緑川鷲羽(改名、上杉(長尾)景虎) 上杉奇兵隊日記「草莽崛起」<上杉松下村塾>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

おいどん!巨眼の男 西郷隆盛<維新回天特別版>西郷吉之助の真実ブログ連載小説2

2015年11月06日 08時39分11秒 | 日記







岩倉具視が「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として登場した十五代将軍。その慶喜が、徳川三百年の幕引き役を務める運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照引用
著者が徳川慶喜を「知能鮮し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用

大久保利通を漫画家の小林よしのり氏は『大悪人』『拝金主義者』『私利私欲に明け暮れた謀略家』と見ているようだ。
頭山満や玄洋社なる幕末・明治初期の極右過激派集団を英雄視させるための詭弁ではあるが、大久保利通は大悪人でもなければ謀略で私腹を肥やした訳でもない。
あまりに現実的で、冷徹なリアリスト(現実主義者)であるから大久保利通も岩倉具視も歴史的偉業を成し遂げたわりには人気がない。
だが、それもむべからぬことだ。権謀術数をつかい、明治政府の舵取りをした功績は、西郷や大隈や前原一誠のような(夢遊病的な)”非現実主義者”の「非現実な理想論」より卑怯に見える。
だが、政治や経済や国家運営には確かに理想も必要だが、それ以上に権謀も必要なのだ。革命が成功するには理想論だけではなく、政敵や敵を謀殺する覚悟がなければ何も成らない。
綺麗ごとだけで物事がうまくいくなら誰も苦労はしないのである。
他の路線を切り捨てる大久保の強さは現実路線だ。徹底した現実主義者であった大久保は綺麗事の非現実理想論をもっとも嫌ったという。
島津斉彬が在命中には寵臣・西郷隆盛(吉之助)がいて、大久保の出番はなかった。だが、斉彬は薩摩軍を率いて京に上る時期に病死してしまう。西郷は僧侶・月照とともに入水自殺を図り、自分だけ死なず島流しにあう。
いよいよ大久保の出番である。藩主として斉彬の何段も下の、人間的にも下賤で凡人の島津久光に、とりいる。これは西郷には出来ない技である。斉彬の毒殺説が本当なら「仇」であるからだ。
だが、現実には久光しかいない。現実主義である大久保利通は島津久光という愚鈍な凡人に取り入る為に久光の趣味の囲碁を練習した。
おかげで、無趣味の謀略家の大久保利通のたったひとつの趣味が囲碁、という笑えることになった。
大久保にとっては藩主・久光など「将棋の駒」でしかない。だが、久光は愚鈍であったが薩長同盟の利点を理解することだけは出来た。
久光は何もわからないから大久保の方針を妄信するしかない。王政復古の大号令のクーデターも戊辰戦争も”大久保頼り”であった。
廃藩置県で武家も大名も幕藩体制もなくなり、島津久光は殿様でもなんでもない平民となり、はじめて「騙された!」と気づくほどの愚鈍なひとであった。
大久保利通も岩倉具視も『闇の陰謀家』『闇の権謀術数家』と描かれることが多い。だが、世の中は綺麗事だけで偉業が成る訳ではない。
明治維新も理想論だけで成った訳ではない。大久保や岩倉を『大悪人』と考えても結構だが、夜郎自大も甚だしい。
すべての革命がそうであるように、権謀、駆け引き、遠慮なくしてことは成就しがたい。あるときは権謀が力を制して、時の主役になるときがある。
王政復古のクーデターは完全に岩倉具視が主役であった。
坂本竜馬や高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰、等の明治維新の英雄は血気にまかせ一途に理想に向かって走るタイプの人間である。若死にした為にダントツの人気がある英雄だ。
だが、大久保利通、岩倉具視ら「謀略家」は、ときに権謀術数をつかい、陰険な印象を人に与える。目的の為には犠牲を出すことも恐れないので、あまり維新の志士の中では人気がない。
果たした維新回天の功績・偉業の割には誤解され、ときに怨嗟の的となり、ときに悪役の俗物・大悪人と描かれたりする。
だが、世の中は綺麗事だけでは動かないのだ。綺麗ごとだけ声高に叫んで歴史が動くならそんなものは革命でも維新でもない。そんなことで物事も人心も動かない。
リアリスト、現実主義者が政府や組織にいなければすぐに”瓦解”するのがオチだ。大久保利通も岩倉具視も「綺麗事だけの非現実理想主義」より「現実の政策施策」で日本を近代化したかったのかもしれない。
だから、馬鹿げた元・侍たちに暗殺された大久保利通も、明治政府の知恵袋であったが病死した岩倉具視も最期は無念、であったろう。
『徳川慶喜(「五―王政復古 大久保利通「近代」を拓いた偉大なるリアリスト」)』松浦玲著作、プレジデント社刊+『徳川慶喜(五―王政復古 岩倉具視「王政復古」に賭けた「権謀術数」の人)』南原幹雄著作、プレジデント社刊(一部)+(参考資料)『岩倉具視』(中公新書)、『大久保利通』(中公新書)、『大久保利通の研究』(プレジデント社)、『歴史の群像・黒幕』(集英社)、『日本の歴史』(中公文庫)他。


 …………十年前。
 安政三年(一八五七)七月二十日。薩摩藩主・島津斉彬が死んだ。薩摩の名君とよばれたこの人物の死は、西郷吉之助にとって絶大なショック(衝撃)とうつった。
 後釜は、最低の島津久光である。只でさえ、藩が困窮し、腐敗していく中で、名君・島津斉彬が急逝したのは痛かった。
「なんという……なんということでごわすか」吉之助は屋敷の部屋で、落胆した。目頭に涙が潤んだ。
 吉井友供も「なんてごてことじゃ…」と泣いた。
「あの女だ」吉之助はふいに憎しみを、大きなる憎しみを込めていった。「お由良じゃ」「西郷どん!」
 吉井が咎めると、吉之助は巨体を動かしながら、「あの女子が悪いのでごわす」といった。薩摩藩は『お由良くずれ』と呼ばれる御家騒動が頂点に達していた。
 亡くなった薩摩藩主・島津斉輿は、正室との間に嫡男斉彬、次男斉敏をもうけ、側室
由良に三男久光を生ませていた。
 お由良は、江戸の三田四国町に住む大工の娘といわれたが、斉輿の寵愛をほしいままにして久光を生むや、「なんとしても自分の腹を痛めて産んだ子を薩摩藩主にしたい」という野望を抱くようになった。
 次男の斉敏は、因州・鳥取藩三十五万五千石を継いだから、あとは斉彬が死ねば次の薩摩藩主は久光しかいない。島津斉彬は薩摩藩主として誰がみてもふさわしい人物だった。 だから、いかにお由良が謀殺したくてもできなかった。父・斉輿も久光がかわいいのだ   
が、斉彬をしりぞける理由もない。当然、斉彬派(精忠組)とお由良派ができる。
 殿さまの斉輿がお由良派の意見をききいれ、精忠組を弾圧しだす。島津壱岐、近藤隆右衛門(町奉行)、高崎五郎右衛門ら十四名が切腹させられ、遠島の刑になったものが九名にものぼった。大久保の父も鬼界ケ島へ流刑にされ、大久保も役目をとりあげられている。 西郷吉之助もまた精忠組のひとりであった。
 のちにお由良騒動と呼ばれるその事件から八年目の年に、斉彬は死んだ。
 吉之助は亡き薩摩藩主・島津斉彬の供をして江戸にいったことを忘れない。その当時ペリー提督率いる黒船をみて唖然としたものだ。ときの十三代将軍・徳川家定にも謁見した。病弱のうえに子もなく……将軍はそんなひとだった。
 また島津斉彬は尊皇壤夷の志をもったひとで、西郷はそれを知って、
「おいにとって斉彬公は神のごときひとでごわすが、殿の異臭紛々たるには困りもす」
 と顔をしかめている。
 また、吉之助は斉彬が自分を重用してくれた恩も忘れてはいない。公は小役人から見出だしてくれ、右大臣・近衛家に娘を養女に迎えさせる使者にまでしてくれた。
「何事で、ござりもそ?」
「吉之助よ。いささか重い任務なれど引き受けてくれぬか?」公は笑顔でいったものだ。「ただひとつ、まごころであたれ」
 吉之助は島津家の娘・篤子を近衛家の養女にすることに成功した。そして安政五年、井伊直弼が大老になると、斉彬は「いよいよ決起のときがきた」といったのだ。
「いよいよ出兵でござりもそ?」
「そうだ。吉之助、はげめ!」斉彬はいった。薩摩に西郷あり、吉之助は名を知られるようになる。すべては公のおかげだった。
      
 ……そんな斉彬も死んでしまった。ときの十三代将軍・徳川家定も死んだという。
「あの女だ! おの女が殺したのんじゃ!」西郷は切腹しようとした。              
「やめなはん!」とめたのは勤王僧・月照だった。「月照どん! 死なせとうせ!」
「吉之助殿! やめなはん! 死んではならん……どうせ死ぬなら天下に命を捧げよ!」 月照はさとした。
 こののち井伊大老による『安政の大獄』が始まる。これは尊皇壤夷派の大弾圧で、長州の吉田松陰らが次々と捕らえられ処刑されていった。すべては幕府の延命のためだったが、諸藩の反発はますます高まった。            
 幕府の敵は薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)といっても過言ではなかった。
 当然、薩摩の壤夷派・西郷吉之助(隆盛)と月照も狙われた。

  その日の天気は快晴だった。
 馬関(下関)に吉之助と月照たちの姿があった。前面に海が広がる。
「西郷どん。あんさたちは狙われもんそ」付き添っていた有馬はいった。
 吉之助は「有馬どん……心配かけもうす」
「西郷どんは薩摩の英雄じゃっどん、死んではなかとぞ」
 西郷吉之助(隆盛)と月照は、弾圧の手を逃れ舟にのり鹿児島へ帰郷した。              
 また大久保一蔵(利道)も追っ手を逃れ、鹿児島へ戻った。
「西郷どん、死んではつまらんでごわすぞ」大久保は何度もそういった。
  西郷吉之助は一度結婚に失敗している。貧乏で、家族五人でボロ屋敷に住み、そんな生活に嫌気がさしていた当時の妻は、吉之助が江戸に出張したときに実家に逃げ帰ってしまったのだ。
 鹿児島では西郷吉之助は小姓組で、勘定頭わずか八十石の禄高の侍にすぎない。両親はすでに亡く、家は次男の吉二郎がみている。しかし、吉二郎は結婚していなかった。
 吉二郎は、いつも南国鹿児島の桜島の噴煙をながめながら、ゴロゴロと昼寝ばかりしていたという。大変に呑気なひとだったようだ。                                
「兄さん、ごろごろ昼寝ばかりしとんと、はよう嫁もらいたらどげかね?」
 妹のたかがいった。
「嫁など…」吉二郎は頭をかいた。「いらぬ。おいはひとりでじゅうぶんでごわす」
「またそげなこというて……吉之助兄さんが怒りはるで」
「吉之助兄さんは藩のために働いとる。おいはこの家を守っちょる。そげでごわそ?」
 妹は呆れて「どこが家守っちょるとでごわすか? はよう嫁もらわなんだら兄さんが困るんですえ?」といった。
 しかし、吉二郎は頭をかくばかりだった。

 大久保は「吉之助どん、無事でごわしたか!」と、鹿児島藩邸で再会を喜んだ。
「一蔵どんも……元気で何よりでごわす」
 吉之助は巨体を揺らして抱擁した。「何よりも無事が大事でごわす。天下乱れごっつときに死んだらつまらん」
「西郷どん、死んではつまらんでごわすぞ」大久保は何度もそういった。
「それにしても…」西郷はいった。「あのお由良……ゆるせなか」
「西郷どん!」吉之助より五歳年下の大久保は、まるで西郷の父のように諫めた。
「……おいたちはあの女に島流しにあいもうしたぞ。忘れたでごわすか?」
「忘れたばい」大久保は冷静にいった。「今は又次郎(のちの久光)さまの天下、あまり軽はずみなごていうとると足をすくわれござんそ」
「おいはかまわんでごわす」
 吉之助はどこまでも頑固だった。
  西郷吉之助(隆盛)と大久保一蔵は親友であり、同じ郷中の身分だった。斉彬公亡きあと、薩摩藩はお由良の子・又次郎(のちの久光)の世となっていた。
 吉之助はそれがどうにも我慢できない。
 斉彬公亡きあとの薩摩藩などないに等しい。……なにが藩制改革でごわすか?!            
「兄さん! よくご無事で!」
 まだ青年の末弟、西郷小兵衛がやってきて笑顔になり、白い歯を見せた。
「おう! 小兵衛じゃなかと」吉之助は笑顔をつくった。
 大久保もそんな兄弟の再会がほほえましい。何だかしあわせな気分になった。
  やがて藩の重鎮・柳瀬がやってきた。
 西郷たちは平伏する。
 柳瀬は「吉之助…」と声をかけたあと「わかっとっておろうな?」といった。
「は?」
「僧侶・月照のことである!」
 吉之助は緊張した声で「月照どんがどげんしたんでごわす?」と問うた。
 どうやら薩摩藩は幕府が怖くて、”壤夷派”の月照老師を”始末”するつもりらしい。……つまり「殺せ」ということだ。
「じゃっどん……なして月照どんを殺さねばならんとでごわす?」
 柳瀬は答えない。
「それで、薩摩がよくなりござそうろうや?」
 柳瀬はまた答えない。
「柳瀬どん?!」
 柳瀬はようやく「殺せ! それが幕府からの命令じゃ」と唸るようにいった。
「じゃっどん……」
「じゃっどん、はいらぬごで。始末せい西郷吉之助!」柳瀬は吐き捨てるようにいうと座を去った。一同は顔を見合わせ、深い溜め息をついた。
 ……薩摩は幕府のいいなりでごわすか?

          
「兄さん! ご無事で!」
 半年ぶりに帰宅すると、吉之助は大歓迎された。しかし、心は晴れない。
 いつも西郷吉之助の心の中には”月照上人”のことがあった。殺す? それでよかでごわすか? あの月照どんのような知恵者を殺してよかじゃろうか?
「どげんしたでごわす? 兄さん」
 親類たちは不安気にきいた。
「わかりもうさん……わかりもうさん」吉之助は頭を抱え、苦悩した。
 斉彬死後、すべてがかわってしまった。斉彬生存中は活躍していた藩士たちも粛清されていった。月照上人もそのひとりだった。

  間もなく藩の船は鹿児島湾へ漕ぎ出した。
 西郷吉之助、月照とともに、下男・重助、平野国臣と、藩がつけてよこした坂口周右衛門という上士が乗船している。
 もう夜で、屋形船からも障子を開けるとまるい月が見える。
 安政五年十一月十五日の満月は、陸も海も銀色に光らせていた。
「月がきれいどすなあ」
 月照はいった。
「まっこと」吉之助は笑顔をつくり答えた。もう覚悟はできている。
 月照は酒をうまそうに呑むと、さらさらと辞世の歌を書いて紙を西郷に渡した。


  くもりなき心の月の薩摩潟
   沖の波間にやがて入りぬ
  おおきみ            
  大君のためには何か惜しからむ
       
   薩摩の迫門に身は沈むとも

「……月照どん!」
 吉之助は涙声になった。辞世の歌を渡すや、月照は何事もないように立ち上がり、月を仰いで、海に身を投げようとした。そのとき瞬時に、吉之助が、
「月照どん! お供しまんぞ!」といって抱き合うように海に落ちた。
 ふたりがひきあげられたとき、月照は息絶えていた。享年四十六才だった。
 役所にふたりの遺体がひきあげられたと知り、大久保一蔵や吉之助の弟の慎吾や有村俊斎、大山格之助が目の色をかえて駆けつけた。
「月照どん! 西郷どん!」
 月照はすでに息がない。しかし、不思議なことに吉之助は息をふきかえした。
「……西郷どんが生きとる!」一同は喜んだ。
 当の西郷はいびきまでかいて、床に横になって藁に包まれ眠りこくっている。
 西郷吉之助はどこまでも運がいい。
 月照の死体は、西郷の菩提寺でもある南林禅寺へほうむられた。
 生き残った西郷の処置に、薩摩藩はこまった。幕府に睨まれている人物ではあるが、なにしろ故・斉彬の寵臣でもある。
 重役の中にも、吉之助を愛する者も多い。
「名をかえて、島へ流してしまえば幕府もうるさくいうまい」
 ついに薩摩藩はそういう措置をとった。
 よって、寺には月照と西郷吉之助(隆盛)の墓が建てられ、幕府には西郷は死んだこと           
になった。西郷は「菊池源吾」と名を変えられ、奄美大島へと『島流し』にされた。
 吉之助は「おいは幽霊でごわす」と苦笑したという。

         2 島流し





  西郷隆盛が菊池源吾と名をかえ、奄美大島に島流しにあったのは、安政六年一月である。奄美大島は南国の島で、気温は高く、湿気はないから過ごしやすい。
 椰子の木や色鮮やかな植物が豊富にある。さとうきび畑がいたるところにあり、ぎらぎらした太陽がまぶしい。
「よかとこじゃ」吉之助は、舟から降りて笑顔をつくった。
 しかし、島は”よかところ”ではなかった。薩摩藩領地でもあるこの奄美大島は「搾取」の地でもあった。薩摩は島民に、米のかわりにさとうきびからとれる砂糖を年貢として差し出させていたのである。搾取につぐ搾取で、島民は皆怒りを覚えていた。
 確かに、大島は素晴らしい景色と自然をもつ。しかし、その陰は暗い搾取……であった。 西郷は鹿児島城下から約三百キロ海路を離れた奄美大島の竜郷村の民家に住むことになった。吉之助は三十一歳になっている。
 別に罪人というわけではなく、藩が、この島に西郷を隠して幕府の眼を逃れさせるために島へ流したのだ。吉之助の苦手とする炊事、洗濯も自分でしなければならず、そのため面倒なときは二日も何も食べない日もあったという。
  それから一年後の万延元年(一八六六)四月、吉之助はボロボロの着物をきて、髭ぼうぼうでボロ小屋で写経にあたっていた。島のガキたちが窓から、珍しい巨眼の男、を覗きみている。
「みせもんじゃなか!」吉之助は紙を丸めて投げつけた。
 すると役人がきて、「西郷どん。文にござる」と吉之助に手紙を届けた。
 それは三月三日、幕府の大老・井伊直弼が水戸浪士の襲撃を受け、桜田門外で暗殺されたという内容だった。世にいう『桜田門外の変』である。
 この襲撃隊の中には、有村俊斎の弟・次左衛門が薩摩藩からひとり参加し、大老の首を討ちおとしたという。そのことで薩摩隼人たちは多いに勇気づけられたという。
 井伊大老は幕府の象徴、それがなくなるということは幕府がなくなるということだ。
 吉之助は涙を流し嘆いた。
「こげなときに……おいは何しよっとか! なさけなか!」
 吉之助は机をたたき、ボロ屋をでて天を仰いだ。「情なか! おいどんはなさけなか男じゃ!」巨大な両眼から、涙があとからあとから溢れ出た。
 吉之助は上をむいて堪えようとしたが、無駄であった。
 ……おいは…なにしょっとか?! なさけなか! くやしか! ……
  そんなある日、島民たちが大勢駆けていくのがみえた。役所にむかって怒号を発しながら西郷の背後から駆け抜けていった。男も女も老人もいる。
「大官を出せ! 大官を出せ!」島民は役所の前でシュプレキコールを繰り出す。
 西郷は疑問の顔のまま、巨体を揺らしながら島民に近付き、
「どげんしたと?」と島民のひとりにきいた。
「あんさんは?」
「………幽霊でごわす」
 島民は冗談だと思った。「役人が悪さしたとばってん。怒っちょる!」
「これです」島の女は傷だらけの幼子を抱き抱えて、吉之助にみせた。「さとうきびを齧っただけで百たたきの刑にあい、死にもうしました」
 まだいたいけな子供である。傷だらけの……
 吉之助の全身の血管の中を、怒りが、激しい怒りが駆け抜けた。なんということじゃ! 激昴のあまり、顔が真っ赤になった。
「ほんでごつ…こげな子供を百たたきしよったでごわすか?! こげな子供を?!」

  村長の龍左民は、西郷に薩摩藩からの搾取をすべて話した。西郷はそれを知り、ますます怒りに震えた。あたりは晴天で、太陽がぎらぎらしているが、吉之助には暗闇のように感じた。……ほんでごつ…あげな子供を百たたきしよったでごわすか?!
 また島民が役人にひきずり暴力をうけた。島民は反発して、役所におしかけた。
 西郷吉之助も急いでやってきた。
「また、どげんしよったでごわす?」
「さとうきびを………齧ったというて…」村の女は泣きながらいった。
 いよいよ吉之助は激昴した。吉之助は護衛を叩きのめし、役所の中へと単身おしいった。 さがら              
「相良どん! 相良どんおるか?!」
 吉之助は護衛の役人をはねのけながらすすんだ。奄美大島の役所所長は、相良角兵衛という男である。
「なにとぜ? 西郷どん」相良角兵衛はすっとぼけていった。
「どげんことでごわすか? 相良どん」
「……なんが?」
 西郷は相良に掴みかかった。
「斉彬公亡きあと、お由良の政になって、領民は搾取につぐ搾取のみにあってごわす!」「……それとおいになんの関係があるとでごわす?」
 相良はあくまでもしらばっくれた。
「島民を連行したでごわそ? さとうきび齧ったいうて………たかがさとうきびじゃなかか!」
「……罪は…罪でごわそ…」
 相良は震えながらいった。
 西郷吉之助のゲンコツが飛ぶ。相良は倒れた。
「島民は連れてかえる。それでよかか?」
 吉之助は気絶している相良の頭をふった。
 そして、相良の部下に「相良どんが許してやるいうておりもうそ。早く連行した島民を釈放せい!」と強くいった。
 しばらくして、連行された島民は自由の身になり、西郷も無傷で役所から出てきた。
 役所前に集まっていた島民たちから歓声があがった。
「ありがとさんでもうそ!」
 村長の龍左民は、ハッとして、
「……そういえばあんさんの名ばきいとらんかった。あんさんの名は?」といまさらながら尋ねた。
「菊池……」吉之助は口をつぐんだ。そして、笑顔になり「西郷、西郷吉之助でごわす」          
 島民の中にいた美貌の女性(のちの愛加那)が、ぽっと頬を赤くして、
「……吉之助さま…」と囁くようにいう。そして、その女性は恥ずかしそうに場を去った。 母親らしい女は「あれまぁ、色気づきじゃっどん」といい、一同は笑った。
 吉之助はその若い女性に興味をもった。
 ……なかなかの美人ではなかが。
 ぎらぎらとした太陽がすべてを美しく照らしている。南国、常夏の風景は西郷の心をなごませた。
 やがて夜になった。
 しかし、月光が辺りを銀色に染め、なにやら幻想的でもあった。
 吉之助はさっそくその女性を家によんだ。女性は恥ずかしそうに清楚に名乗った。
「加那といいます……吉之助さま」
 吉之助は笑って「おいにさまはいらなか。幽霊でもうそな」
「まぁ、幽霊? 島にはなぜこられたのですか?」
「まぁ」吉之助は頭をかいた。「罪人ということでもなかが、まぁ、幕府の手を逃れということでごわすか」
 加那は吉之助の興味を抱いた。
「……ご両親はなんと?」
「おいの両親は…おいが二十一歳のときに死にもうした」
 加那は吉之助に頭をさげた。「失礼し申しました」
「いや」
 吉之助は口元に笑みを浮かべた。
 しばらく静寂が辺りを包む。波の音だけが耳にきこえる。
 加那は、
「吉之助さまはご結婚はどげとです?」ときいた。
 是非とも答えがききたかった。
「おいは一度結婚に失敗したばい。妻は貧乏が嫌で実家に駆け戻りおった。それいらい女子とは縁がないでごわす」
 吉之助は笑った。
 加那は「ならばあたくしを妻にしてください!」とうとう本心をいった。
「おいの? 妻に? 苦労するだけでごわすぞ」
「かまいもはん」
 加那は吉之助にすがった。吉之助は気になっていることがあった。
 ……加那の左手の甲の蒼い入れ墨である。
「おいはさっきから気になってたのじゃが……その左手の入れ墨はなんぞ? なにかの呪いでごわすか?」
「ああ、これでごわすか?」
 加那は、左手の甲の蒼い入れ墨をみせながら、
「これは、ハズキ、いいます。結婚前に堀り、結婚したら右手の甲にも入れ墨を堀るのです」と答えた。
「そげんことはいかん! もう痛い思いはしなくてもよかぞ?!」
「なら、結婚してくださりまするか?」
 西郷は加那を抱擁し、「よかとよかと。結婚するもうそ」と答えた。
「結婚したら、島では旦那さまに上の名前をつけてもらうしきたりでごわす」
「そうか? ……なら愛じゃ」
「愛?」
「そうじゃ。おまはんはこれからは愛加那じゃ」
 ふたりは抱擁し、抱き合った。
 当然ながら、間もなく愛加那は身籠もった。
 ふたりは結婚した。
  大島の台風はすざまじいものだが、天気はほとんどよく、冬になっても暖かいし、米も年に二度とれる。さとうきびも豊作だ。西郷が大島にいたころ、台風でさとうきびが被害にあったが、「砂糖を隠しておるのであろう!」と役人は島民をいじめた。 
 吉之助と愛加那の間に長男が生まれた。菊次郎である。

  文久元年(一八六一)一月、知らせが届いた。
「産まれもうしたか?!」吉之助は喜んだ。
 鹿児島の薩摩藩邸では、久光と側役にまでなっていた大久保が話ていた。
 島津久光は「お由良」事件とは関わっていない。
 というよりも「幕府を一新しよう」とまでいっていた。
 兵をすすめ、幕府に改革を進言するという。しかし、久光には幕府を倒すまでの考えがない。そこが西郷や大久保ら『精忠組』にはものたりない。
「幕府の改革なんどといってるばあいじゃなかとでごわす。むしろ、一挙に幕府を倒すのが最高の策でごわそ」
 『精忠組』の意見とはまさしくそういうことである。