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この世の謎2/三島由紀夫の「世界の解釈」

2016-06-28 17:20:24 | ヨガ・スピリチュアル
年のせいもあるのだろうが、近年、この世のからくりを知りたいと切に願うようになった私、そんなとき、先の帰国滞在時金沢の図書館で三島由紀夫論(三島由紀夫『豊饒の海』VS野間宏『青年の環』―戦後文学と全体小説 <新典社選書、2015/11/9、井上隆史>を読んだ。
読んだといっても、野間宏論と抱き合わせになっていたため、付設のカフェで三島論のみざっと目を通しただけだが、「豊饒の海」全四巻論が興味深かった。

三島由紀夫はこの絶筆となった長編小説を、彼なりの「世界解釈」と生前述べていたとあったからだ(私はやたらに時間を追つてつづく年代記的な長編には食傷してゐた。どこかで時間がジャンプし、個別の時間が個別の物語を形づくり、しかも全体が大きな円環をなすものがほしかつた。私は小説家になつて以来考へつづけてゐた「世界解釈の小説」を書きたかつたのである。幸ひにして私は日本人であり、幸ひにして輪廻の思想は身近にあつた/三島言)。
三島の世界の解釈とはいわゆる、かなりヒンドゥ哲学体系に近く、つまり現世はマヤ(幻影)で、死後の世界はあり、転生を信じるという説だ。
これは、私自身の世界の解釈にも近い。

うろ覚えながら、量子論では、世界は見る人間がいることによって成り立っており、認識者がいなくなると、物の形状や色は存在せず、単なるエネルギー粒子の塊にすぎないといっていた記憶があるのだが(たとえば、満月、見る者がいるから丸い月の形状・色をとっているが、認識者が一人もいなくなれば、単なるエネルギー粒子にすぎない)、目をつむれば確かに世界は消える、この世に確かなものは何ひとつない、すべては夢幻、そのことを如実に示していたのが、豊饒の海第四巻の「天人五衰」の最後のシーン、月修寺門跡(俗名綾倉聡子=伯爵家令嬢、22歳で出家)の言葉、彼女は若い頃の禁断の恋、20歳で夭折した侯爵家の一人息子松枝清顕との子までなした(堕胎)恋愛事件をまったく覚えていないのである。つまり、聡子にとって、清顕との恋はなかったということ、とぼけているわけでなく、亡失しているわけでもなく、このラストにはぞっとさせられたものだ(すべては、清顕の親友であった本多の潜在意識のなかの妄想だったとの解釈もある)。一体どういうわけだと読者を唖然とさせる、戦慄と衝撃のシーンなのだが、私もこのごろ、この世の実相というのはなにもなくて、現実はすべて夢なんじゃないかとの思いが一再ならずきざすようになった。で、夢である以上、死んだら目が覚めるのではないかと漠然と思ったりする。

三島の衝撃的な割腹自殺については諸説あるが、男色心中説というのが真偽はともかくも、一番興味深かった。私自身は、若い頃、こんな風に解釈していた。現世はマヤと信じ、転生を信じていた三島はわが肉体をもって死後の世界の存在を実証したかったのではないかと。荒唐無稽と思われたら、ご容赦いただきたい。私は、三島が愛人の森田必勝に介錯されたあと、肉体から離れた霊魂(幽体)が首のない死体を見下ろし、カカカと哄笑しながら、ほうれみろ、俺はやはり生きていた、霊魂は不滅だ、三次元の肉体は消滅しても、俺はきちんと生きているぞと、自分の実験が成功したことに狂喜したような気がしたのだ。

恋人関係ではなかったが、三島と深いつながりがあった丸山(現美輪)明宏は(江戸川乱歩原作、三島脚本の「黒蜥蜴」などに主演。三島に「君の欠点は俺に惚れないことだと」と言われた)三島の死後、ある霊能者を自宅に招いたとき、「うわあ、首のない死霊が座敷に坐っている」と恐怖におののかれたエピソードを語っているが、それがほんととするなら、私の説はとんだ邪推で、三島の霊はトラウマを抱えたまま、昇天できずにいたということになる。ご母堂が愛息の夢をよく見て、それが死後も懊悩から解き離れぬ痛ましい悪夢だったといわれ、寝覚めが悪いのでさらに手厚い慰霊を請うたとの逸話も、何かの本で読んだ。

世界は見る人各自によって様相が変わる、みなさんは、この世という世界をどのように解釈しているだろうか。死後の世界の証言は、霊媒越しか、臨死体験者でない限り、予測がつかないのだから、死というのはいつやってくるかわからない、誰にとっても未知の恐怖の体験、西丸震哉(食生態学者、エッセイスト、探検家、登山家)が医者だったお兄さんの臨終に際して、死後の世界があったら必ずシグナルを送ってくれと最期に約束させたそうだが、ついにそのシグナルは来なかったともいわれる。

余談ながら、この一月に亡くなった伝説的ミュージシャン、デヴィッド・ボウイ(がんのため一年半の闘病後69歳で死去、遺言どおりバリ島で仏教式火葬に付された。若い頃チベット仏教に傾倒していたせいといわれる)は、人生の謎を解いて?逝ったのだとか。
私も全部とは言わないまでも、からくりのいくつかは解いて、ある程度納得した上で逝きたいと思うが、煩悩ゆえそれもかなわぬことか。
世界の実相がわからぬまま、別次元の虚無へと呑み込まれていくのみ。
それにしても、あまりにもこの世は謎が多すぎる。

無限ともいうべき宇宙、地球、人間、地球外生物の存在、私たちはどこから来てどこへ行くのか、なんのために生まれてきたのか、連綿と続く血脈の一環・子孫の繁栄・進化、それだけのためだろうか。使命はあるのか、いわゆる魂の修行? 宇宙は誰が創ったのか。ヒンドゥ哲学では、宇宙の意識(神)が想像し、宇宙意識のその想念が物資化されて出来上がったとされるが、想念からこしらえた物質だけにいつか必ず消滅すると。
この世にある物体は、誰かが考えて、つまり想念から生まれた想像の産物であることを思えば、宇宙が物質化するには、大元の想念がなければならない、それが宇宙意識、大意識だ。わかったようなこといってるが、私にもこの説が正しいのかどうかわからない。そういわれればと、おぼろげに納得するだけだ。

なんだか手に負えない命題になってしまったというのが、結局この記事の結論です。


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