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連載5 水道料金値上げ案に共産党独自で修正案を出しました。 向日市の巨悪に向かって追及!

2019-11-13 | 市民のくらしのなかで

 ■□汚職・談合を徹底追及 ニュースも連日発行

 1979年 定数26 6人当選  計4387票 得票率23・88%

 大橋・西山・辻井・松山・井上・丹野直次の六人となりました。

 一九七八年から全議員に本会議の議事録が渡され、 図書館にも置かれるようになりました。

それまでは、議会事務局に要約筆記の手書きのコピーがあるだけでした。七九年八月から共産党として初めて監査委員に大橋が就任し、議会内役員・三役への道を開きました。

 八〇年水道料金値上げ案に共産党独自で修正案を出しました。

  向日市行政での水問題は、最大の争点であり、

           共産党の政策が市政をリードしました。

 一九八二年から八三年にかけて、向日市の建設事業にからむ三基建設の汚職事件が発覚し関係者が逮捕されました。  この事件を処理する過程で民秋市長は自民党の圧力に屈し、日本共産党と対立する立場になりました。事件の背景ともなった、向日市の建設業界を牛耳る当時の府議の後援会組織「紫紅会」の談合問題を徹底追及しました。

 1983年 定数26 7人当選  計5111票 得票率24・12%

 大橋・西山・辻井・松山・井上・丹野・羽柴経治の七人となりました。  

 八四年 世界平和都市宣言全会一致にするため自民党とも話し合う。

       (自民党の要望を受け入れ、下線部分を挿入)

「世界の恒久平和を実現することは、全人類共通の願いである。
しかるに、今なお核軍備の拡張は、依然として行われ、人類の生存に深刻な脅威を与えている。我々は、今こそ真の恒久平和達成のため、唯一の被爆国民として、全世界に核兵器の廃絶と軍縮を求め、戦争による惨禍を繰り返させてはならない。この人類共通の大義に向かって不断の努力を傾注することは、我々に課せられた責務である。向日市は、長岡京遷都一二〇〇年にあたる本年、人類永遠の平和樹立の決意を表明し、ここに世界平和都市であることを宣言する」 市長提案で全会一致で可決しました。

 八五年 監査請求 旅費返還

 一人でもできる監査請求制度を活用し、保守系議員が市長会主催の研修会(新潟県)途中から会場を抜け出し佐渡ケ島に物見遊山に出かけました。すべて公費だったので「佐渡島の物見遊山」分を返却せよと文書を作り監査委員会に提出しました。保守系議員は大問題になる前に返却しました。

 出張旅費を厳格にするため議会事務局内規の整備が行われました。

八六年 臨時議会を開かせる 老人健康保険法改悪反対決議を多数で可決!

 議席が4分の一以上になると市長に臨時議会の開催を請求することが出来、市長は、議案など要件を整えて議会を開かなければなりません。(開催義務があるのです)そこで国会で論議中の健保改悪反対決議をして国に意見書を提出しました。市長からも緊急を要する補正予算の提案がありました。

 八七年四月二六日投票で行われた向日市長選挙に、大橋が民主市政の会から立候補し、六六〇八票(得票率四二・四一%)を獲得しましたが、共産党を除くオール与党の現職・民秋氏に及びませんでした。「大型間接税(消費税以前の呼称)」に対する態度が最大の争点になり、危機感をつのらせた民秋陣営は、告示直前に選挙事務所前に候補者看板より大きな「大型間接税反対」の看板を上げました。彼は当選後も退職するまで水道料金に消費税をかけませんでした。

 

 ■□八人の議員団と反共包囲網打破の作戦、地下水採取に関する条例可決

   1987年 定数26 8人当選   計5546票 得票率28・03%

 大橋・西山・辻井・松山・井上・丹野・羽柴・山田千枝子の八人となりました。

 二六人中八人を占めるようになりましたが、かえって反共攻撃は強くなり、他会派は、議会内役員を何一つ共産党には渡さないという徹底したものでした。

 共産党としても議会内のことばかりを考えていたわけではありませんが、市民の方から見て共産党が何の役職にもついていないのは議会の中で信頼されていないと見られ、市民の要求を解決していくためにも、なんとしても打開しなければならない問題でした。

 そこで、議員が議長に提出する「所属したい委員会の希望は、できるだけ尊重する」という議会の慣習をふまえ、文教委員会四人、建設委員会一人・厚生委員会一人・総務委員会一人と希望を出しました。四つの委員会に二名ずつ所属するのが「常識」ですが、あえてとった作戦です。

 各会派議員の要望を一覧表にすると委員会は定数どおりきちっと埋まり、それぞれ希望どおりの委員会に所属することに決まりました。文教委員会は共産党議員が過半数となりました。それからの二年間、文教委員会は、委員長・副委員長が共産党で、委員会の活動は、すべて共産党の主張どおり進められました。

 それまで向日市の文教行政は、京都府教育委員会の意向が強く持ち込まれていたのです。議会に提出される議案は、委員会では否決、または、すべて大きな修正にあいました。そのため、市の理事者から議長などに、次回は共産党が四人にならないようにしてほしいという「横槍」がはいったのでした。「府市協調」という市長の公約にひびが入りかねない状況だったのです。こういう選択をしながら、議会内の反共包囲網を少しずつ突破していきました。

 一九九〇年 地下水採取に関する条例可決

 1991年 定数26 8人当選 計5833獲得 得票率29・02%

■□臨時議会を招集し減税提案・総額四二〇〇万円の減税

 大橋・西山・松山・井上・丹野・羽柴・山田・重本信子となりました。

 一九九一年、共産党議員団が独自で臨時議会を招集。バブルで地価が高騰するなかで、都市計画税率引き下げの減税案を提出しました。この議会では継続審議になりましたが、次の議会で市長が税率引き下げ提案をし、総額四二〇〇万円の減税になりました。

 共産党は毎回「議会内役員選挙は、議会の民主的運営の基本・憲政の常道」という考えを主張し続けました。自民党と保守勢力は「政和会」という会派を作り、反共を前面にしたニュースを発行し、二年間にわたって市民と共産党の分断を策動しました。当時、暴力団一和会の事件が週刊誌などをにぎわしていましたが、市民の中では、「一和会より怖い政和会」という言葉が広がり、反共攻撃は市民の中から打ち破られていきました。

 一九九二年 七月、共産党・西山登紀子参議院議員が誕生しました。

 一九九四年 向陽苑用地問題(65ページ参照)

 

 1995年 定数26 8人当選  計5954票 得票率29・46%

  大橋・松山・丹野・山田・重本・北林重男・河原広美・佐藤英子の八人になりました。

 一九九五年 一月一七日、阪神・淡路大震災

 一九九六年 特養向陽苑開設

 一〇月、衆議院総選挙。小選挙区による初めての選挙で、京都三区から立候補した日本共産党の寺前巌さんが五万八四七九票を獲得し当選。向日市は八二八五票で第一党、得票率三七・四%。

 一九九七年 日本共産党・佐藤議員、健康上の理由により辞職(7人となりました)

 一九九八年 四月、京都府知事選挙、森川明候補四一・四% 向日市では四七・八%を獲得。

 

 


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