長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

政治経済教育から文化マスメディアまでインテリジェンティズム日記

『これでWOWOWもSKY-Pも生涯無料ゼロ円!』悪辣詐欺師跋扈!不正視聴は犯罪!他人動画アップも

2015年04月19日 15時39分47秒 | 日記








よく悪辣業者から


「これでWOWOWもSKY-Pも生涯無料ゼロ円!」


等という詐欺メールが送られてくる。


まともに考えれば分かると思うが

「不正視聴」は立派な犯罪である。

また、NHK等の番組の動画をYou-tube等にアップしている馬鹿もいるが、

自分で創ったのではないなら著作権犯罪。私の小説やブログ文章ももちろん著作権が発生しているので


コピペして文学賞に応募したり、転載して儲けたら犯罪である。私は著作権違反を許さない。裁判ですね。臥竜



緑川鷲羽そして始まりの2015年へ!

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風と奇兵隊と高杉晋作と<維新回天特別版>大河ドラマ『花燃ゆ』小説高杉晋作ブログ連載小説4

2015年04月19日 05時48分38秒 | 日記










  勝が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。勝は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。勝海舟は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用視した為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。松下村塾からは維新三傑のひとり桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸考充)や、禁門の変の久坂玄瑞や、奇兵隊を組織することになる高杉晋作など優れた人材を輩出している。
 吉田松陰は「外国にいきたい!」
 という欲望をおさえきれなくなった。
 そこで小船で黒船まで近付き、「乗せてください」と英語でいった。(プリーズ、オン・ザ・シップ)しかし、外国人たちの答えは「ノー」だった。
 この噂が広まり、たちまち松陰は牢獄へ入れられてしまう。まさに大獄の最中である…
だが、吉田松陰は密航に失敗したものの黒船に載れなかった訳でもない。松陰が密航しようとした黒船はぺルリ(ペリー)らの黒船であったというから驚く。そこで甲板上で松陰と弟子の金子重輔は“佐久間象山より書いてもらった英文の密航の嘆願書”を見せて外国人船員たちに渡した。だが、それでも答えは「ノー」だったのだ。そして、その行動ののちにペリーは「あの日本人の知識への貪欲さにはいささか驚いた。ああした日本人が大半になれば日本国は間違いなく大国になれるであろう」と感想を述べている。
とにかく松陰と弟子の金子は囹圄のひととなった。その報はすぐに長州藩萩の杉家にも伝えられた。父親の杉百合之助らが畑を耕していると飛脚が文をもってきた。というか、長男の杉梅太郎(民治・みんじ)が急いでやってきて父・百合之助や母・滝らにしらせた。
「な、なにっ?!寅次郎が黒船で密航しようとして幕府に捕えられた」一同は驚愕するしかない。妹の杉文も驚愕のあまりへたり込んでしまった。「……何でや?寅にい…」
吉田松陰は武士だから“侍用の監獄”『野山獄(ひとりに一部屋)』にいれられたが、弟子の金子重輔は“足軽・百姓用の監獄”『岩倉獄(雑居房)』にいれられた。金子はそこで獄死してしまう。松陰は『野山獄』で二十一回孟子(二十一回戦うひと)と称して「孟子」の講義を始める。いかつい罪人や牢獄の美女・高須久子らも吉田寅次郎(松陰)を先生と呼んで慕うようになる。そののち獄を出て蟄居中に開いた私塾が「松下村塾」である。
山口県萩市に現在も塾施設が大切に保存されている。「松下村塾」の半径数十キロメートル以内に九十人の人材を輩出したという。だが、罪人である吉田松陰に自分の子供を任せるのに難色を示す親も多かったという。高杉晋作の両親もそうしたひとりであったが、晋作が「どうしても吉田松陰先生に学びたい」と隠れて通塾したともいう。
松陰は『徳川幕府は天下の賊(ぞく・悪人)』と建白書をしたためる。また、幕府の老中らを暗殺するべきとも。大河ドラマ『花燃ゆ』「さらば青春」の話では、吉田寅次郎(松陰)が塾生たちをそそのかし(あくまで救国の志のためだが)、幕府の井伊直弼大老の世にゆう“安政の大獄”に反発して、塾生たちに建白書(血判書)を書かせる。「僕らは井伊大老よりも、まずは京の徳川幕府の窓口である間部(まなべ)老中を暗殺するのです!そうすれば幕府に、奸賊・井伊大老に、強烈な一撃を食らわすことが出来ます!国の為に行動するのは今です!」と主張する。ドラマではその暗殺密談を、妹の文が盗み聴いてしまう。“建白書”は塾生・吉田稔麿が預かり「長州藩の家老周布さまにわたくしが渡します」と約束する。だが、吉田稔麿は世情に明るく、これは無謀な計画、と分かっていた。だが、尊敬する松陰先生のいうことである。死を覚悟して稔麿は周布政之助に建白書を提出する。「馬鹿野郎!」「国の為です!」「国の為ではなく師匠の寅次郎の為ではないのか?」「………師匠がいう以上仕方ありません」周布も小田村伊之助(のちの楫取素彦)も、もう庇いきれなくなった。考え悩んだ挙句、文は叔父上・玉木文之進と父母に寅次郎の計画を知らせた。寅次郎の叔父は烈火の如く怒り、寅次郎を殴りつける。馬鹿者!馬鹿者!寅次郎の父親・杉百合之助も「お前は国の為に死ぬというが…お前の狂った行動で、弟子の塾生たちがどうなるか!考えたことがあるのか?!国の為に立派に死ぬより…生き続けろ!馬鹿者!人を殺して救国になるがか?!」と号泣して松陰を殴り続けた。そして、大河ドラマでは、父は抜刀し、刀を寅次郎に渡し、「父を斬ってから行動をおこしなさい!………父を斬れ!」と迫る。「国が…よくならねば長州も幕府もない!僕は腐った幕府を……愚かな幕府の政を…変えたいのです!行動をおこさない藩や藩主なら…なくてもいい。長州じゃなく……日本国です!違いますか?!」松陰は泣き崩れる。文は「この松下村塾は何の為の…塾なんなん?寅にい。人殺しの算段の塾なん?学問のためじゃろう?!」だが、すべてはおわった。“安政の大獄”で吉田寅次郎は塾を閉鎖させられ、再び囹圄のひとになった。よりによって幕府の家老を暗殺しようと計画した、松陰。当然、幕府も長州藩もカンカンになって怒った。長州藩の重臣・椋梨藤太(むくなし・とうた)や周布政之助(すふ・まさのすけ)も吉田松陰の罪を藩主・毛利敬親公にあげつらった。こうして松陰は遺言書『留魂録(志をしたためた書)』を書いてのち処刑される。弟子の高杉晋作、桂小五郎、久坂玄瑞らが松陰の遺髪を奉じて墓を建てた。墓には“二十一回孟子”とも掘られたということである。(NHK番組内『歴史秘話ヒストリア』より)
大河ドラマ『花燃ゆ』の第十五回「塾を守れ!」篇・第十六回「最後の食卓」篇では、ふたたび野山獄につながれた吉田寅次郎(松陰)と元・塾生たちの仲に亀裂が入りはじめる。塾生と松陰との仲は絶交状態にまで悪化、入江九一・野村靖兄弟も松陰の幕臣叛逆策を、つまり松陰の主張する「尊皇攘夷」を実行しようとする。だが、所詮は草莽掘起、尊皇攘夷など荒唐無稽である。
しだいに孤立する松陰。久坂の嫁となっていた久坂(旧姓・杉)文は獄にいって、号泣しながら、
「寅にい!………英雄なんかにならんでええから…生きてつかあさい!危険なことを考えんと………ご自分を、弟子たちを…皆を守って、おとなしゅう生きてつかあさい!」
小田村伊之助(楫取素彦)も「寅次郎!お前の死に場所はこげな獄じゃない!目を覚ませ!」
だが、松陰は、「……僕は………死にたいんじゃ、文。…僕は死ぬ事によって、日本国中の志士達が立ち上がるんじゃ!……僕は今、死あるのみ!」等という。
小田村は泣きながら「お前、まだそんなことをいうとるんか!死んだらおわりじゃろうが?!」
松陰は号泣して、
「行動しないものにはわからん!…主張しないもの、大志のない、負けたことのないものには……わからんのじゃ!至誠を持って動かざるものいまもってあらざるなりじゃ!死ねば…死ぬことで…僕が死ぬことで、国が志士たちの魂が動くのじゃ!僕は……死ぬことで国を動かしたいのじゃ!」
松陰がそういう覚悟ならもうなにも言えない。文も伊之助も松陰自身も号泣し尽くすのみである。そして、まるでキリストの“最後の晩餐”のように野山獄の役人の”武士の情け”で、松陰は杉家で“最後の食卓”を囲み、風呂に入って母とも家族、愛するものたちとも涙の別れをし、
「父上、母上叔父上文敏兄さん亀義姉さん、申し訳ありません。これで僕は…あの世に行きます。お世話になりました」松陰は五右衛門風呂に入りながら泣いた。「思えば…僕は、なんちゃあ、まともな親孝行もせず、恩をあだでかえすような人間でありました。………そして、なんちゃあ、親孝行もせぬまま、僕はもうすぐ首をば刎ねられ…死んでしまうでしょう。親より先に死ぬ、それが情けない、だけどそれが今の僕です。ですが、…いままで本当にありがとうござりました。僕はこの家の恥さらし…です。すみません!」
「寅…あなたはあなたなりに立派に生き、行動しました。何も母も父上も叔父上も文も敏三郎梅太郎亀もお弟子さん達………誰も寅を憎んだり蔑んだり恥に思うたりはしません。」
「………母上、すみませ…ん!僕は…僕は…」
母親の瀧は「せ………世話あぁない」と頬の涙をぬぐった。
家族は明るく振る舞い、寅次郎に笑顔で接したが心の中で号泣していた。
「寅にい、………うちとお弟子さんたちに約束してつかあさい。寅にいが死ぬそのまさに刹那までその立派な志をつらぬきとおすと!」
松陰は「ああ、約束…する。文、久坂くん、高杉くん、母上父上叔父上、みんな………すべてはこれからじゃ!僕は最後まで志を捨てん!これより長州男児の意地を、誇りを、志を見せん!尊皇攘夷、草莽掘起じゃ!至誠を持って動かざる者今もってあらざるなり」
松陰は萩を後にし、大いなる至誠を持って、井伊大老と対峙した。
そして、松陰は幕府・井伊直弼大老の『安政の大獄』で江戸で処刑されるので、ある。




伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
 伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
  明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や渋沢栄一や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
 尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 
  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。

 渋沢は決心して元治元年の二月に慶喜の家臣となったが、慶喜は弟の徳川民部大輔昭武とともにフランスで開かれる一八六七年の万国博覧会に大使として行くのに随行した。 慶応三年一月十一日横浜からフランスの郵船アルヘー号で渡欧したという。

坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。


 若くして「秀才」の名をほしいままにした我儘坊っちゃんの晋作は、十三歳になると明倫館に入学した。
 ふつうの子供なら、気をよくしてもっと勉強に励むか、あるいは最新の学問を探求してもよさそうなものである。しかし、晋作はそういうことをしない。
 悪い癖で、よく空想にふける。まあ、わかりやすくいうと天才・アインシュタインやエジソンのようなものである。勉強は出来たが、集中力が長続きしない。
 いつも空想して、経書を暗記するよりも中国の項羽や劉邦が……とか、劉備や諸葛孔明が……などと空想して先生の言葉などききもしない。
 晋作が十三歳の頃、柳生新陰流内藤作兵衛の門下にはいった。
 しかし、いくらやっても強くならない。
 桂小五郎(のちの木戸孝允)がたちあって、
「晋作、お前には剣才がない。他の道を選べ」という。
 桂小五郎といえば、神道無念流の剣客である。
 桂のその言葉で、晋作はあっさりと剣の道を捨てた。
 晋作が好んだのは詩であり、文学であった。
 ……俺は詩人にでもなりたい。
 ……俺ほど漢詩をよめるものもおるまい。
 高杉少年の傲慢さに先生も手を焼いた。
 晋作は自分を「天才」だと思っているのだから質が悪い。
 自称「天才」は、役にたたない経書の暗記の勉強が、嫌で嫌でたまらない。
  晋作には親友がいた。    
 久坂義助、のちの久坂玄瑞である。
 久坂は晋作と違って馬面ではなく、色男である。
 久坂家は代々藩医で、禄は二十五石であったという。義助の兄玄機は衆人を驚かす秀才で、皇漢医学を学び、のちに蘭学につうじ、語学にも長けていた。
 その弟・義助は晋作と同じ明倫館に進学していたが、それまでは城下の吉松淳三塾で晋作とともに秀才として、ともに争う仲だったという。
 その義助は明倫館卒業後、医学所に移った。名も医学者らしく玄瑞と改名した。
 明倫館で、鬱憤をためていた晋作は、
「医学など面白いか?」
 と、玄瑞にきいたことがある。
 久坂は、「医学など私は嫌いだ」などという。
 晋作にとっては意外な言葉だった。
「なんで? きみは医者になるのが目標だろう?」
 晋作には是非とも答えがききたかった。
「違うさ」
「何が? 医者じゃなく武士にでもなろうってのか?」
 晋作は冗談まじりにいった。
「そうだ」
 久坂は正直にいった。
「なに?!」
 晋作は驚いた。
「私の願望はこの国の回天(革命)だ」
 晋作はふたたび驚いた。俺と同じことを考えてやがる。  
「吉田松陰先生は幕府打倒を訴えてらっしゃる。壤夷もだ」
「……壤夷?」
 久坂にきくまで、晋作は「壤夷」(外国の勢力を攻撃すること)の言葉を知らなかった。「今やらなければならないのは長州藩を中心とする尊皇壤夷だ」
「……尊皇壤夷?」
「そうだ!」      
「吉田松陰とは今、蟄去中のあの吉田か?」
 晋作は興味をもった。
 しかし、松陰は幕府に睨まれている。
「よし。おれもその先生の門下になりたい」晋作はそう思い、長年したためた詩集をもっ    
て吉田松陰の元にいった。いわゆる「松下村塾」である。
「なにかお持ちですか?」
 吉田松陰は、馬面のキツネ目の十九歳の晋作から目を放さない。
「……これを読んでみてください」
 晋作は自信満々で詩集を渡す。
「なんです?」
「詩です。よんでみてください」
 晋作はにやにやしている。
 ……俺の才能を知るがいい。
 吉田松陰は「わかりました」
 といってかなりの時間をかけて読んでいく。
 晋作は自信満々だから、ハラハラドキドキはしない。
 吉田松陰は異様なほど時間をかけて晋作の詩をよんだ。
 そして、
「……久坂くんのほうが優れている」
 といった。
 高杉晋作が長年抱いていた自信がもろくもくずれさった。
 ……審美眼がないのではないか?
 人間とは、自分中心に考えるものだ。
 自分の才能を否定されても、相手が審美眼のないのではないか?、と思い自分の才能のなさを認めないものだ。しかし、晋作はショックを受けた。
 松陰はその気持ちを読んだかのように「ひと知らずして憤らず、これ君子なるや」といった。「は?」…松陰は続けた。「世の中には自分の実力を実力以上に見せようという風潮があるけど、それはみっともないことだね。悪いことでなく正道を、やるべきことをやっていれば、世の中に受け入れられようがられまいがいっこうに気にせず…これがすなわち”ひと知らずして憤らなず”ですよ」
「わかりました。じゃあ、先生の門下にして下さい。もっといい詩を書けるようになりたいのです」
 高杉晋作は初めて、ひとを師匠として感銘を受けた。門下に入りたいと思った。
「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」松陰はいった。

                 
  長州の久坂玄瑞(義助)は、吉田松陰の門下だった。
 久坂玄瑞は松下村塾の優秀な塾生徒で、同期は高杉晋作である。ともに若いふたりは吉田松陰の「草奔掘起」の思想を実現しようと志をたてた。
 玄瑞はなかなかの色男で、高杉晋作は馬面である。
 なぜ、長州(山口県)という今でも遠いところにある藩の若き学者・吉田松陰が、改革を目指したのか? なぜ幕府打倒に執念を燃やしたのか?
 その起源は、嘉永二(一八四九)年、吉田松陰二十歳までさかのぼる。
 若き松陰は長州を発ち、諸国行脚をした。遠くは東北辺りまで足を運んだという。そして、人々が飢えに苦しんでいるのを目の当たりにした。
 ……徳川幕府は自分たちだけが利益を貪り、民、百姓を飢餓に陥れている。こんな政権を倒さなくてどうするか……
  松陰はまた晋作の才能も見抜いていた。
「きみは天才である。その才は常人を越えて天才的といえるだろう。だが、きみは才に任せ、感覚的に物事を掴もうとしている。学問的ではない。学問とはひとつひとつの積み重ねだ。本質を見抜くことだ。だから君は学問を軽視する。
 しかし、感覚と学問は相反するものではない。
 きみには才能がある」
 ……この人は神人か。
 後年、晋作はそう述懐しているという。



 黙霖は芸州加茂郡(広島県呉市長浜)生まれの本願寺派の僧侶で、やはり僧だった父の私生児である。幼いときに寺にやられ、耳が聞こえず話せないという二重苦を負いながら、和、漢、仏教の学問に通じ、諸国を行脚して勤王を説いた。周防(すおう)の僧、月性は親友である。
 黙霖は松陰に面会を申し込んだが、松陰は「わが容貌にみるべきものなし」と断り、二人は手紙で論争をした。
 実は松陰は、この時期「討幕」の考えをもっていたわけではなかった。彼が説いたのは、「諌幕(かんばく)」である。野山獄にいた頃にも、少年時代に学んだ水戸学の影響から抜け出せてはいなくて、兄の梅太郎に書いた手紙には、「幕府への御忠義は、すなわち天朝への御忠義」といっていた。
しかし、黙霖との論争で、二十七歳の松陰はたたきのめされた。
「茫然自失し、ああこれもまた(僕の考えは)妄動なりとて絶倒いたし候」「僕、ついに降参するなり」「水戸学は口では勤王を説くが、いまだかつて将軍に諫言し、天室を重んじたためしがないではないか」
そして、黙霖は、松陰に山県大弐が明和の昔に著わした『柳子新論』の筆写本を贈った。
松陰は「勤王」「天皇崇拝主義」に目が覚めたという。
そして松陰は安政三年(一八五六)に、松本村にある「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を受け継いだ。萩の実家の隣にある二間の家だ。
長州藩には藩校の明倫館があるが、藩士の子弟だけがはいり、足軽の子などは入学できなかった。村塾にはこの差別がない。吉田栄太郎(稔麿・としまろ・池田屋事件で死亡)、伊藤俊輔(博文)、山県狂介(有朋)などの足軽の子もいる。その教授内容は、藩学の「故書敗紙のうちに彷徨する」文章の解釈ではなく、生きた歴史を教えることであり、松陰は実践学とも呼べる学問を教えた。塾生は七十人、九十人となる。「飛耳長目(ひじちょうもく)」という変わった学科がある。政治・情報科とでもいうか。松陰が集めてきた内外の最新情報が教えられる。イギリスのインド侵略、十年前のアヘン戦争、支那の太平天国の乱、国内では京都、江戸、長崎の最新情報である。藩士の一部は吉田松陰を危険人物視していた。親の反対をおしきってはいってきた塾生がいた。高杉晋作である。松陰は高杉を「暢夫(のぶお)」と呼び、知識は優れているが学問が遅れている自説を曲げず、と分析していた。
高杉晋作は松下村塾後、江戸の昌平黌(しょうへいこう)へ進学している。
だが、吉田松陰は公然と「討幕」を宣言し始める。尊皇攘夷というよりは開国攘夷、外国の優れた知識と技術を学び、世界と貿易しよう、という坂本竜馬のはしりのようなことを宣言した。それが「草莽掘起」な訳である。だが、松陰の主張は「「討幕」のために武力蜂起するべき」とも過激な論調にかわっていくに至り、長州藩は困惑し、吉田松陰を二度目の野山獄に処した。「武力蜂起して「討幕」とは、松陰先生は狂したとしか思えぬ」桂小五郎は言った。江戸にいる久坂玄瑞や高杉晋作らは、師が早まって死に急ぐのを防ごうとして、桜田の藩邸にいる先輩の桂小五郎に相談したのだ。
晋作が先輩の桂を睨むようにして反論した。「桂さん、僕は先生が狂したとは思えぬ。死ぬ覚悟なんじゃ」
久坂は訊ねた。
「いや、とにかく今は、藩の現状からしても、慎むべき時であろうと思います。桂さん、どうすればいいですか?」一同が桂小五郎をみた。
「松陰先生に自重して頂くにはわれら門下弟子がこぞって絶交することだ。そうすれば先生も考え直すだろう」
晋作以外は、吉田松陰への絶交宣言に同意した。絶交書を受け取った松陰は怒った。
「諸君らはもう書物を読むな。読めばこの自分のようになる。それよりは藩の“はしくれ役人”にでもしてもらいなされ。そうすれば立身出世がしたくなり、志を忘れるでしょうから……」「草莽でなければ人物なし」
松陰は妹婿の玄瑞に逆に絶縁状を送りつけた。
斬首にされた首は門人たちに話しかけるようであった。
「もしもこのことが成らずして、半途に首を刎ねられても、それまでなり」
「もし僕、幽囚の身にて死なば、必ずわが志を継ぐ士を、後世に残し置くなり」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 吉田松陰「異端の思想家」と萩の青年たち」)』榛葉英治(しんば・えいじ)氏著、プレジデント社刊120~136ページ参考引用


大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷敵殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国(米、英、仏、蘭)に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派”と“恭順派”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用



  松下村塾での晋作の勉強は一年に過ぎない。
  晋作は安政五年七月、十九歳のとき、藩命によって幕府の昌平黌に留学し、松下村塾を離れたためだ。
 わずか一年で学んだものは学問というより、天才的な軍略や戦略だろう。
 松陰はいう。
「自分は、門下の中で久坂玄瑞を第一とした。後にやってきた高杉晋作は知識は豊富だが、学問は十分ではなく、議論は主観的で我意が強かった。
 しかし、高杉の学問はにわかに長じ、塾の同期生たちは何かいうとき、暢夫(高杉の号)に問い、あんたはどう思うか、ときいてから結論をだした」
 晋作没後四十四年、維新の英雄でもあり松下村塾の同期だった伊藤博文が彼の墓碑を建てた。その碑にはこう書かれている。

       
 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するも漠し…

 高杉晋作は行動だけではなく、行動を発するアイデアが雷電風雨の如く、まわりを圧倒したのである。
 吉田松陰のすごいところは、晋作の才能を見抜いたところにある。
 久坂玄瑞も、
「高杉の学殖にはかないません」とのちにいっている。

  安政五年、晋作は十九歳になった。      
 そこで、初めて江戸に着いた。江戸の昌平黌に留学したためである。
 おりからの「安政の大獄」で、師吉田松陰は捕らえられた。
  松陰は思う。
 ……かくなるうえは西洋から近代兵器や思想を取り入れ、日本を異国にも誇れる国にしなければならない……
 松陰はそんな考えで、小舟に乗り黒船に向かう。そして、乗せてくれ、一緒に外国にいかせてくれ、と頼む。しかし、異人さんの答えは「ノー」だった。
 当時は、黒船に近付くことさえご法度だった。
 吉田松陰はたちまち牢獄へいれられてしまう。
 しかし、かれは諦めず、幕府に「軍艦をつくるべきだ」と書状をおくり、開国、を迫った。
  松陰は江戸に檻送されてきた。     
 高杉は学問どころではなく、伝馬町の大牢へ通った。
 松陰もまた高杉に甘えきった。
 かれは晋作に金をたんまりと借りていく。牢獄の役人にバラまき、執筆の時間をつくるためである。
晋作は獄中の師匠に文をおくったことがある。
「迂生(自分)はこの先、どうすればよいのか?」
 松陰は、久坂らには過激な言葉をかけていたが、晋作だけにはそうした言葉をかけなかった。
「老兄(松陰は死ぬまで、晋作をそう呼んだという)は江戸遊学中である。学業に専念し、               
おわったら国にかえって妻を娶り、藩庁の役職につきたまえ」
  晋作は官僚の息子である。
 そういう環境からは革命はできない。
 晋作はゆくゆくは官僚となり、凡人となるだろう。
 松陰は晋作に期待していなかった。
  幕府は吉田松陰を処刑してしまう。
 安政六(一八五九)年、まさに安政の大獄の嵐が吹きあれる頃だった。
 吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。

   坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。



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