「ブレードランナー」について思う

2010-07-05 16:42:37 | Weblog



SF映画の名作「ブレードランナー」を観たのは

多分、もう20年以上前だっただろう。

佐治と一緒に、ビデオで観たんだったと思う。


そのずっと後に原作者のP・K・ディックのファンになったので、

ふと、今の俺の目で「ブレード・ランナー」を観たら

どう見えるのだろう?と思い、

DVDを借りてきて再見した。

「ディレクターズ・カット・完全版」である。


・・・・・・こんな話だっけ?

原作である(はずの)

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

とだいぶ違う・・ってか全然違う。

しかしアンドロイド(レプリカント)達が何とまぁ

・・・「パンク」だこと。

”「サイバーパンク」の代表作”とかって言われてるし。

2019年のロスアンゼルスはほとんど大阪か上海だ。

アメリカはアジア人や漢字文化に完全に侵食されていて、

レプリカントたちは妙にパンキッシュで、全員白人なのだ。

思うんだが「パンク」ってすごく白人的だ。

日本人にはどうやっても似合わないような気がする。

「パンク」って、アジア的なものから

いちばん遠いものである・・ような気がする。


「マッドマックス」もそうだったのだけれど、

近未来の不良”ってパンクのイメージだったのだ。

「北斗の拳」の悪役とか(笑)。

それはロックの一大ムーブメントであった

あの「パンク」とは関係ないように見える。

その「パンク・ロック」も、

イギリスにも、アメリカにも、一瞬しか存在しなかった。


残っているのはスタイルだけだ。


21世紀の今も、低脳な不良たちは「パンク」なんかではなく

「ヤンキー」スタイルのままだ。


俺たちも、土着的なアジア人のまま。

でもそれは悪いことではないと、

今は思うのだ。




映画は小説とは別物だったけど、

それはそれでよかった。

ディックはこれを見て、どう思っただろうか。

公開前に亡くなってるみたいだから、

きっと・・完成版は見てないんだろうなぁ、


コメント
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