mickey3のパラオ便り

わたしの経験した米国研修から12年、第二の人生はJICAシニア海外ボランティア。太平洋の楽園パラオからお便り送ります。

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スペイン巡礼Camino de Santiago

2019-12-10 09:58:43 | JICAボランティアその後
起 
 スペイン巡礼のことを知ったのは、「四国へんろ」をして暫くたった頃である。世界遺産に登録(1993年)されている。そんなことも契機となって、いつか行ってみたいと思った。スペインにあるそれだけで魅了するに十分だった。そして「四国へんろ」結願を達成、次はスペイン巡礼だと強く心に秘めた。その後JICAボランティアでスペイン語圏に赴任し2年間の任期を終え、その思いはさらに強くなった。JICAボランティアで巡礼経験者に何人か出会ったことも大きい。極めつけはそのことを書籍に表している。そんな人との出会いが決定づけた。そして、2019年実行に移した。


 選んだルートは最も人気があるフランスの道。フランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポーSaint Jean Pied de Portからピレネー山脈を越えてサンチアゴ・デ・コンポステーラSantiago de Compostelaまでの凡そ800kmを徒歩で完遂するというものである。私は、四国遍路は完遂したが全て歩き通した訳ではない。88カ寺を訪れたというだけである。そのことを肝に、何度も行けるはずもないスペインへ。兎に角、休んでもいいので徒歩で線をつないで行こうと決めた。4月に17日間、9月から10月に22日間、合計39日間で完歩した。宿泊はAlbergue巡礼宿で世界中からの巡礼者が宿泊するドーミトリー形式の安宿である。大きな都市等では余分に1泊以上ホテルにあてゆっくり休んだ。背負う荷物をできるだけ軽くするため最小限にし、残りは大きなスーツケースに収め、都市間移動をポーターサービスや郵送の制度を利用した。スマホの利用と巡礼者用のアプリが大いに役立った。宿泊はホテルを除き巡礼宿は飛込である。出立は日が昇る8時ごろ、1時過ぎには到着、洗濯をして翌日の計画立案と休息に当てた。


 4月初めフランスの出発地点サン・ジャン・ピエ・ド・ポーでは巡礼宿Gite Makitaに泊まった。4人部屋、男性2名女性2名で共用のバスルームは男女兼用だった。少し度肝を抜かれたがその後何度か体験して慣れてしまった。多くの巡礼者のほか山間の観光地で大勢の観光客がいたことが印象深い。少し寒かったので急遽ダウンのジャンパーを購入した。歩程1日目は難関のピレネー越えで死ぬような思いだったが、大勢の巡礼仲間に励まされ最初の巡礼宿Roncesvallesにたどり着いた。ここは、ベッド数183の大きな収容施設で大勢の巡礼者が宿泊していて誰が誰か思い出せないほどだ。巡礼宿に近接した教会で参加したミサでは我々巡礼者の国名を挙げ安全祈願をしてもらったことが今も記憶の片隅にある。3日目はやや薄暗い中出立した。9日目、大きな都市ログローニョLogronoに到着、ホテルは予約したNH Logrono、巡礼宿はAlbergue Peregrinoで市街地に位置している。余分の丸一日は終日市内観光に費やした。12日目、初めて無料のdonativo宿を利用。宿泊、食事みな無料だった。寄付は内容を見てと巡礼仲間のアドバイスに従い出立の朝10ユーロ寄付した。13日目、途中から雨が降り出した。休憩では寒さと雨に悩まされその後早々に宿を見つけずいぶんと早めに投宿した。15日目ブルゴスBurugos、2日ほど滞在し観光と休息に費やした。18日目、帰国の切符があるため前半戦はここが最終日となった。巡礼宿Albergue Orionの夕食をとった。巡礼者は、スペイン、ドイツに次いで韓国は3番目に多い。そのせいもあってか夕食のメインメニューは韓国料理プルコギだった。 
 凡そ半年後、後半の巡礼開始。歩程19日目は前半終了のCastrojerizから開始したが利用した巡礼宿はAlbergue Rosanjeraとした。夕食も提供され、多くの巡礼者と情報交換に努めた。30日目、満杯で2件続けて断られるが主人の好意で倉庫の空きベッドで何とか宿泊を確保できた。これまで飛び込みであったが断られたことはなかったので少し驚いた。大きなイベントが街であることが要因だった。歩程33日目、経路が二つあった。通常経路が二つある場合短い方を選択するが、今回はSamos経由の長い方を選択。巡礼宿は教会で無料だった。おまけは教会建物内の見学ツアーが夕方あり参加した。34日目Sarria。残りは100㎞程となり、ここから歩く多くの巡礼者に出会う。徒歩で100㎞を歩くと証明書がもらえる。39日目、残りは10㎞程であるがあえて巡礼宿に泊まり、朝早めに着いて巡礼事務所へ行って証明書をもらう予定をしていた。昼食をとった後事務所に行ったが大勢の巡礼者が列をなし締切られていた。翌日、早朝より証明書をもらうため並ぶ。8時開始の証明書交付時には100人以上の行列ができた。779km走破の証明書とともにもらった完歩の証明書は私の勲章である。


 世界各地からの巡礼者と英語やスペイン語で友好を深めた。スペインの田舎の美しい風景、安くておいしい食べ物とワインを堪能した。一度完遂すると、次回は安易である。また行ってみたいそんな思いである。
 同時に,日本の四国へんろを一気に完歩してみたい。そんな気にさせた私のスペイン巡礼の旅だった。

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同志を訪ねてザンビアへ、そしてアフリカ初訪問

2017-09-09 09:36:53 | JICAボランティアその後
 ドミニカ共和国時代の同志はもうほとんど70歳以上となった。JICAボランティアにもどうやら定年というか、お務めできない年齢制限なるものがあるようだ。同志はこれが最後とザンビアで頑張っているが9月には任期を終え帰国となる。

 今回私にとってアフリカは初めての地だ。どうしても行ってみたいと若干の無理をして先発の2グループに遅れて合流した。第1グループはビクトリアの滝をメインとしてその後帰国。第2グループはビクトリアの滝と南アフリカのケープタウンを観光して帰国。第3は私だが、ケープタウンで合流しザンビアを訪問して帰国の途につくというものである。共通するのは皆ザンビア赴任の同志の激励でザンビアには入国したというものである。

 私は南アフリカ共和国のケープタウンで合流し、喜望峰など観光したあとザンビアの首都ルサカへ。空港で迎えに来てくれた同志はありがたかった。単独では決して訪問する事など夢にも思わない気がしたからだ。大体想像したアフリカの小さな国だが、細かい点ではこれまでと異なることもあった。英語が共通でみな流暢だ。道路は日本と同じで車は左側通行だ。これは、南アフリカでも見られた。英国の植民地時代の交通システムを踏襲している。
 旅行期間は2017年の6月だった。
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同志を訪ねて南米のチリへ

2017-09-09 09:13:14 | JICAボランティアその後
 2015年4月JICAボランティアの同志を訪ねてチリを訪問した。
ドミニカ共和国時代の同志宅でしばらくお世話になった。チリはヨーロッパを彷彿とさせる近代国家のようだった。こざっぱりとした町並みや高層ビルが林立する市街地など目を見張るばかりだ。スペイン語も綺麗で人々も洗練されているように感じた。
 同志は赴任してほぼ1年が経過した頃である。今回の訪問で同伴したのはこれもドミニカ共和国時代の同志である。
 
 首都サンチアゴの同志のうちに到着早々小さな地震が起こった。大騒ぎでニュースもしきりにそのことを放送していた。同じような時期に日本で大きな地震が九州の熊本で発生したとのニュースがあった。24時間ほど後に同じような規模の本震があったので「前震」と呼ばれた。チリは日本と同じように地震国でこれまで起こった世界最大の地震は1960年に起こった超巨大のチリ地震でマグニチュード9.5である。彼の勤務先を訪問した時も話題はもっぱら日本の熊本で起こった地震であった。
 有名なワインの産地国として有名なチリで多くのワインが日本に輸入されていて馴染みが深いワイナリーの訪問、世界遺産の街ラスパライソなど訪問した。  
 
 帰路には念願のマチュピチュ訪問を果たした。ペルーでは、パラオ赴任時に駒ヶ根訓練所で一緒だった同志にお世話になった。彼はSVとして首都のリマで活動しているが2度目のJICAボランティアで青年協力隊の経験者でもある。
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里帰り

2015-10-26 16:14:34 | パラオ
 青年協力隊の隊員がかつて赴任した国に行く事を「里帰り」と言う。一般的な表現は旅行に行くと言うのだが、二年間という青春時代の長い期間を異文化の地で過ごした経験はかけがえがなく尊い。ちょうど生まれ育った地にもどるときに使う言葉「帰省する」に近い感覚なのだろう。行くより帰るが感覚的に相応しいようだ。

 私は、任期を終え日本へ戻る時にまたパラオに戻ってこようと思っていた。隊員は3ヶ月ごとに迎える隊員と任期を終え帰国する隊員がいるので自分の知った隊員がいるあいだに「里帰り」はしたいと思っていた。特に今回は四月の天皇皇后訪問の少し前に帰国した。そんな思いもあった。

 お世話になったコロール州の職場の訪問や懐かしい協力隊の仲間との会食など一週間ほどの滞在はあっという間だった。慣れ親しんだ常夏の砂浜、透き通った海での海水浴などかつて過ごした時を懐かしみ楽しんだ。

 私のパラオでの2年間の活動の一旦はいくつかの新聞や記事等で紹介されている。パラオのブログの最後にまとめて例規したい。参考になれば嬉しい限りだ。
・パラオの日本大使館のHPにて紹介されたものである。
 パラオで活躍するJICAボランティア(和文)(英文)

・着任して早い時期に投稿したものである。
 世界HOTアングル

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災害がないと思っていたパラオ

2015-02-19 09:54:39 | パラオ
 2012年12月はこの国には災難だった。この国では珍しく大きな台風が襲い木々がなぎ倒され家屋の倒壊などが見られた。特に被害がひどかったのはパラオの南部で、アンガウル島やペリリュー島がその犠牲になった。
 周りを芝生で覆われた大きな敷地にぽつんと立つ平屋建ての建物はアンガル島の典型的な戸建ての住宅である。基礎だけ残った家屋の傍らのバラックの小屋で生活している人に出会った。基礎だけ残して吹き飛ばした台風Bopha、そのすさまじさを思い知らされた。赴任して暫くしてアンガウル島を訪れ半年ほど前の台風被害を目のあたりにしたのが懐かしい思い出となった。
戸建住宅の周りに、大きなヤシの木などが林立している。見なれた景観だが、これはこれで危険だそうである。大きなヤシの木が台風によって倒れてくると貧弱な木造の家屋は簡単に壊れるからだ。
さてこの台風であるが凡そ15年ぶりだと言う。さらに、もっと大きな台風となると50年以上も前になるそうである。日本のように毎年のようにやってくる台風とは縁が無い、否薄いのである。
 
 そして翌年2013年11月台風Haiyanが襲った。今度は北部のカヤンゲル島である。学校をはじめ多くの建物がなぎ倒された。そしてこの台風はフィリピンへ向かい甚大な被害をもたらしたので世界中に広く知られることとなった。
 台風はこうした南太平洋の沖、はるか沖縄の南東域が多くの台風の発生域だが、パラオは発生域から少し外れるせいか、この国では台風とは無縁である。否、無縁だった。
 
 その後聞いた話では地震とも無縁だと思っていたが5年ほど前にあったようだと言う。目から鱗だった。
 2014年は幸いにして台風などは無かった。私は安堵した。
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