インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

バンカラ四高生奇譚2(短編小説)

2018-07-28 15:27:44 | E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)

   二 怒涛の歓迎ストーム

 県外者は原則として入寮することが定められていたため、私も入学式前日に本館校舎の後部右手にあった三棟から成る木造二階建て・黒瓦屋根葺きの「時習寮」に入りました。1893(明治26)年10月に建設された同寮は、論語の『学而時習之。不亦説乎』(学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや)にちなんで命名された歴史ある建造物で、寮内は自治体制が整い、選挙で選出された委員長、副委員長はじめの風紀委員らが統括しており、週に一度は舎監を務める教官が寝泊りしていました。
 私は南・中・北寮とあったうちの中寮の一階三号室に入室、八名の同居人がおり、両端が寝室で、はさむ形で中二部屋が椅子・本棚付きの机の置かれた自習室といった造りで、二階建ての一棟には八部屋、計五、六十名が寝食を共にしておりました。
 一階の四室に収容された新入生はその半分に満たないくらいでしたが、驚いたことには板戸や廊下の壁、天井、ガラス窓に至るまで、びっしり落書きで埋め尽くされていました。代々の入寮者が残していったものらしく、室内にも墨書きの『超然時習』、『至誠自治』の紙がべたべた貼ってあり、『人生とは反逆なり』、『卑俗と闘い、情熱に生きん』などの故事・警句の類い、『恋とは何ぞや 天上の詩なり』、『すべからく高校生は恋愛すべし。愛する人を求めよ。恋愛せざる者は人生に生きる価値なし』といったごとくの気恥ずかしいような恋愛論から、意味不明で難解な哲学論、独逸語で書かれたゲーテの詩、果ては四高生の肖像を描いた似顔絵といった漫画・パロディ類に至るまで、若人の熱き血潮のほとばしりにも似て、赤裸に書きなぐられていました。
 学科の異なる八名の新人が寝食を共にする畳敷きの和室には、両壁際に棚が上下二段設置され、一番上に布団を収め、二段目に衣類を置く仕様になっていました。大部屋とはいえ、八名の男子、なかには大柄な者もいるわけですから、実際生活してみると狭かったんですが、当初は荷物など置かれておらずがらんとしていたため広く感ぜられました。同室者と軽く名乗り合って、棚に持ち物を置いてまもなく、茶寮と呼ばれる集会所で午前九時から入寮式が行われる旨、委員によって告げられ、全員手を止めてぞろぞろと向かいました。
 壇上ではまず舎監のご挨拶、次に寮委員長、副委員長の歓迎演説、さらに風紀委員らによる寮生活の心得など、こんこんと諭され、寮歌・北の都や応援歌・南下軍の歌の度重なる練習など最初からいやおうなくしごかれ、四時間あまりも椅子に釘付けにされました。空腹で倒れそうだった私たちにとって、やっと長たらしい演説や説教から解放され、昼食にありつける時間がやってきました。いそいそと待ちわびる目前に、歓迎の宴ということで赤飯が供されました。金沢名物ののどぐろの焼き魚や治部煮がうまかったですが、大食いの自分には物足りなく思ったことです。

 食後は休憩して自室で整理再開、ようやく済んで待ちかねた五時からの夕食の時間となりましたが、これが豪勢にもすき焼きで、競って肉の取り合いをしているうちに終わりました(翌日からの食事は部屋で円座になって分かち合う形式となりましたが、十代後半の食べ盛りの若人ゆえ、お菜が物足りず、せめてご飯だけでもと競って食べたので、すぐおひつが空になったものです)。
 学部もさまざまな同期との、これから始まる寮生活や学生生活への期待や不安の思いを打ち明けあいながら、雑談しているうちに、夜の七時からの歓迎レクリエーションの時間となり、茶寮で菓子皿とジュースを供されつつ、十時の就寝時刻間際まで上級生の演説する哲学じみた講演や難解な芝居の鑑賞を強いられました。そして、最後にまた全員で寮歌と応援歌を高歌放吟させられ、やっと放免されました。
 慣れない寮制度には面食らうことが多く、これからどうなっていくことかとの不安を胸に一同部屋に戻りました。長い一日で、疲労がたまっていたため、部屋の隅に布団をさっさと敷くと、寝巻きに着替えてすぐ横になりましたが、誰もが長たらしい歓迎行事に振り回され、声もないほど疲れきっていたため、おやすみと挨拶し合っただけで就寝しました。まもなく十時半の消灯時刻になり、すぐに部屋は真っ暗になりました。
 入寮したての緊張感が抜けず、輾転反側するうちに睡魔がやっと襲ってきて、いぎたなく眠りこけていた夜半、室外にものすごい音が鳴り響きました。私はびくりとして跳ね起きました。いったい、何が起こったのやら、耳をつんざく太鼓の乱打に混じって何やら金物(あとで鍋とわかりました)をがんがん叩くようなまがまがしい音響、壁を棒でびしばし叩くような物音も聞こえてきます。
 全員起き上がって、不安げに見つめあいました。そのとき、ぱしんとガラスの割れる物音がして、縮みあがりました。続いて寮歌の「北の都に秋たけて」の野太い咆哮、同室の一人が「ストームだ!」と叫び、その意味を解するまもなく、戸が乱暴に引き開けられ、上級生十数名がどっと下駄履きのまま室内になだれ込んできました。恐ろしさのあまり、とっさに布団を引き被った上から棒でびしばしやられ、たまらず呻いていると、無理やり布団をもがれ、寝衣をはだけられました。
 先輩たちも半裸のふんどし姿で蛮声をあげて、暴れまくっています。一人、坊主頭に鉢巻を勇ましく締め付け、黒羽織・はかま姿で『超然』と染め抜かれたのぼりを軒昂に振り回している、昼間見た応援団長と思しきいかつい大男もおりました。
 たちまち、おろしたての布団には下駄の歯の汚れの跡が点々とつきましたが、惨めがっているまもなく、枕が蹴球のように飛んできて、乱痴気騒ぎ極まりました。狼藉者は棒を振り回しながら部屋をぐるぐる回って、やりたい放題、荷物はめちゃくちゃに放り出され、室内はちらかり放題の惨状になりました。
 あまりの横暴さに息を呑まれ、応酬のしようもありませんでした。が、同室の一人はとっさに水差しを摑むと、上級生に投げつけて、堂々歯向かっていました。しかし、大勢の蛮行にはかなうはずもなく、まもなくこてんぱんにのされてしまいました。ルール違反の酒を無理矢理こじ開けられた口中に注ぎ込まれている者もおり、中学の初期二年間柔道部に所属していた私とはいえ、青あざを作っている者や赤い顔で悪酔いしている者を見て、腰砕けになって、先輩に技をかける余裕もありませんでした。
 恐怖の一夜が明けて、午前五時起床、眠い目をこすって、六時半までに朝食を済ませ、本舎の講堂へ向かいました。昨夜の衝撃がいまだ覚めないなか先輩に活を入れられ、恐々入学式に臨みましたが、グラウンドから見晴るかす金沢城址の桜が薄くれないの雲を満々とたなびかせている美景に、寝ぼけ眼もかっきり開いてしみじみ眺め入って感激、怒涛の入寮洗礼をどうやら無事通過した自分を褒めてやりたかったです。
 四高のシンボルである四稜の北極星、北辰の校章付き白線二条入りの学帽を誇らしげに被り、桜が浮き彫りになったボタンが五つついた詰襟学ランに身を飾って、颯爽とマントを引っ掛け下駄履き姿で瀟洒な西洋式建築の講堂・至誠堂に参列、中は教会のような厳かな雰囲気で、木のベンチが縦に数列並び、右手上方の壁に『至誠』の扁額がかかっていました。
 神妙に腰掛けた新入生で埋め尽くされたなかに空席を見つけて私も座りましたが、昨夜の大騒ぎで一睡もしておらず、校長先生の祝演説を拝聴するものの、長たらしく、ついこくりと船をこぎそうになるのを自戒するのに一苦労でした。
 指導教官その他の挨拶もやっと終わって、直立姿勢で校歌斉唱の段になったところ、これが「朝(あした)に仰ぐ白山の」で始まるはずの校歌が、昨日さんざん叩き込まれた威勢のいい応援歌で、どうなってるんだろうとびっくりしたものです。後でわかったことですが、式典ではなぜか校歌は歌われず、校歌は歌えなくても応援歌や寮歌は歌えるという学生がほとんどだったんです。とっさに覚えたての応援歌・南下軍の歌、「啻(ただ)に血を盛る……」を舌足らずになぞったものでした。おうという勇ましい掛け声がはさまれた、血気盛んな若人にふさわしい意気軒昂な歌で、そうするうちに、春爛漫の晴天下入学気分もいやがうえに高まっていきました。
 その夜は、昨夜のお返しに、返礼ストームと称するお礼参りに勇んで向かったことはいうまでもありません。そういう慣例があると予備知識を持っていた同室者に雪辱戦を晴らそうとそそのかされ、このままでは元柔道部の名がすたると、二階の上級生の部屋に奇襲をかけたのです。新入生が返礼ストームに来ると心しているはずなので、室外では静粛さを保ち、問答無用でいきなり闖入、虚をついたところを、勢いに乗ってさんざん喚き立て、布団をはいで万年床の上を下駄で散々踏みつけにしてやる報復、寝巻きをはだけたり、枕を投げあい、棚のものは全部投げつけ、乱暴狼藉の限りをやってのけ、少しすっとしました。
 中学気分の抜け切らぬ青臭いひよっこの気勢に呑まれていた先輩たちもはっと目が覚めたらしく、たちまち応酬してきました。狼藉放題に刺激されてむんずと摑みかかってきた先輩にも来るなら来いととっさに腕をとって背負い投げに持ち込もうとしたら、相手が悪すぎ、黒帯の持ち主、寝技をかけられ身動きできぬよう取り押さえられてしまいました。またしてもこてんぱんにのされてしまい、悔しく情けなかったです。
 最後は先・後輩の区別なく、もみくちゃになって大騒ぎ、中庭で寮歌をスクラム組んで高歌放吟して円陣ロンド、どさくさに紛れてホースの水がどこからともなく雨のように降ってきてびしょ濡れになりながらも蛮声を張り上げ、まことに強烈なストームの応酬しあいでした。

 やれやれ、これで終わったとひと息ついていた翌日、そうはとんやがおろしませんでした。予想だにしなかったことには、先輩たちからのさらなる返礼ストームがあり、しかも今度は趣を変えた説教ストームというやつで、一階の部屋に乗り込んできて、一人ひとりに自己紹介させ、声が小さいとか明解でないとか難癖つけて小突き回すんです。あげくに、またしても寮生活の心得をとくとくと説かれ、廊下に張り出された訓示をひとつずつ声をあげて読まされた後、先輩に忠誠を誓う固めの盃と称して、いやおうなく回し呑みさせられ、最後は恒例の寮歌放吟、ほとほと疲れ果てました。初めて呑んだ日本酒は苦くてまずくて、アルコールを注がれた胃の腑がきゅっと熱く焼けたものです。
 このまま延々と応酬が続くのかと思うと、さすがにその翌日はぐったりして応酬する気力もありませんでしたが、二階の部屋から天井越しにどかんどかんと大股歩きの足音が響いてきたので、ほうきで天井のそこかしこをつついて、合図返しをしてやりました。この程度の少ストームならまだしも許せますが、突如中庭に整列させられて、寮歌を歌わされるのがほぼ毎日なことには閉口しました。
 ガラスを割ったりの破壊行為もまれでなかったわけですが、弁償は全部自分たちの手でまかなってました。よほどのことでもなければ、舎監に頼ることはめったになかったですが、戒める舎監と自治委員はよく言い争いになったものです。
 もうひとつ特筆すべきは、「寮雨」です。ある夜窓を開けて、夜空を仰いだら、顔に降りかかるものがあって、雨かと怪訝に顔をあげたら、二階の窓から半裸の先輩が放尿しているのに仰天しました。臭い小水を頭から振り掛けられた私が以後、懲りて、夜中に窓を開けないようになったことはいうまでもありません。便所が遠いので、不精して窓から排泄するというお行儀の悪さでしたが、そのうち酒の味も覚え、夜など酔っ払ってくると、私自身一階の窓から放尿したりして、マナー違反由々しきことでした。
 寮の一大イベントである寮祭筆頭に、ストームといい、寮雨といい、毎年卒業生の有志が自ら作詞作曲して巣立っていく寮歌といい、寮文化ともいうものがあって、今思えば、専攻も違い、年齢も違う先・後輩が入り乱れての集団生活は、規律を学び、和を尊び、切磋琢磨しあい、鍛え抜かれていやおうなく自立精神を叩き込まれるという、得がたい人生勉強になりました。
 歓迎ストームのすさまじさにはさすがに絶句しましたが、振り返れば、とてつもなく愉快な出来事でしたね。鬱屈した青いエネルギーの吐け口になったというか、血気盛んな若者の気炎を思う存分あげて痛快そのもの、すっきりしたともいえます。
 
 英語の嵐に由来するストームは、四高に限らず、どこの旧制高校でも行われている乱痴気騒ぎの一種で、若いエネルギーの放出ともいうべき蛮行、寮の名物行事でした。予備知識のあった同期に比べ、まったく無知だった私はのっけからしてやられてしまったわけで、それだけに衝撃も人一倍だったのです。
 ストームにはこのほか、寮内のみならず、街に出て無警告で気炎をあげる街頭(まち)ストームや、市民も参加して一緒に大騒ぎする市祭ストーム、グラウンドや内灘の浜で焚き火を燃やすファイヤーストームまであることを知り、以後は新入生ながら、率先して街中で奇襲をかけ、暴れ回りました。やんちゃな四高生を、金沢市民の皆様はとがめるでもなく、温かなまなざしで見守ってくださり、市電を止めるごとくの極端な横暴に出ても、警察に逮捕されることもありませんでした。
 学都を誇る街だけあって、末は帝国大学への進学が保障されたエリート生として、敬意のまなざしで仰がれ、私たち四高生は実に大事にされたのです。市民の方々の愛情に育まれ、すくすくと伸びやかに青春を謳歌できたのでした。
 もう二度とない、かけがえのない四高時代、人生のアルバムの何物にも代えがたい貴重な一ページ、忘れがたいメモリアルな一時期でした。

3・4につづく) 

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バンカラ四高生奇譚1(短編... | トップ | バンカラ四高生奇譚3・4(... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

E全集(受賞作ほかの全小説作品、2017~)」カテゴリの最新記事