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どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

旅の記憶を辿る―5.大山崎山荘美術館

2013年08月15日 | 日記
さて これをどう書こうかと ビールを飲みながら考えている

昨年 神戸の旅の帰途に寄るつもりだったのだが 近畿地方の豪雨で交通が麻痺

リベンジのつもりだった


決して悪くは無かった

施主は加賀正太郎

大正ロマンを生き抜いた幸せな人かもしれないと思う

大阪船場の富商の子として生まれ 現一橋大学を出たあとは不動産・貿易・株式取引・ゴルフ場設計などで財を成す

少年時から蝶の収集 次第に登山と植物に目覚め 学生時代に日本人初のユングフラウ登頂 

遊学中のロンドンで見た蘭に魅せられ 以降のめりこむ

優雅だ

そしてここにも武田五一は登場する


見学料は900円

たったこれだけのものに高いと思った

しかも 内部の写真撮影は禁止

安藤忠雄が作ったという美術館が伸びている

彼独特のコンクリート打ちっぱなし

見るべきものはほとんど無い と言ったらあまりに辛辣だろうか


何が私をこう思わせるのか 

理解不足なのかもしれないし 900円のせいかもしれないし 撮影禁止のせいかもしれない

もう少し落ち着いたら 何かを学び 納得するのだろうと思う


この山崎には 実はすごいものがまだまだある

「聴竹居」 藤井厚二の自邸(実験的)であるが これが素晴らしいのだ

神戸の村山邸 今の「香雪美術館」が彼の作品

昨年は 閉館期とあって見ることはできなかった

ここも時折の見学期間以外は見ることができないのだが こういうものこそ 鎖が完全に解かれたら見てみたいものだ


そして もう一つあった

あったというのは 今年の7月に移築が決まってしまったからだ

これもいつか見たいと思う

そういうリストが増えていくのも また人生の喜びでもある


山荘からの下りで 私の右足膝の外側付近に痛みを感じ始めた

旅は始まったばかりだというのに 非常にまずい!

大丈夫か?私



半分投げやりな気分でこの写真をアップ


旅の記憶を辿る―4.五龍閣

2013年08月15日 | 日記
時はとっくに12時を回っている

この日 夜中の2時に起きて軽い朝食を取ってからというもの 口にしたものは水分だけ

どこかで食事と思いつつもなかなか手頃な店が見つからず こうなったら「五龍閣」まで我慢しようと決意した

この先 清水さんまでは見るところは無いので 大通りでバスに乗る

やっぱりバスは楽だぁ~~

「清水道」という停留所で降りる


ところで 私は旅に際して 出来る限りの手製の地図を作って持ち歩くことにしている

そんなことしなくてもスマホ(でなくとも携帯でも)で検索できるじゃん って思うだろうが 私にはどうも不向きなようだ

全く土地勘の無い地域では 東西南北は太陽の位置で判断するしかなくなる

第一 区名や町名にも馴染みが無いのだ


広域を見て詳細を知る

それがわからないと 距離感も位置関係もまるで把握できないのだ

これは全てに通じると私は思っている

広い世界と今を生きる自分を見ること

過去や未来を知りつつ 現在を生きる

この視点は私にはとても大事なことなのだ

この停留所で間違いの無いことは 私のPCで印刷し貼りあわせた手製の地図でわかっていた


「五龍閣」は「旧松風嘉定邸」であり 今は株式会社順正のカフェレストランになっている

観光客の多い坂道を上り 五条坂とぶつかった先にそれはあるはずだと目をこらしながら歩いていると・・・

これだ!




とにもかくにも食事が先 時は13:30を過ぎている

と これはすでに過去の私だが 日記を書いている今 思い出しながらビールでも飲もうっと


これも武田五一の設計である

ステンドグラスと 腰板というのか それが石材なのがとても良い



この部屋はかつてサンルームであった

この石は蛇紋岩というものだそうだ

深い緑と 文字通りの蛇紋がなんとも美しい



このステンドグラスのガラスは 乳濁している

元はアメリカ あのティファニーが乳濁ガラスを確立したのだそうだ

それがいかにも大正モダンである


夏の京野菜カレー(ご飯は少なめにしてもらった) 美味しかったぁ




二階の階段までは上がって見学しても良いということだったので 食事が済んでからそれを見せてもらう

松風嘉定という人は 元々は愛知県瀬戸の職人である

清水焼から発展して洋食器 やがて高圧碍子(こうあつがいし)と陶歯製造(入れ歯)で財を成したという





お礼を述べて外に出る



鴟尾があるのがわかるだろうか

アール・ヌーボーなど新しい美を取り入れた武田五一は 後年 法隆寺や平等院などの修復にも関わったという

この手前には噴水もあり 私はそれが見える席で食事をしたのだが もしも機会があったら是非とお勧めしたい


さて この後は大阪に行くまでの途中下車 山崎が待っている

京都博物館まで歩いてから京都駅までのバスに乗った

旅の記憶を辿る―3.南禅寺の水路閣

2013年08月15日 | 日記
南禅寺三門をくぐった時 さすがにすごいとは思ったのだが 私の心はあの水路閣にしか向いていなかった

今にして思えばもう少し見て歩くべきだったのだろうが とにかく真夏の京都見学なんてするもんじゃない

水路閣直行です

ちなみに 今回の写真のほとんどはオートモードで撮ったものである

今までは少しでも良い顔にしてあげたいと シャッタースピードやISOやF値など変えたりすることもあったのだが 今年は暑さでもうだめだった

それに人も車も多く それを避けて撮るためにはじっと我慢の子になる必要もあり 耐えられないことの方が多かったのだ


水路閣が見えてきたが この上の方まで歩くとその始まりにたどり着く

それがこれである





ちなみに 私はこんなところでもへっぴり腰になる

子供の頃は 木登りも高い塀の上を歩くのも大好きだったのに

知性と理性がついたせいか と思うことにする




いかにもとわかる写真では無いと思うが 私はこの入れ子のようなアングルが好きなのでこれを載せることにする

ここからの分水が「哲学の道」になるわけだが そんなところを歩くのは流れる汗とは無縁の季節にするのがベストだ


動物園そばの「無鄰菴」「京都市美術館」「京都府立図書館」などに寄りながら「藤井斉成会有鄰館」の前に立つ

―有鄰館という名前は「徳は孤ならず必ず鄰有り」と中国との善隣と友好を願って「論語」より名付けられた―というこの建物は 滋賀五個荘出身の近江商人 藤井善助が施主となり 1926年に竣工した武田五一設計のものである

武田五一という人は 例のコンドルの弟子であった金ちゃんや熊さんのひと世代後の人であり 関西には非常に作品が多い

西洋そっくりを良しとした時代から日本の伝統美にも目を向け始めた時代といってもよく また海外留学などでさまざまな美を吸収することの出来た時代でもあり 大正期をはさんだ頃の建築 明治の後半から昭和の初め頃までのものを私は特に好む


岡崎公園一帯に面したこの建物のいただきにある 中国古材を使ったという朱塗りの八角堂は実に目立つ




期間限定の開館であるために私は見学はできなかったが さて 謎は入口にある狛犬

狛犬は 初めは獅子だけだったものが犬と獅子の組み合わせになったとか 阿吽になっているとか まぁ研究者も多いのだが・・・

さて ここの向かって右側の犬は(獅子かもしれない)よくある玉を踏みつけている姿なのだが 左側が何を足の下に敷いているのかがさっぱりわからない




どうでもよいことなのだが いつもこんなことが気になったりする


 

旅の記憶を辿る―2.インクラインと琵琶湖疏水

2013年08月15日 | 日記
題名の事柄は 説明をしたらきりが無い

その歴史にしても 建造物にしても 関わった人物にしてもである

何度か書いているが 私のそもそもの建物見物の始まりは伊東忠太だった

それも 彼の建築物のすごさに感心したわけではなく 奇妙な意匠にどうしようもなく魅かれたのだった

それから始まったのだが それはつきつめてしまえば そして大げさに言えば 人と地方の営み 精神や歴史を必然的に知ることになる

しかし 私の日記はそんなことを理路整然と語るような日記ではないことや その能力の無いことも証明済み


かつて活躍したインクラインの道を歩く



台車と木造船(三十石船)が展示してある




この後に行った「琵琶湖疏水記念館」で体を冷やしながら読んだパンフレットによると 京都にとって琵琶湖から水を引くことは昔からの夢だったとある

明治維新によって東京遷都となったことから衰退していく京都に 琵琶湖疏水の力によって活力を呼び戻そうとしたらしい

大津から蹴上までの8キロの水路には幾つか煉瓦のトンネルがあり 私はいつかできるならそれを歩いて見たいなぁ~ なんてそんな程度の気持ちでここを選んだのだが ものすごい事業だったのだと思い知る


水は当然 高きところから低きところへと流れる

どの土地を通すべきかは測量の技量にかかっている

展示品には測量士 島田道生が常に携帯していたという竹の物差しが幾つも展示してある

そして土木工事の技師として任命されたのが 東大工学部の前身である工部大学校を卒業したばかりの田邉朔朗なる人

彼は土木学会のノーベル賞といわれる「テルフォード・メダル」をのちに授与されるのだが 後にも先にも日本人では彼ひとり 

水力発電 水道 そして電力による市営電車 今の京都の基礎がこれで出来上がったということだった


記念館で体を冷やした私は 南禅寺の水路閣へと向かう

どこを歩いていても水の流れる音が聞こえる

すでに時は10時半をまわりすっかり暑くなっている 

この水音だけが暑さにめげそうになる私の心を支えてくれる




※ 田邉朔朗に関して興味が湧いたので少し検索してみたところ、彼の姉はなんとあの片山東熊の夫人であった。(片山東熊といえば、コンドル最初の弟子。辰野金吾と並ぶ日本近代建築の祖。奈良・京都の博物館他、東京のそれの表慶館。明治天皇に贅沢過ぎると言われた現・東京迎賓館など、どれも重要文化財ばかりである。)
 樋口一葉の作家人生への野心に火をつけたと言われる三宅花圃の『薮の鶯』は、朔朗と姉の話であろうとのこと。
 なにせ、彼女の本名は田邉龍子。朔朗の従妹にあたる人である。これらのことは、朔朗の孫娘にあたる方がある業界紙に寄稿文に書かれていたことである。そして、彼女もどうやら土木業界に身を置く人らしい。