「なりゆき」のチカラは強大で、絶大だ。
個人の努力など、「なりゆき」の前では、無力に等しい・・・・いや、(無力に)近しい。
この世界においては、ほとんどすべてのことが「なりゆき」で決定される。
魔が差した・・・・とか、
あの時何であんなことしてしまったんだろう?とか
信じられないくらいラッキーだったよね とか
人生にはさまざまな分岐点や、その選択肢があるが、
全ての決定権は自分にはなく、
「なりゆき」が全部決めてきたのだ、今までのこと全部。
自分で選んできた?・・・いや、それは「そんな気」がするだけ。
ちょっと話それるけど
ついこないだ、元事務次官か何かの官僚の超エリートのおじさん(おじいさん)が
オタクの息子を刺殺する、という悲惨な事件が起きた。
想像でものを言うのだが、きっと誰しも、自分の「子供」って自分の思い通りには育ってくれない。
(そうでない人も、そりゃ、いるだろうけどさ。)
多かれ少なかれ、子供は学校とか、外の友達とかから
ワケのわからないひねくれた変な、悪い影響を受けて帰ってくる。
そして嫌ぁな、嫌ぁ~な、奴になる・・・・ことが多い・・・と思う。世の中。
こないだの事件はそれの一番ひどい例だろう。
「子供の育て方を失敗した」と思ってる親は多いと思うけど、
どっちにしたって無理だったのだ。
学校に行かさないワケにはいかないし、大体が、人は何に影響受けようが自由だ。
どんな嫌ぁ~な奴になるのも、自由なのだ哀しいけど。
で、話戻るけど
そういうのも全部「なりゆき」だ。
無限の可能性と不可能性を排除することなど、誰にも出来はしない。
すべてを流れのまま受け入れるしかない。
我々は、何も選べはしないのだ。
すべては「反射的行動」だ。
ひとは、考える前に「反射」で行動している。
だから、ただその瞬間瞬間を精一杯「反射」して行くだけだ。
ただ、これは絶望的な考えではない。
何故か?というと、実は僕は、その「反射」の中にこそ
「自由意志」を行使できる隙間がある、と思うからだ。
気合を入れて、
ほんの一瞬も気を抜かずに生きる。
何が起こったとしても、正しく「反射」できるように、自分を律するのだ。
そうすることによって我々は向上できるし、
そのことによって、「ペイン」も「エントロピー」も殺せる。
最終的に、そのことの積み重ねが「なりゆき」の流れに一石を投じることになる。
自分で自分の運命を切り開きながら生きることは可能なのだ、
と僕は考える。
ボーッとしてたら「なりゆき」という名の運命論に押し流されてしまうけど。
今日の結論は・・・嫌ぁ~な奴にはなるまい、ということだ。
それだけだ。
写真は、こないだ配ったチラシ。
ROCA’66、次はいよいよ、現・十三ファンダンゴでの最後のライヴ。
2019年、7月10日、水曜日。
最高に「いい」奴等、怒髪天と再会できる。
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