長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

nhk2017年大河ドラマ原作「米沢燃ゆ 上杉鷹山公」出羽国米沢上杉領「米沢藩中興の祖」小説2

2015年05月02日 06時21分54秒 | 日記










         公の教育と立志



               
  上杉鷹山公は今でも米沢の英雄である。
 もちろん、上杉家の祖、藩祖・上杉謙信公も英雄ではあるが、彼は米沢に生前来たことがない。米沢に藩を開いたのは、その甥の上杉景勝である。(謙信の遺骨も米沢に奉られている) その意味で、米沢といえば「上杉の城下町」であり、米沢といえば鷹山公、鷹山公といえば米沢……ともいえよう。山形県の米沢市は「米沢牛」でも有名だが、ここではあえて触れない。鯉の甘煮、米沢織物……これらも鷹山公の改革のたまものだが後述する。
 よく無知なひとは「山形県」ときくと、すぐに「ド田舎」とか「田んぼに茅葺き屋根の木造家屋」「後進県」などとイメージする。たぶん「おしん」の影響だろうが、そんなに嘲笑されるようなド田舎ではない。山口県や青森県、高知県などが田舎なのと同じように山形県も「ふつうの田舎」なだけである。
のちの鷹山こと上杉治憲は偉大な改革を実行していった。だが、残念ながらというべきか彼は米沢生まれではない。治憲は日向(宮崎県)高鍋藩主(三万石)秋月佐渡守種美の次男として宝暦元年(1751年)七月二十日、江戸麻布一本松の邸に生まれている。高鍋は宮崎県の中部の人口二万人くらいの町である。つまり、治憲は、その高鍋藩(三万石)から米沢藩(十五万石)への養子である。
 血筋は争えない。
 鷹山公の家系をみてみると、公だけが偉大な指導者になったのではないことがわかる。けして、上杉治憲(のちの鷹山)は『鳶が鷹を生んだ』などといったことではけしてない。しかし、この拙著では公の家系については詳しくは触れないでおこうと思う。
 大事なのは、いかにして上杉鷹山のような志やヴィジョンを持ったリーダーが誕生したのか? ということであろう。けして、家柄や家格…ではない。そうしたことだけが重要視されるのであれば馬鹿の二世タレントや歌舞伎役者の息子などが必ず優れている…ということになってしまう。そんなことはあり得ない!
 それどころかそうした連中はたんなる「七光り」であり、無能なのが多い。そういった連中とは鷹山公は確実に違うのだ。
 では、鷹山公の教育はどのようにおこなわれていったのだろうか?
 昔から『三つ子の魂、百まで』…などといわれているくらいで、幼少期の教育は重要なものである。秋月家ではどのような教育をしてきたのかはわからない。しかし、学問尊重の家柄であったといわれているから、鷹山はそうとうの教育を受けてきたのだろう。
 米沢藩第八代目、上杉重定の養子になったのは、直丸(のちの鷹山)が九才の時である。当時、重定公は四十才になっていたが、長女の弥姫が二才で亡くなり、次女の幸姫は病弱で、後継者の男の子はいなかった。もし男の子が生まれなければ、そして重定にもしものことがあれば、今度こそ米沢藩はとりつぶしである。その為、側近らや重定はじめ全員が「養子をもらおう」ということになった。そこで白羽の矢がたったのが秋月家の次男ぼうの直丸(のちの鷹山)であった。
 上杉重定はのちにこう言っている。
「わしは能にばかり夢中になって贅沢三昧だった。米沢藩のために何ひとついいことをしなかった。しかし、案外、わしがこの米沢を救ったのかも知れない。あの治憲殿を養子に迎えたことで…」
話しを戻す。
 米沢藩の藩校・興譲館に出勤して藁科は家学を論じた。次第に松伯は兵学を離れ、蘭学にはまるようになっていく。莅戸らにとって兵学指南役で米沢藩士からも一目置かれているという師匠・藁科松伯の存在は誇らしいものであったらしい。松伯は「西洋人日本記事」「和蘭(オランダ)紀昭」「北睡杞憂(ほくすいきゆう)」「西侮記事」「アンゲリア人性海声」…本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。あるとき、本屋で新刊のオランダ兵書を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」若き松伯は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで松伯は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、オランダ兵書はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら松伯はきいた。
「大町にお住まいの与力某様でござります」
 松伯は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると松伯は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、松伯は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い藁科松伯でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  松伯は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 松伯の住んでいるところから与力の家には、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、松伯は写本に通った。あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。松伯は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。松伯は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。

  松伯は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により松伯の名声は世に知られるようになっていく。松伯はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない。だから労咳になどに罹ったのだ」



  明和四年(1764年)十二月、米沢藩江戸屋敷…。
 その日は11月というのに暖かく、また天気のいい日よりだった。太陽は遠くのほうにあったが、きらきらとした朝日が屋敷や庭に差し込んでいた。
 どこまでも透明なような雲が浮かんでいて、いい天気だった。しんと輝くような晴天である。             
 そんな中、上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生のもとに歩いていった。
 細井平洲は江戸でもなうてのエリートで、教育者で、教育のスペシャリストだった。そして、難しい学問を身につけていてもそれを気取らず、それどころか難しいことをわかり易くひとに教えるような人物だった。平洲は当時、四十代。不精髭を生やしていたが細身で、学者肌のインテリで、がっちりとした首や肩が印象的な人物であった。どこかクールな印象を受けるが、頭がいいだけでなく性格もよかった。
 人柄もよく、ちょうどよい中年で、とても優しいひとだったという。
 それゆえ、上杉重定は細井平洲先生をたいへん気に入り、養子である直丸の教育係に抜擢したのだった。
 上杉直丸(のちの鷹山)は細井平洲先生の待つ部屋に足を踏み入れた。そして、畳に手をつき頭を下げて、
「……上杉直丸でございます」
 とハッキリとした口調で言った。
「細井平洲と申します。藩主・重定公から直丸殿の教育をまかされました」と言った。そして続けて、
「…直丸殿はやがて米沢十五万石の藩主となられるお方です。習うのは王公の学です。学問は世の中の役に立たなければなんにもなりません。幕府の守る朱子学も学問のための学問になっています。賢き藩主は民の父母……という諺があります。どういう意味か「大学」にしたがって勉強してみましょう」と優しい口調で言った。
「はい」
 直丸は答えた。そして、台にのった本をひろげて、
「民の望むことを望み、民とともに生きること。賢き藩主は民の父母……」と読み始めた。それは上杉直丸(のちの鷹山)の立志の始まりでもあった。
 あるとき、直丸は木登りから落ちて怪我をしたことがある、そのときの右肘の傷は晩年まで痕になって残る程であった。
 だが、命が危ない程の怪我ではなかった。藁科松伯のほうが棺桶に右足が一歩入っている状態である。なのに藁科松伯は、病気をおして正装してまで江戸藩邸に出向き、直丸を労わっている。
「われのことなどよい。それより藁科松伯先生の病のほうがよほど深刻では?」
 直丸が訊くのももっともである。
 藁科松伯は「拙者如きは只の風邪にござる」と嘘をいった。直丸は叱った。真実が耳に入っていたからだ。
「藁科松伯先生、無理をなさるな。養生なされよ」
 すると藁科松伯は涙を流し、「かたじけありません、直丸公……拙者如きが……そのような温かいお言葉…」
 ふたりははらはらと涙を流し、号泣した。
 そして藁科松伯は志を公に託した。こののち直丸から上杉治憲と名を変えた鷹山公が、米沢藩に初入部する頃、藁科松伯の寿命は尽きている。
 ちなみに佐藤文四朗には好きな女子がこの頃より出来た。
 奥女中で米沢藩江戸屋敷の春猪(はるい・仮名・童門冬二先生の小説では“みすず”という名前)という若い女性である。だが、一目ぼれの片思いであった。
 何度か話すうちにお互い惹かれあうようになるのだ。だが、それはもう少し時間が必要、であった。


翌明和二年(一七六五年)、当綱は国家老に昇格して米沢へ戻った。
そして次の年、直丸は元服して治憲(はるのり)と名乗る。さらに翌四年四月、藩主重定は家督を譲って引退し、上杉治憲が藩主となる。時に十七歳であった。
なお、上杉家では藩祖である謙信を初代としているが、米沢藩主としては次の景勝(かげかつ・上杉謙信の姉・仙桃院からの養子)が最初になるので、こらから数えて治憲は九代目藩主(上杉家では十代目)ということになる。
爽やかな風が頬を撫でていく春の江戸桜田の上杉藩邸で、治憲は空を見上げて、志を確かにするのだった。松柏や美作から上杉家米沢藩の窮状は聞かされていた。そこで改革をするのは自分しかいないではないか!と思ったのだ。家督を継いだ以上は、何が何でも再建しなければならない。今日こそがその第一歩の、戦国時代で言えば初陣である。
若い藩主は重い使命感に武者震いを覚えた。その興奮を鎮めるように机に向かうと彼は自ら筆をとり、墨痕鮮やかに「民の父母」と大書した。
そして、その下に小さく「受け次て国の つかさの身となれば 忘るまじきは」と三行に分けて書き上げた。君主たる者は民の父母にならなければならない、これは『大学』にも説かれている為政者の基本姿勢である。
慶応元年(一八六五年)米沢市の林泉寺(りんせんじ・米沢市南西部・直江兼続の菩提寺)の学寮から出火したことがある。このとき隣の春日神社にも類焼の危機が迫った。急を知った住職が貴重品を運び出そうとしたが、その中から治憲の人知れず奉納していた誓詩が発見された。
そこにも自ら「民の父母」となることを第一と自覚し、文武の道に励むこと、礼儀正しくすること、賞罰に不公平のないことなど、自分自身への戒めが五か条にわたって記され、末尾には署名したうえに血判が捺されていた。
もし、林泉寺に火事がなければ、この誓詞は発見されなかった。治憲は翌九月、やはり国元の白子神社に藩政の再建の宣言した誓詞を奉納しているが、これも明治二十四年(一八九一年)になって初めて発見されている。この虚心誠実な治憲の前にこれからも呆れるほどの艱難辛苦が襲いかかってくる。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用32~40ページ>

♪松葉を腰にさし
 ゆずり葉を手にもち
 お正月がゆさゆさ
 ござった、ござった……
子供たちの歌声は元気である。米沢にも明和九年(一七七二年)の新春が訪れた。
古来米沢には「正月お手掛け」というしきたりがある。年始に客が来ると主人は三方(さんぽう)に松葉、昆布、串柿、榧(かや)の実、勝栗、蜜柑、馬尾藻(ほんだわら)などを飾り、客に「お手をお掛け候え」と勧める。客は三方に手を掛け、そこで双方が年始の挨拶を交わす(『米沢市史』)。
米沢藩恒例の鉄砲上覧も一月十六日に挙行され、この年は諸事順調に滑り出すかと思われた。ところが二月十九日、江戸で大火が発生した。江戸の上杉家藩邸屋敷も全焼しているが、後述しているのであえてここではこう述べるにとどめよう。
<細井平洲と上杉鷹山 鈴村進著・三笠書房参考文献引用68~70ページ>

  当時の米沢藩は精神的にも財政的にも行き詰まっていた。藩の台所はまさに火の車であり、滅亡寸前のあわれな状態だった。
 上杉謙信時代は、天下の大大名であった。越後はもとより、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内までもが勢力圏であった。八〇万とも九〇万石ともよばれる大大名だったのだ。
 八〇万とも九〇万石ともよばれる領地を得たのは、ひとえに上杉謙信の卓越した軍術や軍事戦略の天才のたまものだった。彼がいなければ、上杉の躍進は絶対になかったであろう。…上杉謙信は本名というか前の名前は長尾景虎という。上杉家の初代、上杉謙信こと長尾景虎は越後の小豪族・長尾家に生まれ、越後を統一、関東、信濃、飛騨の北部、越中、加賀、能登、佐渡、庄内にまで勢力圏を広げた人物だ。
 だが、上杉謙信は戦国時代でも特殊な人物でもあった。
 まず「不犯の名将」といわれる通り、生涯独身を通し、子を儲けることもなかった。一族親類の数が絶対的な力となる時代に、あえて子を成さなかったとすれば「特異な変人」といわざるえない。
 また、いささか時代錯誤の大義を重んじ、楽しむが如く四隣の諸大名と戦をし、敵の武田信玄に「塩」をおくったりもした。「義将」でもある。損得勘定では動かず、利害にとらわれず、大義を重んじ、室町時代の風習を重んじた。
 上杉家の躍進があったのも、ひとえにこの風変わりな天才ひとりのおかげだったといっても過言ではない。
 しかし、やがて事態は一変する。
 一五七〇年頃になると織田信長なる天才があらわれ、越中まで進出してきたのである。ここに至って、上杉謙信は何度か上洛を試みる。結果は、織田の圧倒的な兵力と数に押され、ジリジリと追い詰められていっただけだった。戦闘においては謙信の天才的な用兵によって優勢だったが、やがて信長の圧倒的な兵力に追い詰められていった。
 そんな時、一五七八年三月、天才・上杉謙信が脳溢血で、遺書も残す間もなく死んだ。それで上杉家は大パニックになった。なんせ後継者がまったく決まってなかったからだ。 上杉の二代目の候補はふたりいた。
 ひとりは関東の大国・北条家からの謙信の養子、三郎景虎であり、もうひとりが謙信の姉の子、景勝である。謙信の死後、当然のように「御館(おたて)の乱」とよばれる相続争いの戦が繰り広げられる。景勝にとってはむずかしい戦だった。なんといっても景虎には北条という後ろ盾がある。また、ぐずぐすしていると織田に上杉勢力圏を乗っ取られる危険もあった。 ぐずぐずしてられない。
 しかし、景勝はなんとか戦に勝つ。まず、先代からの宿敵、武田勝頼と同盟を結び、計略をもって景虎を追い落とした。武田勝頼が、北条の勢力が越後までおよぶのを嫌がっていた心理をたくみに利用した訳だ。武田勝頼方からは同盟の証として、武田信玄の娘(勝頼の妹)・菊姫が上杉景勝に輿入れした。
 だが、「御館の乱」という内ゲバで上杉軍は確実に弱くなった。しかし、奇跡がおこる。織田信長がテロルによって暗殺されたのだ。これで少し、上杉は救われた。しかしながら、歴史通の方ならご存知の通り同盟を結んだ武田家は滅亡してしまう。
 それからの羽柴秀吉と明智光秀との僅か十三日の山崎合戦にはさすがに出る幕はなかったが、なんとか「勝馬」にのって、秀吉に臣従するようになる。
 だが、問題はそのあとである。
 豊臣秀吉の死で事態がまた一変したのだ。
 秀吉の死後、石田三成率いる(豊臣)西軍と徳川家康率いる東軍により関ケ原の戦いが勃発。…上杉は義理を重んじて、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。上杉は勢力圏から見れば、徳川家康率いる東軍に加わった方が有利なハズである。仙台の伊達も山形の最上も越後の堀も、みんな徳川方だった。しかし、上杉景勝は、「徳川家康のおこないは大義に反する」という理由だけで、石田三成率いる(豊臣)西軍に加わる。
 しかし、上杉景勝の思惑に反して、徳川との戦いはなかった。関ケ原役で上杉のとった姿勢は受け身が多かった。賢臣直江兼続は西軍と通じていたが、上杉全体としては西軍に荷担していた訳ではなかったようだ。
 ただし、家康には独力で対抗し、家康が五万九千の会津討伐軍をひきいて攻めてくると、上杉は領地白河の南方革籠原に必殺の陣を敷いて待ち受けたという。
 だが、家康が石田三成の挙兵を聞いて小山から引き返したので、景勝は追撃を主張する賢臣直江兼続以下の諸将を押さえて会津に帰った。のちに名分に固執して歴史的な好機を逸したというわれる場面だ。しかし、ほかの最上攻めも、伊達攻めも、もっぱら向こうから挑発してきたので出兵しただけで、受け身であったことはいがめない。
 しかるに、結果は、上杉とは無縁の関ケ原で決まってしまう。その間、景勝はもっぱら最上義光を攻め、奥羽・越後に勢力を拡大……しかし、関ケ原役で西軍がやぶれ、上杉は翌年慶長六年、米沢三十万石に格下げとなってしまう。このとき景勝が、普代の家臣六千人を手放さずに米沢に移ったのは、戦国大名として当然の処置と言える。
 西側が敗れたとの報を受け、上杉ではもう一度の家康との決戦…との気概がみなぎった。しかし、伏見で外交交渉をすすめていた千坂景親から、徳川との和平の見込みあり、との報告が届いたので、景勝は各戦場から若松城内に諸将を呼び戻して、和平を評議させた。 そして和平したのである。景勝は家臣大勢をひきつれ、米沢へ移った。これが、米沢藩の苦難の始まりである。
  当時の米沢は人口6217人にすぎない小さな町であり、そこに六千人もの家臣をひきつれて転封となった訳であるのだから、その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。また、それから上杉家の後継者の子供も次々と世を去り、途絶え、米沢三十万石からさらに半分の十五万石まで減らされてしまった。
 しかし、上杉謙信公以来の六千人の家臣はそのままだったから、経費がかさみ、米沢藩の台所はたちまち火の車となったのである。
  人口六千人の町に、同じくらいの数の家臣をひきつれての「引っ越し」だから、その混雑ぶりは相当のものだったろう。しかも、その引っ越しは慶長六年八月末頃から九月十日までの短い期間で、家康の重臣で和睦交渉のキーパーソンだった本多正長の家臣二名を監視役としておこなわれた。
 混乱する訳である。
 米沢を治めていた直江兼続は、自分はいったん城外に仮屋敷を建て、そこに移って米沢城に上杉景勝をむかいいれることにした。が、他の家臣は、いったん収公した米沢の侍町や町人町にそれぞれ宿を割り当てることにした。その混乱ぶりはひどかった。住む家もなく、衣食も乏しく、掘立て小屋の中に着のみ着のままというありさまであった。
 そのような暮らしは長く続くことになる。
 引っ越しが終りになった頃は、秋もたけなわである。もうすぐ冬ともいえた。米沢は山に囲まれた盆地で、積雪も多く、大変に寒いところだ。上杉の家臣にとっては長く辛い冬になったことだろう。
 十一月末に景勝が米沢城に移ってきた頃には、二ノ丸を構築し、さらに慶長九年には四方に鉄砲隊を配置した。それでもなお完璧ではなく、この城に広間、台所などが設置されたのは時代が元和になってからのことである。
 上杉景勝はどんな思いで、米沢に来たのだろうか?
 やはり最初は「………島流しにあった」と思ったのかも知れない。
 米沢藩が正規の体制を整えるまでも、紆余曲折があった。決して楽だった訳ではない。家臣の中には、困窮に耐えかねて米沢から逃げ出す者も大勢いた。それにたいして藩は郷村にたいして「逃亡する武士を捕らえたものには褒美をやる」というお触れを出さざる得なかった。また、「質素倹約」の令も続々と出したが、焼け石に水、だった。
 しかし当時は、士農工商とわず生活はもともと質素そのものだった。中流家臣だとしても家は藁葺き屋根の掘立て小屋であり、そんなに贅沢なものではない。ただ、仕用人を抱えていたので台所だけは広かった。次第に床張りにすることになったが、それまでは地面に藁を敷いて眠っていたのだという。また、中流家臣だとしても、食べ物は粥がおもで、正月も煮干しや小魚だけだった。
 武家にしてこのありさまだから、農工商の生活水準はわかろうというものだ。

  上杉家の困窮ぶりはすでに述べた。しかし、上杉とはそれだけでなく、子宝や子供運にも恵まれていなかった。大切な跡継ぎであるハズの子も病気などで次々亡くなり、ついには米沢十五万石まで領地を減らされてしまったのだ。
 また、有名なのが毒殺さわぎである。
 有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介義央に、である。この人物は殿中で浅野内匠頭に悪態をつき、刀傷騒動で傷を負い、数年後に、忠臣たち四十七人の仇討ち……というより暴力テロルで暗殺された人物だ。その人物に、上杉家の藩主は毒殺された……ともいわれている。
 寛文四年五月一日、米沢藩主・上杉播磨守綱勝は江戸城登城のおり、鍛治橋にある吉良上野介義央の邸宅によった。
 綱勝の妹三姫が吉良上野介義央の夫人となっていて、義央は綱勝の義弟にあたる。その日、綱勝は吉良邸によりお茶を喫した後、桜田屋敷に帰った。問題はその後で、夜半からひどい腹痛におそわれ、何度も何度も吐瀉し、お抱えの医師が手をつくしたものの、七日卯ノ刻に死亡した。
 あまりにも早急な死に、一部からは毒殺説もささやかれたが、それより上杉にとって一大事だったのは、綱勝に子がなかったということだ。
 当時の幕法では、嫡子のない藩は「お取り潰し」である。
 さぁ、上杉藩は大パニックになった。
 しかし、その制度も慶安四年に改められて、嫡子のいない大名が死のまぎわに養子なりの後継者をきめれば、「お取り潰し」は免れるようになった。が、二十七才の上杉綱勝にはむろん末期養子の準備もなかった。兄弟もすべて早くに亡くなっていた。
 景勝から三代目、藩祖・謙信から四代目にしての大ピンチ……である。この危機にたいして、家臣の狼狽は激しかった。しかし、なんとか延命策を考えつく。
 まず、
 米沢藩は会津藩主・保科正之を頼り、吉良上野介義央の長子で、綱勝の甥の三郎(齢は二才)をなんとか奔走して養子につける事にした。…これで、米沢十五万石に減らされたが、なんとか米沢藩は延命した。
 だが、
 吉良三郎改め上杉綱憲を養子として向かえ、藩主としたのは大失敗だった。もともとこの人物は放蕩ざんまいの「なまけもの」で、無能で頭も弱く、贅沢生活の限りを尽くすようになった。城を贅沢に改築したり、豪華な食事をたらふく食べ、女遊びにうつつを抜かし……まったくの無能人だったのだ。旧ソビエトでいうなら「ブレジネフ」といったところか?
 もともと質素倹約・文武両道の上杉家とはあいまみれない性格の放蕩人……。これには上杉家臣たちも唖然として、落胆するしかなかった。
 それから、会津時代から比べて領土が八分の一まで減ったというのに、家臣の数は同じだったから、財政赤字も大変なものだった。
 もともと家臣が多過ぎてこまっていた米沢藩としては、減石を理由として思い切って家臣を削減(リストラ)して藩の減量を計るべきだという考えは当然あったろう。すでに藩が防衛力としての武士家臣を雇う時代ではないからだ。
 四十六万石の福岡藩に匹敵する多すぎる家臣は、藩の負担以外のなにものでもなかったから、家臣をリストラしても米沢藩が世間の糾弾を受けることにはならないはずだった。 だが、今度の騒動で、藩の恩人的役割を果たした保科正之は、家臣召放ちに反対した。 米沢藩はその意見をききいれ、棒禄半減の措置で切り抜けようとして悲惨な状況になるのだが、それでも家中に支給すべき知行(米や玄米など)の総計は十三万三千石となり、残りを藩運営の経費、藩主家の用度金にあてると藩財政はにわかに困窮した。
 だが、形のうえでは救世主となった上杉喜平次(三郎)あらため綱憲は贅沢するばかりで、何の手もうたない。綱憲は、ただの遊び好きの政治にうとい「馬鹿」であった。
  こうして数十年……上杉家・米沢藩は、長く苦しい「冬の時代」を迎えることになる。借金、金欠、飢饉…………まさに悲惨だった。
  明和三年(1767年)、直丸という名から治憲と名を改めた十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は米沢藩主となった。が、彼を待っていたのは、膨大な赤字だった。
 当時の米沢藩の赤字を現代風にしてみると、
  収入 6万5000両…………130億円
  借金 20万両    …………400億円
 という具合になる。
 売り上げと借金が同じくらいだと倒産。しかし、米沢藩は借金が3倍。………存在しているほうが不思議だった。米沢藩では農民2 .85人で家臣ひとりを養っていた。が、隣の庄内藩では9人にひとり……だから赤字は当然だった。
 しかし、米沢藩では誰も改革をしようという人間は現れなかった。しかし、そんな中、ひとりのリーダーが出現する。十七才の上杉治憲(のちの鷹山)そのひとである。
「改革をはじめないかぎり、この米沢藩は終りだ。……改革を始めよう! 米沢を生き返らせよう!」
 十七才の上杉治憲(のちの鷹山)は志を抱くのだった。





         改革



  治憲は江戸の米沢藩屋敷の庭を散策するのを日課としていた。
 庭はあまり広くないのだが、朝の散歩はとてもここちよい気分にさせてくれた。少なからず目の前の不幸を忘れさせてくれるかのようだった。
 朝も早いためか、きらきらとした朝日が庭に差し込み、庭が輝いても見えた。それはしんとした静けさの中にあった。
 治憲は散歩の足を止め、朝日を浴びてきらきらとハレーションをおこす小さな池を指差した。一緒にいた若き側近、佐藤文四郎も池を見た。しかし、そこにはいつもと変りのない池があるだけだった。治憲は確かに、不思議な印象を与える人物だった。年は文四郎と同じように見えた。すらっと細い体に、がっちりとした首、面長の鼻筋の通った青年で、クールな力強さを感じさせた。着物もぴったりしているが、瞳だけは違った。彼のまなざしは妙に深く、光っていた。瞳だけが老成している、といえばいいのか。佐藤文四郎もハンサムだが、髭面で汚かった。
 佐藤文四郎秀周(ひでちか)は、「御屋形様、いかがなさいましたか?」、と尋ねた。
 それに対して、治憲は言った。
「文四郎………この池の中の魚をどう思う?」
「魚……でございますか?」
「うむ」
「さぁ………」佐藤文四郎の顔がクエスチョン・マークになった。そして、公の答えをまっていた。
 治憲は言った。
「この池はあらゆる藩。そしてこの中の魚はあらゆる家臣たちだ。泳ぐ魚をみてみるがよい。鯉は自由自在に泳ぐ。つかみどころのない鮒。池の中にありながら泳ぎを忘れないハヤ。しかし………国元の米沢の家臣たちは金魚だ」
「金魚?」
「そう。金魚だ。みずから泳ぐことをしない。…………今、私の改革の手助けをしてくれるのは……誰だろう?」
 ふたりはしばし沈黙した。
 それから、治憲はハッとしたような顔をしてから佐藤文四郎に、
「本国の重役たちから好かれてない人物たち。改革の志を持った者たちをあつめよ」
 と命じた。
 文四郎は呆気にとられた顔をしたまま「私もそのひとりですが…」と呟くように言った。 すると治憲はほわっとした微笑みを口元に浮かべて、魅力的な横顔のまま、
「だからこそ頼むのだ」と答えた。
「はっ!」
 佐藤文四郎はすぐに動きだした。


こうして、竹俣当綱(37才・千石・前江戸家老・現在閉職)、莅戸善政(33才・百八石・馬廻組)、藁科松伯(31才・米沢・待医・細井平洲門下)、木村高広(37才・二十五石・御右筆)らが呼ばれた。莅戸や木村はとてもいい顔で、華奢な体つきだ。木村は少しうらなり顔で、莅戸善政は背も低く、おちょぼ口で、しかし堂々たる男であった。
 奥座敷ではすでに上杉治憲と江戸家老の色部照長が待っていた。
 色部照長は初老の男で、がっしりとした体躯のわりには気の小さな男であったという。この色部の前の江戸家老が竹俣当綱だったのだが、国元の重役たちのクーデターによって竹俣は失脚させられたのだった。失脚のことを思うえば思うほど、焦り、怒りで体が震えた。
 集まった竹俣ら四人集と佐藤文四郎は座敷に足を踏み入れ、正座して、頭をさげた。
「御屋形様、連れてまいりました」佐藤文四郎が言った。
「うむ。ごくろう」
 竹俣ら四人集は「御屋形様、ごきげんうるわしう」と言った。
「うむ。おぬしらに話しがある。さっそくだが………ここにいる色部が毎月金を借りにいっている商屋に金を借りにいった。が、断られた。もはや、誰も米沢藩に金を貸してはくれぬ。それについて色部から意見がある。よく聞くように」
「はっ」
 色部照長はためらってからゴホンゴホンと咳ばらいをして、心臓が二回打ってから話しだした。
「御屋形様からのお話しの通り……もはや誰も米沢藩に金を貸してはくれません。藩の台所は火の車でして………正直なところ……そのお…」
「色部、申せ」
「はっ」色部照長は少しためらってから「……もはや米沢藩の命運尽きたかと。もはや…幕府に藩を返上して…一からやり直すのが得策かと。もちろん家臣。藩士はじめ、皆、浪人になりますが……このまま死ぬのを待つよりはマシかと…思います」と呟くような苦しい声でいった。心臓がかちかちの意思になるような感覚に、色部は驚いた。
 治憲は「うむ。」と頷いてから「なるほど、そういう考えもあろう」と言った。そして、続けて、ハッキリとした口調で、
「しかし、私はこう考える。私は日向高鍋から養子にはいったばかりだ。それがすぐに藩をつぶしてしまったのでは謙信公以来の藩主に申し訳がたたぬ。同じ潰すなら、やれるだけやってみようと思う。米沢藩を立て直し、自立できるようにする。しかし、私のいっている改革は藩に金を集めることではない。領民の幸福のための改革だ。そこで、おぬしらに命ずる。………改革案をつくれ!」
 と言った。
 色部照長はまた少しためらってからゴホンゴホンと咳ばらいをして、
「………しかし…」といいはじめた。
「色部、申せ」
「はっ」色部照長はまた少しためらってから「……御屋形様のお考え、まことにご立派。しかし…このような重要なことは…まず国元の重役たちに相談してからのほうがよろしいかと……」
 それにたいして治憲は「いや。」と首を軽く振ってから「それではことが進まぬ。米沢藩はいまや大病にかかっている。すぐにでも大掛かりな手術が必要なのだ。おぬしらの怒りを改革案にぶつけよ! 米沢を生きかえらせるのだ!」
 と言った。それすざまじい気迫のある声だった。
 こうして治憲(のちの鷹山)の改革はスタートしていくので、ある。

  米沢・前藩主・上杉重定は放蕩の限りを尽くしていた。
 ……能に酒に若い女……重定は藩財政の窮乏そっちのけで贅沢三昧の生活を続けていた。”無能”重定は自分の藩がどれだけ財政難か、という簡単なことさえ理解してなかった。これにたいして竹俣が、治憲に申告した。
「御屋形様!」
「なんだ?」治憲がきくと、竹俣が、「重定公は放蕩の限りを尽くしております」
 と、怪訝な顔でいった。
「……うむ」
 治憲はなにもいわなかった。
 竹俣は「御屋形様から大殿様に節約を進言なされては?……藩の財政は窮乏しておりますれば…」
 竹俣の言葉を治憲がさえぎり、治憲は寂しそうな顔で微笑み、
「大殿さまに自由に遊ばせてあげてくれ」というばかりであった。
「……しかし…」
 竹俣当綱は何かいおうとしたが、やめた。これも御屋形様の優しい配慮なのだな、と考えたからだった。
  重定は、さきの藩主宗憲、宗房に子がなかったので、幸運にも、跡釜になっただけの男である。凡庸にして無能…。その無能さが森利真の独裁を許し、また森の前の清野内膳秀祐に、前主から続く二十六年にもわたって独裁政治を許した。
 しかし、重定の前から米沢藩は窮乏しており、米沢藩窮乏をすべて重定のせいにするのはかわいそうである。
 しかし、あきらかに重定は”無能”…であった。
 だからこそ、その反発から、のちの名君・上杉鷹山が誕生することになったのだ。



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