「なりゆき」的運命論。・・・いや、非・運命論。

2019-06-06 20:36:51 | Weblog

「なりゆき」のチカラは強大で、絶大だ。

個人の努力など、「なりゆき」の前では、無力に等しい・・・・いや、(無力に)近しい。

この世界においては、ほとんどすべてのことが「なりゆき」で決定される。


魔が差した・・・・とか、

あの時何であんなことしてしまったんだろう?とか

信じられないくらいラッキーだったよね とか


人生にはさまざまな分岐点や、その選択肢があるが、

全ての決定権は自分にはなく、

「なりゆき」が全部決めてきたのだ、今までのこと全部。


自分で選んできた?・・・いや、それは「そんな気」がするだけ。




ちょっと話それるけど

ついこないだ、元事務次官か何かの官僚の超エリートのおじさん(おじいさん)が

オタクの息子を刺殺する、という悲惨な事件が起きた。

想像でものを言うのだが、きっと誰しも、自分の「子供」って自分の思い通りには育ってくれない。

(そうでない人も、そりゃ、いるだろうけどさ。)

多かれ少なかれ、子供は学校とか、外の友達とかから

ワケのわからないひねくれた変な、悪い影響を受けて帰ってくる。

そして嫌ぁな、嫌ぁ~な、奴になる・・・・ことが多い・・・と思う。世の中。

こないだの事件はそれの一番ひどい例だろう。

「子供の育て方を失敗した」と思ってる親は多いと思うけど、

どっちにしたって無理だったのだ。

学校に行かさないワケにはいかないし、大体が、人は何に影響受けようが自由だ。

どんな嫌ぁ~な奴になるのも、自由なのだ哀しいけど。 



で、話戻るけど

そういうのも全部「なりゆき」だ。

無限の可能性と不可能性を排除することなど、誰にも出来はしない。

すべてを流れのまま受け入れるしかない。

我々は、何も選べはしないのだ。


すべては「反射的行動」だ。

ひとは、考える前に「反射」で行動している。

だから、ただその瞬間瞬間を精一杯「反射」して行くだけだ。


ただ、これは絶望的な考えではない。

何故か?というと、実は僕は、その「反射」の中にこそ

「自由意志」を行使できる隙間がある、と思うからだ。


気合を入れて、

ほんの一瞬も気を抜かずに生きる。

何が起こったとしても、正しく「反射」できるように、自分を律するのだ。

そうすることによって我々は向上できるし、

そのことによって、「ペイン」も「エントロピー」も殺せる。


最終的に、そのことの積み重ねが「なりゆき」の流れに一石を投じることになる。


自分で自分の運命を切り開きながら生きることは可能なのだ、

と僕は考える。




ボーッとしてたら「なりゆき」という名の運命論に押し流されてしまうけど。













今日の結論は・・・嫌ぁ~な奴にはなるまい、ということだ。









それだけだ。













写真は、こないだ配ったチラシ。


ROCA’66、次はいよいよ、現・十三ファンダンゴでの最後のライヴ。

2019年、7月10日、水曜日。


最高に「いい」奴等、怒髪天と再会できる。




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