ならなしとり

外来生物問題を主に扱います。ときどきその他のことも。このブログでは基本的に名無しさんは相手にしませんのであしからず。

反面教師としてのサンプル2

2009-05-23 22:22:04 | 議論
 綾波さんへのお返事も兼ねて。

>ある学問分野に深く関わるにつれて、他の学問分野への尊敬も生まれてくるものだと思うのですが、彼や、分野外の世界にホイホイ首を突っ込み、適当なことを言われる方は、どうもそう言う感覚をお持ちではないのでしょう。

ある分野を知るにつれ、その分野がどのような論理で構成されているかその論理はどのような証拠に裏付けされているかがだいたいわかってきます。そして論理性や根拠のない言葉は一顧だにされないことも。そういうことがわかってくると他分野からの引用にも気をつけるようになりひいては他分野を構成する論理や知識について敬意を払うことになります。自分の言論のネタにさせてもらってるんだから当たり前といえば当たり前ですが。

 結局あの人は知るための努力すらせずただその場しのぎの言葉を吐いて逃げ回るだけのようですね。反論歓迎とブログのトップに書いてあるにもかかわらずそういう行動をするのは自分の論と向き合う気がなく、気ままに責任を負うことなく発言をしたいという意識の表れなのではないでしょうか。ぼくもたまに突っ込み歓迎などと書きますが、これは自分の言動と行動とが一致していないと自分の株を下げるだけというのがよくわかります。そういう意味でもあのブログは参考になります。
ただ、言いたいことを言いまくる布石としてはあのように不誠実な行動は意味があるのでしょう。本人は意図していないでしょうが論理性も根拠もないことを言い続けているうちに他人からは議論の相手としては見てもらえなくなります。そうなれば(議論のコストに見合わないから)反論も来なくなりやがて自分の論に賛同してくれる人たちと好き放題言いまくれるユートピアができます。それでどういうリスクを負っても知ったことではありませんが。

 彼らのような不誠実な人と向かい合うのは結構疲れます。議論をするとしてもハイコストローリターンですが、彼らから何も学べないのかというとそうでもありません。彼らがやっているのは不誠実で議論に値しない言動ですから、彼らの言動や反論に対する対応を見ることで議論でやっちゃいけないことはわかってきます。あとは自分が同じ轍を踏まないように「自分の論理、態度に彼らと一致することはないか?」という自問自答をしていくことで自分の論者としての質を高めていくことはできます。それが最短コースかは別として。
完全には近づけなくても間違ったものから遠ざかることはできるんですよね科学も論理も。 

追記 “100%”は不適切に思えてきたので“完全”に変えておきます。あと“0%”も“間違ったもの”に変えます。

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6 コメント

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Unknown (綾波シンジ)
2009-05-25 03:22:34
ほぼ同意です。

「やがて自分の論に賛同してくれる人たちと好き放題言いまくれるユートピアができます」
……たぶん、そんなできあがっていたユートピアに飛び込んできた宇宙人が私だったのでしょう。彼らの「視点」から見れば。
価値相対主義っていうか、「個人の視点」に固執することが、議論の意味をなくすものであるといい加減気付けないものか。

「議論でやっちゃいけないことはわかってきます。あとは自分が同じ轍を踏まないように」

自分も、それをする教材として捉えています。武田さんの本もそうですが、成り立っていない論理(詭弁)に、自分が陥ってしまっていないか?をかみしめる為の「反面教師」ですね。

彼の教え子のブログを見つけましたが、教え子からも、「主観で採点していた先生」との指摘がされているそうです。よっぼどアレなのでしょう……

そう言えば、コチラ↓は、このまえ、紹介しましたっけ?
http://ronri2.web.fc2.com/kiben.html
Unknown (綾波シンジ)
2009-05-25 03:43:58
連投失礼。

>完全には近づけなくても間違ったものから遠ざかることはできるんですよね科学も論理も。 
そうでしょうね。

注意すべきは、彼らは「完全」という何か結末めいた暗黙の前提を持っている(であろう)ことです。言うならば、学校の試験のように100点という結末があって、100点という結果の中で、何点分あるか?という発想なようです。

科学として理解しようと思えば、そのような「結末」は用意せずに、理解出来た段階までを理解すると言うことでしょう。「1」理解された事象をもって、「10」は言えない。「1」にとどめておけば、誰かが「2」にまでしてくれるかもしれない。

例えば、ウェゲナーの大陸移動説への理解の高まりも、「どの理解された事象を持って、どの程度確かに言えるのか」という理解と共に本来は発展してきたはずなのです。
これが、人によっては、確からしさなどそっちのけで、ウェゲナーが「大陸移動説」を唱えた途端に、大陸移動説が出来たと考えてしまうのかも知れません。
そんなのりで、何か「論」めいた事を思いつくと、それこそが論なのだと思って、<その確かさには敢えて目を向けず>、その思いを守りたいが故に、批判を受け付けなくなる。トンデモメカニズムです。

ただ、かれも↓を見る限り、幾分理解してきているようには思えるのですけどね。
http://blogs.yahoo.co.jp/ccomori/59707857.html

ただ、自分が言った話が穴だらけだとは認めたくないメンタリティが最強なのでしょう。そして、卑屈な同意を求めるエントリをあげ出す……
う~む自分の至らないところがわかったかも (梨)
2009-05-25 20:58:10
>注意すべきは、彼らは「完全」という何か結末めいた暗黙の前提を持っている(であろう)ことです。言うならば、学校の試験のように100点という結末があって、100点という結果の中で、何点分あるか?という発想なようです。

この点僕もちょっと考えが整理できてなかったと綾波さんのコメントを見て思いました。
完全という終着点を意識してしまうのはちょっと科学に関する議論としては筋が悪かったですね。むしろ理解の精度を上げることができると書いたほうがよかったですね。完全では絶対正しいをイメージする方もおられるだろうし、そのイメージだと実際の科学と合いませんから。
自分の理解の至らないとこがわかりました。綾波さんありがとうございます。
Unknown (綾波シンジ)
2009-05-25 23:19:23
いや、実は、私も最近気付いたんです。

そういうおかしな事を言う人たちの主張と、科学とはなぜ乖離が生じてしまうのか?を考えたときでした。

科学は、少しずつ地固めをするように知見を重ねていくのに対し、「温暖化懐疑論」では「<2100年には6℃上昇>は違う、だからウソ」(赤祖父)のように、実は、懐疑論の方こそ、ある「結末」を想定しているのではないか?そんな「結末」と外れているから、勝手に温暖化論議はオカシイとなっているケースが多いように思います。
「どこまで理解が進んでいるのかをしっかり見極めて、不確実性も含めて話を進める」ことが科学のはずなのに・・・。

江守さんの著書のフレーズを見ていて、そう思っている次第です。
http://blogs.yahoo.co.jp/eng_cam_fld_tgs/37554379.html

「科学とは不確実なものである」というのは、確かにそうで、よく知ったようにそのフレーズを使う人がいますが、どの程度不確実で、どの程度確実なのか?を知ることが科学の入り口なんだと思っています。

人が脳内で勝手にゴールを設定してしまう現象を以下のように説明してみました
http://blogs.yahoo.co.jp/eng_cam_fld_tgs/40579079.html
Unknown (梨)
2009-05-25 23:57:07
レスしきれなかった分を。

>そう言えば、コチラ↓は、このまえ、紹介しましたっけ?
http://ronri2.web.fc2.com/kiben.html

いや、ご紹介いただいたことはなかったはずです。また読んでみます。

>ただ、かれも↓を見る限り、幾分理解してきているようには思えるのですけどね。

あ、あれで理解してきたんですか。僕が知ったのは最近なのであれよりひどいとなるともはや異界か異次元に思えてきます。ご紹介先の記事にしても厳密な論理を使用すべき領域とそうでない領域をいっしょくたにして相殺法をおこなっているように見えますが。
Unknown (綾波シンジ)
2009-05-26 18:01:01
>あ、あれで理解してきたんですか。

彼、「テクノ系」にて、武田本だとかの受け売りを昔はそのまま垂れ流していました(ただし出典表記一切無し)
http://blogs.yahoo.co.jp/ccomori/folder/1482043.html?m=l&p=6

そう言う本にころっと騙されてか、私の下記記事内でも、イタタな考えを披露しています
http://blogs.yahoo.co.jp/eng_cam_fld_tgs/34595847.html
こういう結果ありきな発想はなかなか抜け切れていないようです。

が、これでもまだだいぶと慎重になっている方でしょう。