盛(なおもり・杉本哲太さん)である。直盛の幼名は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』に「虎松」とある。「虎丸」とする説もあるが、いずれにせよ、虎の目を持つ人間であったのであろう。
 一方、おとわの母は、ドラマでは新野千賀(ちか・財前直見さん)となっている。新野氏は、今川氏の庶子家で、御前崎市新野の地頭(この当時の「地頭」は「領主」の意)であった。井伊家と新野氏・娘との結婚は、今川氏との結びつきを深めるための政略結婚だったとされている。
 こうした両親のもと、おとわが生まれた場所は井伊谷(いいのや・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)の井伊氏居館と伝えられている。
 が、残念ながら直盛夫妻が授かった子は「おとわ」のみで、井伊家の宗主であるにも関わらず息子に恵まれなかった。
 そこで井伊20代宗主直平(なおひら・おとわの曽祖父、前田吟さん)が、「男子が生まれなかった場合は、わしの息子の井伊直満(なおみつ・宇梶剛士さん)の子・亀之丞と、おとわを結婚させる。亀之丞に井伊家を継がせるのだ」と決めた。
 おとわが、まだ2~3歳の時だったという。
◆亀之丞は信州へと亡命 出家して「次郎法師」を名乗る
 「おとわ」と呼ばれていた時代、彼女は宗家の娘として、何不自由なく過ごしていた。
 が、間もなく悲劇が起きる。井伊直満(亀之丞の父)が今川義元に誅殺されてしまった上に、当時のならいで息子の亀之丞(当時9歳)にも殺害命令が出されたのだ。直虎の許婚者であり、井伊家宗主候補だった亀之丞は、かくして信州へと亡命し、消息不明となってしまう。
 若かりしおとわが絶望の底へ突き落とされたのは想像に難くない。
 当時の女性の結婚適齢期は13歳前後と言われている。その年頃になったおとわは、なぜか自分で自分の髪を切り、大叔父の南渓和尚(なんけい・龍潭寺二世住職・小林薫さん)の元へ出向いた。
「出家したい。尼の名前を付けて欲しい」
 それを聞いたおとわの両親(直盛・千賀)は驚いて、「尼の名だけは付けるな」と南渓和尚に迫ったという。両者の板挟みにあった和尚は、親の意を汲んだ「次郎」という俗名と、娘の意を汲んだ「法師」という僧名を合わせ、「次郎法師」と名付けた。
※このあたりのヤリトリは、江戸中期に祖山和尚(龍潭寺九世住職)によって書かれた『井伊家伝記』に、まるでその場にいたような描写で書かれている
 おとわが「出家したい」と考えた理由は
「(亀之丞はいつか帰ってくると信じて)愛を貫くため」
 すなわち、次々と舞い込む縁談を断るためとも
「(亀之丞が死んだと信じて)いいなずけの菩提を弔うため」
 とも言われている。
 ドラマ風にアレンジするならば、おとわは亀之丞だけを永遠(とわ)に愛したのであった。
◆桶狭間で直盛が死んだけど、直政が生まれた
 南渓和尚が付けた「次郎法師」の「次郎」という俗名は、井伊家当主が使う通称である。
 つまり、「次郎法師」とは女性(尼)の名ではなく、男(僧)の名であった。この「次郎法師」と名乗っていた時期を「男として生きる準備期間であった」と位置づけている方もおられる。
 亀之丞(9歳)が信州に亡命して10年後の弘治元年(1555)2月、ハタチになった亀之丞が井伊谷に帰ってきた。
 ここで「次郎法師」という名が活きる。尼であれば還俗できないが、僧であれば還俗して結婚できるのである。
――次郎法師は、還俗し、亀之丞と結婚して、幸せに暮らした。
 と書きたいのであるが、現実はさにあらず。彼女は、還俗をしなかった。むろん結婚もしていない。なぜか。
 理由として考えられるのは、彼女の結婚適齢期を超えていたからということもあろうが、亀之丞がすでに信州で子(高瀬姫・後の彦根藩家老の川手氏の妻など)をもうけていたことにショックを受けたのであろう。
「立場が上である嫡流の彼女は愛を貫いたのに、傍流の男に裏切られた」
 つまり宗家が舐められたとしてプライドを傷つけられ、還俗も結婚もしなかったのではなかろうか?と私は思う。
 結局、亀之丞は直盛の養子となり、元服して直親(なおちか)を名乗った。そして、奥山氏(井伊家の庶子家)の娘・しの(奥山家文書によると実名は「おひよ」・貫地谷しほりさん)と結婚したのである。
 直虎にとっては不運な運命としか言いようないが、井伊家にとっては、ひとまず跡取りが現れ、安泰。と、そんなところで歴史を揺るがす大事件が起きる。
 桶狭間の戦いである。
 永禄3年(1560)5月19日、直虎の父・直盛が「桶狭間の戦い」で殉死すると、母・千賀は出家して「祐椿尼」(ゆうちんに)と称し、直親が23代宗主となった。そして、翌永禄4年(1561)2月9日、新しく虎の目を持つ男の子が生まれた。
 名は直盛と同じ「虎松」。後の徳川四天王・井伊直政である。歴史を知る我々からすれば、なるほどこれで井伊家の家運は上昇したのであろうか、と考えがちかもしれないが、そうは簡単には進まない。
 翌永禄5年(1562)、今度は井伊直親(三浦春馬さん)が「徳川家康に内通している」として、今川忠臣の朝比奈泰朝に誅殺されてしまったのだ。
――そして井伊家には成人男性がいなくなった。
◆井伊谷では「静の直虎・動の直政」と対比される
 井伊家が消滅する。
 そう思われたが、1つの望みはあった。虎松である。次郎法師は、還俗して「井伊次郎直虎」と名を変え、虎松の後見人となった。
 「女城主・井伊直虎」の誕生である。
 その名に恥じない武将として、『彼女はさぞかし勇ましい男として生きたのだろう』と考えられがちだが、地元・井伊谷では「女地頭・次郎法師」と呼ばれ、物静かで優しい女性だったと伝わっている。
 「静の直虎・動の直政」と対比されるほどで、ドラマではどう描かれるか楽しみの一つだ。
 実際、彼女が「女城主」だった頃には、幸いなことに大きな戦いもなく、「女武将」としての勇ましい手腕は未知数だ。むしろ「女地頭」「女領主」としての内政能力のほうが高く評価され、土地訴訟の解決や新田開発に力を入れた。
 地味な話ではあるが、直虎最大の功績は、今川氏真が永禄9年(1566)に出した「井伊谷徳政令」を2年間凍結したことであるとされる。
 ただし、永禄11年(1568)11月9日に徳政令を施行すると、地頭職を解かれてしまい、さらに命まで狙われるようになった。そこで直虎は尼となって「祐圓尼」(ゆうえんに・「圓」は「円」の旧字体)と名乗り、実母の祐椿尼(ゆうちんに)と共に龍潭寺に入った。
 後の井伊直政である虎松は鳳来寺へ。また、時をおいて虎松の実母・しのは、徳川家臣・松下源太郎清景(きよかげ)と再婚した。
◆「日本最強の赤備え」山県隊が井伊谷に襲いかかる
 直虎の地頭解任後、家老であった小野政次(高橋一生さん)が地頭に任命された。
 が、その期間は短く、わずか1ヶ月。永禄11年(1568)12月に徳川家康(阿部サダヲさん)が三河国から侵攻してきたのだ。旧井伊領は徳川氏に寝返った「井伊谷三人衆」のものとなり、小野政次は家康によって処刑された。
 その後、家康の遠江侵攻を阻む戦いが、堀川城(気賀)や、堀江城(舘山寺)で行われ、井伊谷衆は、徳川方として戦った。
 祐圓尼は、これらの戦いには参加していない。合戦によって多くの死者が出て、各地で葬儀が重なったにも関わらず、僧侶自身も戦いで多くが亡くなってしまい、南渓和尚と祐圓尼が葬式のために回ったことが『南渓過去帳』から窺い知れる。
 そして元亀3年(1572)、武田軍が遠江国に侵攻すると、12月22日、徳川軍と三方ヶ原で衝突。武田軍が勝利をおさめ、旧井伊領はそのまま武田領となった。
 武田軍は、旧井伊領刑部で越年すると、翌年1月3日には「日本最強の赤備え」と恐れられた山県隊が井伊谷に襲いかかった。この時、龍潭寺は全焼。後日、武田信玄が死ぬと、旧井伊領は家康が奪い返し、再び井伊谷三人衆の領地となる。
 天正2年(1574)12月14日、井伊直親の13回忌法要に、後の井伊直政・虎松が鳳来寺から龍潭寺へやって来た。実母・しの、南渓和尚、祐圓尼(直虎)、祐椿尼(直虎の実母)の話し合いにより、虎松は鳳来寺へ帰さず、しのの再婚相手・松下清景の養子とした。
 「松下虎松」の誕生は、すなわち約600年続いた名門・井伊家が途絶えたかのように見えた。が、彼等の狙いはそうではなかった。
 松下虎松の将来について、しの、南渓和尚、祐圓尼、祐椿尼たちは、
――徳川家康に引き合わせ、仕官させよう。
 ということになったのだった。祐圓尼は、家康と対面させるために着物を縫い、遠くからでも目立つように四神旗を作ったという。
 そして天正3年(1575)2月15日、鷹狩に出た家康は、首尾よく虎松を見つけると……
――こやつ虎の目を持っておる。はて、どこかで見たような?
 と、浜松城へ連れて帰り、身元を聞いて納得した。徳川に寝返ろうとして討たれた直親の子であり、桶狭間の戦いでは共に先鋒を務めた直盛の孫(直親は直盛の養子)であると知り、
――取り立てずんば叶わじ(召し抱えないわけにはいかない)
 として、虎松を小姓にし、「井伊」の復姓を許して「井伊万千代」と名付けたのだ。所領は300石。後の井伊家大躍進から見ればまだまだ小さな石高であったが、ともかく井伊家は、家康のおかげで絶えずに済んだのである。祐圓尼は喜んだ。
◆時には男として生き、生涯未婚 早すぎる死を……
 万千代の仕官後、祐圓尼は、愛した人の子の出世を祈り続けた。
 彼女の祈りは届いたのであろう。天正10年(1582)6月2日の本能寺の変に続く「神君伊賀越え」では、万千代も功績をあげ、家康から「孔雀の陣羽織」を賜るなど順調に出世していった。それに安心したのか、同天正10年(1582)8月26日、祐圓尼は、龍潭寺の松岳院で南渓和尚に看取られながら、静かに息を引き取った。病魔に侵され早すぎる最期ではあったが、死に顔は穏やかであったという。
 井伊家を虎松(万千代→井伊直政)に引き継いだ女性は、時には男として生き、生涯未婚であった。享年は不明だが、母・祐椿尼の死から4年後であることから早逝であることは明らかであり、当時の平均寿命50歳には程遠かったと考えられている。
 位牌と墓は、彼女の戒名「妙雲院殿月舩祐圓大姉」にちなんで「妙雲寺」と改名された菩提寺の自耕庵にある。
平成19年(2007)、彦根城築城四百年記念祭に合わせて、龍潭寺の境内に「徳川四天王 井伊直政公出世之地」碑が建てられた。まるで、龍潭寺での祐圓尼の祈りのおかげで、直政が出世できたと言わんばかりのその佇まい。
 徳川家康は、約17年間、遠江国(浜松)で過ごし、その間、遠州(遠江国のこと)の多くの武将が家康の軍門に下ったが、「徳川二十八神将」に選ばれた遠州人は、井伊直政、只一人である。
 直政の出世はさほどに異例であり、神がかっていたとしか言いようが無く、彼自身の努力の賜物であることは間違いないが、「井伊」という名門の血、人を魅了する虎の目、そして、祐圓尼の祈りが、出世に無関係だったとは言い切れない。*
<著者/戦国未来>


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