緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

初秋の旧麻布区散策:国立新美術館を散策する

2012年10月13日 13時03分31秒 | 城南・港区全域


坂上の高台に「新国立美術館」の広大な敷地が広がっています。1990年代の六本木七丁目周辺は東京大学生産技術研究所(目黒区の駒沢に移転)や旧防衛庁(新宿区の市ヶ谷に移転)など国の施設が集まっていましたが、ここ10年ほどの間に再開発工事が実施されて新国立美術館や東京ミッドタウンとして生まれ変わりました。




現在の国立新美術館や政策研究大学院大学キャンパス、隣接している在日米軍施設がある場所は江戸期には伊予宇和島藩伊達家の上屋敷が置かれていました。標高20~30メートル位のなだらかな微高地がこの辺りには広がっていて、江戸城(皇居)にも近い位置にあるので多くの武家屋敷がこの界隈には集まっていました。




「国立新美術館」の正門玄関を通り抜けていきます。美術館の周辺は閑静な住宅街となっていて、美術館の敷地内も人通りがほとんどありませんでした。開館時間は10時から18時まで、休館日は毎週火曜日となっています。




明治維新後に上屋敷は取り壊され、それ以後は日本陸軍の駐屯地となり昭和3年(1928年)に、旧陸軍歩兵第三連隊の庁舎が建てられます。美術館の敷地に隣接して在日米軍基地があるのは、終戦後に敷地全体が連合軍に接収され、その後敷地の一部が日本に返還されたからです。




昭和37年(1962年)に千葉市弥生町にあった東京大学生産技術研究所がここ六本木七丁目地区に移転してきます。2001年(平成13年)には目黒区の東京大学駒場地区キャンパス内に移転します。その後の跡地には国立新美術館と政策研究大学院大学キャンパスが建設されることになります。ちなみに、日本に返還されなかった陸軍基地の跡地には現在も在日米軍の麻布ヘリポートや星条旗新聞社、赤坂プレスセンターの施設が建っています。




2002年に着工した新美術館の設計は故・黒川紀章氏によって進められ、2003年6月に正式名称を「国立新美術館」に決定されます。この美術館は独自の収蔵品を持たず、 複数の公募展の同時並行開催と、新聞社などの主催の大規模企画展のための会場貸しとされ、美術品コレクションや学芸員は置かないコンセプトの美術館として造られたのです。そのため、この美術館の館内には常設展示物が存在しません。




うねるようなガラス張りの壁面となっている新国立美術館のエントランスホール、1階~3階までの高さ分の巨大な吹き抜け空間となっています。大きなウェイブを描いているエントランスホールの中には各階の全ての展示室につながっている通路やエスカレーター、カフェやレストランが入っています。




これまでの美術館のイメージを覆してしまうような斬新な設計となっている国立新美術館。この美術館を設計された黒川紀章氏はこの美術館が2007年1月に開館した同年10月に亡くなりました。氏が設計の美術館としては最後のものとなりました。




正面入り口からロビー空間の中を散策していきます。ロビーの中は節電のためか若干暗いと感じましたが、全面ガラス張りのウェイブを描いた壁面は内部から見ても圧倒的な迫力です。とは言ってもロビーの内部は若干の人数の人々がベンチに座ってくつろいでいるなど、穏やかな雰囲気が広がっていました。




巨大な吹き抜け空間の中を散策していると、本当に美術館なのかと思ってしまいます。




3階分の高さの吹き抜け空間には2層構造となってる連絡通路が配置されていて、この通路から各階の展示室へ移動できるようになっています。建物のうねるような外観だけを見ると建物内部も複雑な構造になってるようなイメージが湧いてきますが、実際には建物の作りはいたってシンプルです。




エスカレーターを上って2階の連絡通路へ移動します。各界の連絡通路にはカフェやレストランが併設されています。




建物の1・2階にはそれぞれ企画展示室が1部屋、展示室が2部屋設置されています。3階には展示室が1部屋と講堂・研修室・アートライブラリーが設置されています。




2階の連絡通路の様子です。展示室を覗いてみるとあまり見学者の数は多くはないように感じました。今後はどれだけ注目されるような展覧会などを誘致できるかにかかっていると言えるでしょう。




再び1階のロビーに戻ってきました。この次は東京ミッドタウンへ向かいます。




六本木七丁目地区の閑静な住宅街に囲まれた美術館となっています。

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初秋の旧麻布区散策:六六交差点前から国立新美術館前まで

2012年10月11日 21時20分04秒 | 城南・港区全域


六本木ヒルズ六六プラザの上から撮影した六本木通りとその上を走っている首都高速3号渋谷線の高架橋です。これから六本木七丁目界隈の住宅密集地の中を歩いて、「国立新美術館」へ向かいます。住宅街や繁華街としての性格が強い六本木地区において、六本木通り沿いはオフィス街としての雰囲気が強いです。




六本木通りは港区内を斜め上右方向へまっすぐ通っている大通りで、霞ヶ関からJR渋谷駅東口で国道246号線に合流しています。3号渋谷線は首都高速都心環状線の谷町ジャンクションから世田谷区の用賀料金所まで伸びている自動車専用道路です。3号渋谷線はその先で東名高速道路にそのままつながっているので、日本の大動脈の道路が六本木地区の中を通っているわけです。




麻布トンネル(ハリウッドトンネル)の上には再開発工事によって「六六プラザ」の巨大な人工地盤が構築されています。この人工地盤の感性によって、地下鉄六本木駅の地上出口(メトロハット)から森タワーのメインエントランスへ直接アプローチできるようになっています。また、人工地盤そのものが広場としての機能も持っています。




六本木通りは東京都心部から渋谷方向へ抜けることが出来る大通りなので非常に交通量が多いです。歩道にはビジネスマンの姿が多く見られました。




外苑東通りは六本木通りの脇で地上へと出てきます。そのまま「六本木六丁目交差点」を経て青山方面へ北上していきます。




六本木通りと外苑東通りが交差している「六本木六丁目交差点(通称「六六交差点」)」です。地下道を渡って青山側へ移動しました。これから再び外苑東通りを散策して国立新美術館へ向かいます。




六六交差点から外苑東通りを青山方面へ向かって散策していきます。大通りの周囲は六本木七丁目の中層マンションや住宅が密集していて、大変閑静な雰囲気です。再開発工事が行われる以前の六本木六丁目界隈もこのような雰囲気だったのかもしれません。




外苑東通りはこの先で「六本木トンネル」で在日米軍基地の敷地の下を通過していきます。このトンネルが完成する1993年(平成5年)以前は、外苑東通りは六本木側と南青山側で分断されていた状態だったのです。




外苑東通りの車道部分はこのまままっすぐにトンネルへと入っていきますが、歩道部分は下り階段となっていて崖下の住宅街の中を歩いていくことになります。




この辺りは六本木ヒルズのある「麻布台地」の丘陵地帯と、青山霊園が広がる「青山台地」の高台に囲まれた緩い谷間の底の部分や斜面に住宅や中層マンションが密集していて、道路なども非常に入り組んだルートになっています。




国立新美術館と同時期に東京大学生産技術研究所、同物性研究所跡地に建設された「政策研究大学院大学キャンパス」の脇の坂道を登っていくとこれから向かう「国立新美術館」の敷地と建物が見えてきます。




坂道を登っていくと、常に目の前には東京ミッドタウンの「ミッドタウン・タワー」の巨大な建物を見ながら歩いていくことになります。国立新美術館へ寄った後に東京ミッドタウン・檜町公園へ向かいます。




意外と急な坂道に沿って中層マンションや住宅街が密集しています。平日の昼間の時間帯ですと人通りはほとんどなく、閑静な住宅街といった雰囲気でした。港区内では斜面の上に住宅街が広がっているのが普通の光景なんですね。




政策研究大学院大学の敷地に沿ったカーブの先を抜けていくと・・・。




都市型のタワーマンションが林立していました。東京都心部でタワーマンションといえば隅田川や豊洲など湾岸エリアに多いイメージがありましたが、最近では都心の内陸部でも見かけるようになりました。




上り坂の緩いカーブをさらに曲がると正面の高台に「国立新美術館」の広大な敷地が広がっていました。元々日本陸軍の基地であり、戦後の東京大学生産技術研究所跡地にできた美術館なので、どうも交通アクセスが良くない立地なのは確かです。最寄駅である地下鉄千代田線乃木坂駅からだと歩道の狭い道路を歩かなければいけませんし。




地図の中心点が外苑東通りの六本木トンネルの入り口です。ここの階段を降りて国立新美術館へ向かいます。トンネルの上には在日米軍基地や青山公園の緑地帯が広がっていて、トンネルの東側(現在の政策研究大学院大学キャンパス・国立新美術館)はかつて東京大学生産技術研究所、同物性研究所の敷地となっていました。

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初秋の旧麻布区散策:六本木ヒルズメインエントランス広場「六六プラザ」を散策する

2012年10月10日 14時41分48秒 | 城南・港区全域


六本木ヒルズ森タワーを取り巻くように広がっている歩行者用通路を歩いて「六六プラザ」へ向かいます。森タワーの周辺は毛利庭園やアリーナと違って人通りが多いと感じました。スーツを着たビジネスマンの人たちだけでなく、買い物や観光に訪れている人の姿も多く見かけました。




森タワーに隣接している映画館「TOHOシネマズ 六本木ヒルズ」や、森タワー52階の森アーツセンターや東京シティビューへアクセスすることができる「ミュージアムコーン」の脇を通り過ぎていきます。




外苑東通りの「麻布トンネル(別名「ハリウッドトンネル」)」の上に広大な人工地盤として整備されている「六六プラザ」。六本木通りから六本木ヒルズの敷地へ入る際の通り道として常に多くの人々が行き交っています。また、地下鉄日比谷線六本木駅の入口が広場脇に設置されています。




再開発工事が行われる以前はこの場所にはハリウッドビューティサロンやハリウッド化粧品、ハリウッド美容専門学校の建物が建っていましたが、工事によってハリウッドビューティプラザの建物として建て直された他、エントランス広場として再生されました。




外苑東通りの麻布トンネル(ハリウッドトンネル)を見下ろして撮影しました。再開発工事以前の麻布トンネルといえば、六本木六丁目の斜面に沿って広がっている住宅地の中を片側一車線のトンネルが通っていたことを思い出します。トンネルの上の高台の上には「ハリウッド化粧品」などの建物が立っていました。




麻布トンネルの斜面の上には六六プラザの人工構造物が建設されています。六六プラザの一つ下の階層部分は六本木ヒルズのタクシープールなどのロータリーが整備されています。




六六プラザから東京湾方向を撮影してみると、麻布台地下に広がっている市街地が見えました。中央には東京タワーが写っています。遠くから見るとわかりづらいですが、港区内には起伏のある地形だらけで平坦な地面というのは本当に少ないのです。その斜面の上に港区の街並みが続いています。




六六プラザの人工地盤の上には芝生や木々が植えられていて、その周囲にはベンチが設置されています。多くのビジネスマンや観光客の人たちがベンチで休憩したり昼食を食べたりしていました。




ハリウッドビューティプラザの建物の脇にはバラ園が併設されています。まるでここの一角だけが西洋のお伽話の世界に入り込んだ感じです。




このバラ園の中からも芝方面を見渡すことができました。




六六プラザから見上げて撮影した「森タワー」です。太陽の方向を向いて撮影したので思い切り逆光になってしまいました。




学校施設ハリウッド化粧品本社やハリウッド美容専門学校のあるハリウッドビューティプラザの建物の正面玄関です。学校施設だけでなくカフェやレストラン、ファッションや雑貨、化粧品などのお店も入居しているので、学校関係者だけでなくとも楽しむことができます。




ハリウッドビューティプラザ前から撮影した六六プラザ、敷地の外線に沿って屋根付きの通路がカーブを描いて設置されています。平日の昼下がりの時間帯であっても人通りは大変多く賑やかな雰囲気でした。




やはり場所柄か外国人のビジネスマンの人たちが多かった気がしました。ちなみに六本木ヒルズ森タワーのオフィス階には「ゴールドマン・サックス証券」など外資系の会社が多数入居しています。




六本木ヒルズの敷地に併設されているラグジュアリーホテル「グランドハイアット東京」へと続いている連絡通路を歩いていくと・・・。




省エネルギー型外気冷却システム「ドライミスト」が稼働していました。ドライミストには噴霧エリアの気温を約1~3℃低下させる効果があり、実際に少しひんやりとした感じになりました。




東京地下鉄日比谷線六本木駅に直結している「メトロハット」の脇を通り過ぎて六本木通りへ降りていきます。次回は六本木七丁目の市街地の中を抜けて「国立新美術館」へ向かいます。




六本木ヒルズの敷地内を麻布トンネル(ハリウッドトンネル)が貫通しています。トンネルそのものの存在は再開発工事以前から変わらないですが、斜面上にさらに盛り土で埋めてその上に森タワーを建設するなど、このあたりの地形は大きく変わっています。

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初秋の旧麻布区散策:毛利庭園を抜けて六本木ヒルズ六六プラザへ

2012年10月09日 21時11分49秒 | 城南・港区全域


外苑東通りに面した毛利庭園の入口に到着しました。これから毛利池の北側へと続いている散策路へ回り込んでみます。外苑東通りの向こう側は六本木六丁目地区の住宅密集地となっています。この辺りは地面全体が六本木側から麻布十番側にかけて斜めに傾いている地形となっています。




麻布台地から麻布十番・一の橋の低地まで続いている緩やかな斜面上に造成されている毛利庭園、東京都心部のど真ん中にこんなに鬱蒼とした緑地帯が存在しているとは驚きです。




斜面の上に続いている散策路脇の木々の間から毛利池を見下ろしてみました。散策道周辺は本当に静かで閑散としていました。




毛利池北側の散策道沿いには「ソメイヨシノ」の桜の木が5本ほど植えられていて、春の季節になると満開の桜のトンネル道となります。それ以外にニッカウイスキー東京工場時代のイチョウやクスノキなどの大木が敷地内に保存されています。




生い茂った木々の合間から「テレビ朝日本社ビル」の建物を眺めることができました。




敷地内の斜面を利用した滝を木橋で渡っていきます。周囲には水が流れ落ちるせせらぎの音が響いており、本当に大都会の中を歩いているのかと一瞬錯覚してしまったほどです。




この日は9月中旬で30度を超える真夏日だったのに、庭園内は日の光が届かずひんやりとした空気に包まれていました。




六本木ヒルズ森タワー低層部のショッピングモール前に到着しました。毛利庭園には散策道に通じている入口が数箇所存在します。




入り口脇には毛利庭園の説明版が設置されていました。




見上げて撮影した森タワー、ちょうど太陽が雲に隠れていた瞬間に撮影しました。




六本木ヒルズアリーナ脇の階段を上っていよいよ「六六プラザ」へ向かいます!




階段上からアリーナとテレビ朝日本社ビルを撮影してみました。




ズームで毛利庭園の敷地を撮影してみました。




森タワーを取り巻くように広大な人工地盤が形成されていて、六本木ヒルズの敷地の隅々まで続いています。




森タワー前から六本木ヒルズの住居区間である「六本木ヒルズレジデンス」へと続く連絡通路としての役割も持っています。次回は森タワーのメインエントランス広場である「六六プラザ」を散策します。



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初秋の旧麻布区散策:テレビ朝日本社ビルと六本木ヒルズ毛利庭園

2012年10月08日 14時33分54秒 | 城南・港区全域


六本木ヒルズ敷地内にある緑地帯「毛利庭園」の中を散策していきます。平日の昼下がりの時間帯の毛利庭園、昼食のために出歩くビジネスマンの人たちで賑わっている六六プラザやテレビ朝日本社ビル周辺と比較すると、まるで時間が止まっているかのように閑散としていました。




六本木ヒルズアリーナの敷地から「毛利庭園」へと入っていきます。この庭園は無料で敷地内を散策することができ、六本木ヒルズを訪れる人や、近隣住民の方にとっての憩いの場としての緑地帯となっています。7:00から23:00の時間まで入園することができます。




日本の中心が畿内(京都・大坂周辺)であった江戸時代、東京(江戸)の江戸城周辺には全国の大名の屋敷が建てられていました。とりわけ江戸城の南側、「城南地区」と呼ばれている港区から品川区、目黒区の一部の傾らかで平坦な微高地が続いている地域には多くの大名屋敷が存在しました。ここ六本木ヒルズのある六本木地区には長府毛利家(長州藩支藩の長門府中藩)の屋敷がおかれていました。




毛利庭園は麻布台と呼ばれる斜面に造られていて、敷地の中央には池が掘られています。池を囲むように長さ160メートルの散策道が作られていて、斜面に形成された滝等、立体的な雰囲気の日本庭園を楽しむことができます。また敷地内にはモミジ、桜、イチョウ、クスノキなどの木々が植えられていて、四季の移り変わりによってその表情が変わります。




毛利庭園内から西側を見上げると、どこからでも「森タワー」を見上げることができます。




江戸時代の六本木六丁目地区は「麻布日ヶ窪」と呼ばれてて、慶安3年(1650年)に毛利元就の孫である秀元が甲斐守となり、この地にに上屋敷を設け、その大名屋敷の庭園として毛利庭園は造成されます。当時は六本木六丁目の高台から東京湾を眺めることができたと言われていました。




毛利庭園の敷地の大部分を占めている「毛利池」、六六プラザのある斜面から流れてくる滝の水が流れ込んでいます。この池の真下の地中には、かつてこの場所がニッカウヰスキーの工場であった時代の「ニッカ池」と呼ばれていた池が保存されています。池の背後には「六六プラザ」の巨大な人工地盤の構造物が見えます。




毛利庭園とテレビ朝日本社ビルの敷地の境界は、養生中の芝生広場として整備されています。夕方や夜のテレビ朝日のニュースなどで、この毛利庭園から中継されることが多いですね。




散策道から振り返って六本木ヒルズアリーナの方向を撮影してみました。テレビ朝日本社ビルや映画館、住居区間である六本木ヒルズレジデンスの建物群に囲まれているのがわかります。




明治維新後には上屋敷は取り壊されて法律家・増島六一郎(中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の1人で初代校長)の邸宅になります。取り壊されたのは建物だけで、庭園自体はそのまま残されていました。第二次世界大戦の戦災に遭った後、1952年にニッカウヰスキーの工場、後に日本教育テレビ(NETテレビ)(後の全国朝日放送→テレビ朝日)の敷地となります。




また、日本で最初の美容室として知られるメイ牛山のハリウッドビューティサロンやハリウッド化粧品、ハリウッド美容専門学校の広大な敷地が戦前からありました。再開発以前の六本木六丁目の麻布トンネル(六本木通り)の真上にハリウッドの古い建物が建っていたことを今でも覚えています。




戦後のテレビ朝日周辺の六本木六丁目は住宅密集地だったこともあり道路が狭く、消防車が通行する事も困難な状況であったため、1990年(平成2年)に同局本社の移転も兼ねた再開発計画地域に指定されます。愛称で「六六(ろくろく)」と呼ばれているのも六本木六丁目が由来となっています。




再開発工事は1984年(昭和59年)にアークヒルズ完成に伴いテレビ朝日の本社が一時移転します。権利変換により森ビルが地権者となり、ここを中心にアークヒルズに続く大規模な都市再開発計画が同社内でスタートしました。しかし再開発工事を行うには、約500世帯の住民の立ち退きが必要不可欠であり、粘り強い交渉が長い間続けられていました。




全面ガラス張り構造となっている「テレビ朝日本社ビル」です。六本木六丁目の再開発工事に伴って1986年(昭和61年)にアークヒルズに本社機能が移転した後、六本木ヒルズが竣工した2003年(平成15年)に再び登記上の本社がここ六本木六丁目に戻ってきました。




2003年4月22日、六本木ヒルズのオープニングーセレモニーが行なわれました。出席した当時の小泉純一郎首相は「この東京の新たな街づくりに極めて刺激的、魅力的な六本木ヒルズが誕生したという、この誕生に立ち会うことができたのは幸運だと思います」と祝賀挨拶しました。あれから9年経ち、六本木の街のイメージは大きく変わったと思います。




現在の「毛利池」はニッカウイスキー東京工場時代まであった毛利庭園の旧池の上に土を盛って造成されています。

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