インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

撫子戦争3(短編小説)

2017-04-21 19:49:24 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

          三

 モンスーンの走りの一番雨が黒雲の嵩の陰から、ぱらぱらと降りかかる。ミッドサマーの最後の悪あがきにも似た、ここ数日のオーブンに蒸されるような熱気が一気に和らぎ、雨露に打たれたガンジス河から爽やかな涼風が吹き抜けてくる。今日は「撫子会」の四度目の会合、巡り巡って自分の番が来たこともあって、貴緒は朝から居間の掃除に余念がなかった。ベランダから流れてくる心地よい河風につと手を休めた拍子に、電話が鳴った。夏美からで、浩子の体調がどうも思わしくなく、今回はお流れとの通知を受けた。
 その場で早速貴緒が提案し、とるものもとりあえず、午後夏美と連れ立って見舞いに駆けつけたところ、浩子は憔悴した顔色でベッドに寝たきりになったまま、うんうん唸っていた。傍らに夫が神妙な面持ちで座り、妻の症状を心配げに見守っていた。貴緒はこれまでニキールとは挨拶程度の会話しか交わしたことはなかったが、間近で仰ぐと、巷で噂されているようなジャンキーにはまるで見えず、人のよさそうな性格に思われたので意外さを禁じえなかった。
 浩子は気遣って現れた先達妻二人に、
「わざわざありがとう。でも、何でもないのよ、ちょっとおなかを壊しただけだから」
 と強いて笑いを取り繕って答えたが、声は弱々しく、額にはじっとり脂汗が流れていた。下腹の辺りに激痛が走っているものとみえ、手でかばうように押さえると、海老のように細い体を折り曲げて痛みをこらえている。浩子が応対するのも辛そうにしているので、二人は面会を早々に切り上げて部屋を後にした。
 戻る道すがら、薄々何かに勘づいているらしい様子の夏美が、少し躊躇した挙句、あけすけに洩らした。潜めがちの声で明かされた事実は、同性の貴緒をして震撼させるに足るものがあった。
「実はね、浩子ちゃん、つい最近、子供を堕ろしたばかりなのよ。本人はすごく産みたがってたらしいんだけど、ご主人が生活の目処が立たないから、当分子どもは持てないと頑固に言い張って、無理矢理にって話。たまたま私の係付けの産婦人科医が担当したもんだから、その経由でこちらに話が流れてきたってわけ」
 気まずい沈黙が流れた。バザールの入り口で待ち構えていた自家用車におもむろに乗り込む夏美を、貴緒は言葉少なに送り出した。
 
 遅ればせながら「ペンション・タカオ」の一階で四度目の会合が催されたのは、それからひと月半後のことだった。身体的ショックからは立ち直ったかに見えた浩子だったが、夏美のおなかが誰が見てもそれとわかるくらいに迫り出しているのを目の当たりにすると、自分の意に反して第一子を下ろしてしまった苦い記憶が蘇ったようで、顔を落として暗く沈んだ面持ちになった。
 浩子の内心を察して、貴緒は夏美のおめでたを口にするのは避けたのだが、何かの話のついでに本人自らが、
「私、今度は女の子が欲しいのよねぇ」
 と幸福そうな笑みとともに含羞んで洩らし、浩子の反応を気遣うあまり、貴緒は生返事で相槌を打つのみにとどめたのだが、さすがに浩子は黙り込んでしまった。鈍感な夏美も自分の失言にはっと気づいたようで、その場の気まずさを取り繕うようにとっさに立ち上がると、やおら張り出しベランダまで歩を進め、
「ほんと貴緒さんとこって、ロケーションだけは絶好よねぇ」
 ととってつけたように放った。その口調に設備はお粗末だけどという暗にシニカルな響きを感じ取った貴緒はかちんと来たが、辛うじて感情を抑制していた。
 そこへ、いきなり入り口のカーテンが割れて、陽に焼けた旅行者の顔が覗いた。
「お話し中すみませんが、エミコが下痢が止まらないって言ってるんですけど……」
「ああ、シンちゃん、インドの通過儀礼だから、心配することないわよ。今、下痢止めとぶどう糖顆粒持っていくから」
「お手数おかけします」
 面倒見のいい肝っ玉女将として慕われている貴緒は、頼ってきた客を無下に追い返すこともできず、
「ごめん、ちょっと席を外すね」
 と二人に断って、救急箱を手に上がっていった。一段落して降りてくると、また別の宿泊客が相談事があると言って、ひっきりなしに顔を出す始末だった。
 初回の会合時はアナンドが上に居て取り仕切ってくれたおかげで妨害されずにすんだが、生憎今日は所用で外出していた。次々に現れる客の一人とは夏美も一面識があったようで、「あら、あなた、アーグラーに行ったんじゃなかったの」、「いや、ちょっと気が変わって」と白けた応答、貴緒は彼が「サマー・リゾート」から流れてきた客であることにはたと気づく始末であった。
 明らかに気分を害したらしい夏美が、
「今、日本人何人くらい、泊まってるの」
 憮然とした声で訊いてきた。
「オフだから、十五人ぽっきりよ」
 商売敵の偵察意図を承知の上で、貴緒は二、三人水増しした客数をしゃあしゃあと言ってのける。
「オフでも十五人なんて、さすが老舗、ネームバリューのあるペンション・タカオならではねぇ。シーズンともなれば、五十人近くが寿司詰め状態、ベッドが満杯のため床に雑魚寝って話も聞いたけど。ほんと羨ましいわぁ!でも、狭いところにぎゅうぎゅう詰めって、唯でさえ暑いインドなのに、寝苦しくないのかしらね。私なら、冷房なしではとても眠れそうにないわぁ」
 貴緒に負けず劣らず勝ち気な夏美は悔しそうに、憎まれ口を叩くのであった。が、実情は、夏美と違って客を引いてきてくれる車夫には一切手数料を払ってない経営方針のこともあって、本来はタカオの客の半数以上がサマー・リゾートに流れていたのである。リッチな年配客層はバスタブ付きのお湯の出る冷房完備の部屋と日本人妻手作りの和食という触れ込みに惹かれてサマー・リゾートを目指したし、低予算の旅慣れたバックパッカーは設備は整ってないけど、ガンジス河が真ん前という地の利と女将のユニークな個性が売り物のインド臭いタカオに沈没した。とはいいつつも、両宿間で客が流れるのは必至で、いちいち過敏に反応してられないほどだったが、やはりつい数日前まで自分の所に泊まっていた客がライバル日本人宿に移動するのはかなり不愉快なもので、貴緒自身、幾たりとなく苦い辛酸を嘗めさせられてきた。何せ、旅行者必携の「世界の歩き方」というガイドブックには双宿の推薦文が掲載されていたため、人気を二分、ほぼ互角の戦いを繰り広げていたといってもよかったのである。
 貴緒は夏美の内心の不快を慮って、少しおもねるように放った。
「何といっても、あなたんとこは、設備が整っているから、快適志向の旅行者には人気抜群よね」
「残念ながら、インドに来る旅行者の大半は、貧乏バックパッカーだけどね」
 全くああ言えばこう言うで、かちんと来た貴緒はさすがにむっと口を噤んでしまった。
 挙げ句の果てに、夏美は、
「うちなんか、貴緒さんとこにはとても叶わないわよーっ」
 負け惜しみ同然、厭味たっぷりに放つのだった。以後、しばし無言で睨み合う体勢が続いた。その刹那、険悪な空気を破るように、どこからともなく、旅行者同士のあけすけな会話が洩れ聞こえてきた。どうやら階上のベランダ越しからのようだと気づいた二人はほぼ同時にテラスへ進み、とっさに上を仰いだ。
 ――今、下にサマー・リゾートの奥さんが来てるんだよ。ばったり鉢合わせしちゃって気まずいのなんのって、参ったよーっ。チェックアウトするとき、タカオに移るとは言い辛くて、アーグラーに行くと嘘ついて出てきたもんでさ。
 ――サマー・リゾートってどう? 結構人気あるけどね。
 ――うん、バスタブ付きでお湯は出るし、冷房完備だし、奥さん手作りの日本食もめちゃうまいんだけど、あそこにいると、どうも今一つインドに来てるって気がしなくてね。雰囲気がないというか、個性がないというか、あまりに快適すぎてこもりがちになってしまうのもよくないし。
 ――へえ、奥さん、かわいらしいって評判だけどね。
 ――まぁ、人それぞれ、好みだから、一概には言えないけど。そのうち泊まってみればいいじゃん。両宿試す旅行者も、結構多いって聞くし。女将に関して言えば、俺個人はタカオさんのさばさばした気性の方が好きだけどね。
 階下で対抗意識をちらつかせながら牽制し合っていた二人は、一瞬にして白けた空気が立ちのぼるなか、きまり悪げにすーっと視線を逸らし合った。置き去りにされた浩子は先達二人の見苦しい交戦も目に入らなかったかのように背後のソファに陣取ったまま、半ば上の空で物思いに沈んでいた。体の傷は癒えても、いまだ心の痛手は癒されてないようで、貴緒は発足人でもある浩子の感情を思いやらず、大人げない攻防をひけらかしたことがさすがにきまり悪くなった。

 浩子がどうにか一人分の渡航費だけ工面した挙げ句、単身母国へと飛び発っていったのはそれからまもなくのことだった。
「日本で半年みっちり稼いだら、また戻ってくる。旦那一人くらい、私が養ってみせるから」と気丈に言い置いて。以後「撫子会」は自ずと中断された形となり、貴緒と夏美の仲もまた以前通りの、疎遠な間柄へと戻ってしまった。そもそもの発起人は浩子だったのであり、その当人がいなくなってしまった以上、会の存続意義は失われたも同然だった。商売敵である二人の日本人妻の仲介役を務めてくれた浩子が失せた今は、関係は一気に冷え込まざるをえなかった。貴緒は、夏美とは所詮水と油で相入れず、心を割って話せる真の友人にはなれないことは最初からわかっていた。ベナレスでホテルを経営する日本人妻という同じ境遇に立たされたのはあくまで偶然のことで、そこだけ取って仲良くしろというのは、無理難題にも等しかった。
 世代の差もさることながら、両者の生活態度があまりにかけ離れ、拠りどころとする人生観の極端な相違が浮き彫りになっていたことも挙げられる。貴緒は時たま、夏美がなぜ、貧しい後進国であるインドくんだりにまで移住し、大して金にもならぬホテル業など営んでいるのか、その理由が不可解に思われることがあった。結局のところ、夫がたまたま、インド人であったという唯それだけのことでしかなかったのではないか。
 夏美がベナレスに移住しホテルを経営しなければならない必然性とは偏えに、その一点のみに絞られるような気がした。何せ、夏美は結婚する前は一度としてこの国に足を踏み入れたことはなかったのであるから。お嬢様の常で欧米方面にはよく出かけていたらしいが、インドという国は脳裡から完全に除外されていたのである。現地人ウェイターとの降って湧いたような恋愛事件、男女関係の免疫のできてない過保護に育てられたお嬢様だっただけに、ころりと言いくるめられた形での国際結婚へ踏み切る羽目になったものと思われる。
 そして、夫の意志に引きずられる形で、事前にベナレスを一度も見ず仕舞いに移住を決めたのだった。この地に人一倍思い入れのある貴緒には、その辺のところがどうしても納得がいかなかった。ガンジスという生死の営みが繰り返される悠久の大河、一見すると泥水のように薄汚い河は聖なるものとして崇められ、遺灰が撒かれると輪廻の鎖を断ち切って極楽往生できるとの言い伝えを信じて、巡礼旅行者がインド各地から引きも切らず訪れる。三島由紀夫の「暁の寺」の舞台ともなったこの地に以前から強い関心を抱いていた貴緒は一旅行者として入り、河岸の火葬場であからさまな露天の下死体が荼毘に付される現場を目の当たりにし、己の内側で何かが大きく弾けるのを感じた。それは、これまで日本という文明社会で培ってきた価値観が一挙に覆されるような意義深い出来事だった。ここに住みたい、と貴緒はなぜか強く思った。この河のほとりに暮らして、朝に夕にガンジスの聖なる太陽を拝みたいと。インド人夫も、日本人旅行者対象の民宿も、足繁く通ううちにあくまで後からついてきたものだった。
 が、貴緒はふと、こうも思う。自分のように厄介な思い入れがない分、夏美の方が却って長続きするかもしれないと……。ここは確かに苛酷な異国の風土にはちがいなかったが、五年という歳月を費やして日本の環境を見事に作り上げてしまった夏美としては、そのぬくぬくした自分の領域で、余計なことは一切思い煩わらず良家の若奥様として贅沢三昧の生活を堪能してさえいればいいのだ。この国は、使用人も安く使えるし、お金持ちに対しては甘く優しいのである。路頭に溢れる乞食や町の汚さ、貧困や未発達という現状に関してはあえて目をつぶって井の中の蛙に徹してしまえばいい。自己の領分内でぬくぬくと守られて暮らしている以上は、外の苛酷さは一分ほども夏美に影響を及ぼしはしないだろう。
 すべて父親の金力とはいうものの、この物事が遅々として捗らない大変な国で易々と四階建てのホテルを建ててしまった夏美、日本の環境を完璧にこしらえ上げてしまったそのキャパシティについては、いくら貴緒が不快でも、認めざるをえない事実だった。
 結局のところ、夏美と自分の根本的な違いは、夏美には赴任者の奥様も務まるインサイダーで、自分は日本社会から逸脱したアウトサイダーということだった。

 ベランダから半身を乗り出してとうとうと流れる母なる大河、ガンガーの心地よい河風に吹かれていると、降りに降り積もった俗世間の垢が肉の襞の隅々まで洗いすすがれていくような清々しさに見舞われる。この地に初めて降り立って河の洗礼を受けた日から、ベナレスは貴緒にとって特別な地になったのであり、本能のままに住み着くことになってしまったのだ。
 貴緒は、アナンドに優るとも劣らず、彼が先代から譲り受けたこの河に臨む古びた屋敷を何よりも慈しんでいた。毎早朝、河の向こうに昇り初める真っ赤な朝日を拝むとき、身震いするほどの敬虔な感動に身が引き締まるのだった。ここは、本当に美しい土地だった。乾季には、とろりと清涼な翡翠色にまどろむ久遠の流れが、雨季ともなると、ベランダの手摺のすぐ真下まで嵩を増し、濁った黄土色の水がとうとうと溢れるのだった。貴緒は、季節ごとに変わる河の表情をこよなく愛していた。
 新市街に住む夏美には、貴緒のガンジスに対する言葉に尽くせぬ愛情のほどは間違っても汲み取ってもらえぬだろうと思うのであった。何より、あそこは、インドでなく、日本だった。あの敷地内に足を一歩踏み入れるや、快適な文明社会の環境が繰り広げられるのだ。インドに十年以上暮らした貴緒がその過程で悟ったことは、不便さを通してしか生活の基本は学べないという真理だったが、夏美には恐らく、何年ここに暮らしてもこの真理は悟りえないだろうと思うのだった。

につづく)

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